いつもの散歩コースを行く。狭い坂道を登っていると右手にカブトムシがじっとしていた。おやどうしたのだろう。持っている袋で軽く角の辺りを触れてみた。全然動かない。死んでいる。ちょっと前、2,3日前か、メスが路上を歩いているのを見た。その時はカブトだとだけ思い、手を伸ばすこともしなかった。
カブトムシというのは子供の心を奪ってしまう。こんな形の虫は他にはいないではないか。珍しい、凄いということになる。何でこんな特別な形になっているのか分からない。生きる上で特に必要とも思えないからだ。クワガタムシにしてもそうだ。あんなに大きな牙(顎)は何の役に立つのだろう。その一見役に立ちそうもない装飾的なデザインに心惹かれるのだろう。カブトもクワガタもそれぞれの道具で狩りをしているわけではなく、主に樹液を吸って生きているのだから、栄養を取るための必須の道具ではない。所がである、樹液の出る場所は限られており、活動時間も大体同じである。そうするとカブトにしろクワガタにしても衝突するわけである。時にはスズメバチも来る。硬い羽に小さな穴の開いたカブトムシを見たことがある。スズメバチに刺された跡だとのことだった。
この餌場を我がものとするために、飾りみたいな角や顎が活躍するのである。押し合いへし合いし、角で相手をはね飛ばしたり、顎でつまんで放り投げたりするのだ。そして金色の繊維のような口で樹液を独り占め。また、この飾りはメスに対してアピールするものがあるように思える。昆虫がどのように見ているのか知らないが、目がある以上、少なくとも形は認識しているだろう。そうしたら、その角や顎に注目するだろうし、大きければ強いので、子孫はその形質を継いで繁栄できると、そこまで論理的に考えてのことかどうか知らないが、そのオスを選択するのではないだろうか。選択権がオスにあるのかメスにあるのかについても、何も知らないが、自然界では大体メスにあるのではないだろうか。一見オスにあるように見えて、実はメスにあるという場合がある。理由は簡単。生物はメスが本道、本流、主役だからである。
心を奪われる。自然物、人工物に人は心を奪われる。奪われてきた。これは、そのように脳が出来ているからだ。虫、乗り物、花、金属・宝石、風景、絵画、波の音、音楽・・・ありとあらゆるものに心を奪われる。そのものに価値があるわけではない。だから、対象は時、年齢、環境によって変わってくる。つまり、いつも心を奪われる練習をしているということになる。次の対象に心を奪われる準備をしている。そのようにしておかなければ、心を奪われる心性を維持できない。そして、奪われた心は取り戻せる。奪われっぱなしというのはあまりないだろう。そのようにして心は柔らかくなる。
道にはクマゼミやアブラゼミが死んでいる。カラスに食い残された部分の場合もある。
道端の草があちこちで刈られている。上手にコスモスは残されている。
市の施設の敷地に入って砂利道を歩いていると、最近ない感覚を覚えた。靴に小石が入ったのだ。前の前の靴の時、常に小石が入り困ったことがあった。靴を履く前に靴をひっくり返して中の小石を出す習慣が付いた。足と靴の間が大きく開いていたのだろうか。この新しい靴を履いてから石が入ることがなかったので、人間工学で石が入らないような工夫がなされていると思っていた。それがである。痛くて不快である。すぐに靴を脱いで小石を出す。しかし、どうしてわざわざ小石が入るのだろう。しかも、いつも尖った小石である。歩き方が悪いのか。ひねって弾いて入るのだろうか。或は静電気的な力が作用しているのだろうか。この小石が入るメカニズムを研究している人はいないのだろうか。
寝坊をして、いつもより出発が10分遅れたが、初めて出会う人が多い。人というのは犬を連れた人をさしている。
帰り道を行こうとしない犬に向かって叱っている人がいる。これまでの経験でこれは犬が言葉とこちらの気持ちを分かってくれるという誤解からくる間違った対応であることが分かる。犬は自分に都合良く理解する。犬に限らないが。
調子が悪くなったのか、車で迎えに来てもらっている人がいた。犬か人かは知らない。
初めて会った人同士が犬を介して挨拶をしている。
6時半近くになった。近くの公園に自転車で走って向かっている子供たちがいた。ラジオ体操カードを持って。