「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「さみだれに・・・」

2012年05月16日 | 季節の移ろい・出来事

 

      
                   濃霧に包まれた雑木林

静かな五月雨が一日中続いた昨日。
窓の向こうを飛び交うツバメ。時折羽休めに電線に留まる。
しずくが垂れるほど濡れているのか盛んに羽繕いをする。餌を求める親ツバメに違いない。

  “ さみだれに 羽光らせる 親ツバメ ”

髪は烏の濡れ羽色とは、美人の象徴の一つ長い黒髪を言うが、五月雨に濡れたツバメは紫色を帯びた艶やかに光っているような美しさを見た。
屋外での予定などあるときには、雨は邪魔者であるかのように厄介に思うが、音もなく静かな五月雨の朝は、ツバメの羽まで輝かせて見せる効果を持つ。
もちろんこの雨は、植え付けて2週間、根を張ろうとする夏野菜には恵みの雨、無くてはならない貴重な雨でもある。

そんな五月雨の上がった朝、海側に広がる雑木林がはっきり見えないほどの霧に包まれている。これもまた珍しい現象である。
あたふたと出勤するでもないこの身。二階の窓から眺めている分にはゆったりと珍しがっていられるが、この状態は道路でさえ見通しが良くないだろうと心配する。
ましてや船の航行はとてもじゃないが厳しいだろう。大きな海難事故など起こらなければいいが・・・と、相変わらず低迷を続ける新聞の株価欄に目を落とす。

せめて1ドル85円。平均株価10000円。この水準を保ってくれたら少しは気持ちも晴れるのに。どこまで行ってもこの霧のように向こう先が見えにくい。
せっかく羽光らせるツバメを一句詠んだというのに、何かしら気持ちふさがれる濃い霧。いつの世も人の気持ちも、思惑通りには行かないものだな~。

夜中には心地よく晴れるはずだった空模様。とんだ思惑違いで朝には向こうが見通せないほどの深い霧。時間と共に雲散霧消、自然に消えてくれるのを待つ。

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「隠し味」

2012年05月15日 | 趣味・・エッセイ

        
                  木の芽(山椒の葉)

いつのころからか甘え癖がついてしまった。
新聞に投稿したらその翌朝から、早朝電話が鳴るのを待つ。ひたすら待つ。
7時半、7時45分、8時・・・電話が鳴らない。ア~ア今日も掲載されなかったのか~

長い間新聞投稿から遠ざかっていた。ネタはいくつかあっても本気で書く気持ちにさせられないほど、他にやらなければならないことに追われていた。
そんな多忙からやっと解放され、久しぶりに気が載った作品として投稿したつもり。
なのに待っても待っても載らないと、己の未熟さを忘れていつしか選者のセンスを疑ってみたくなる。今日も7時50分になっても電話が鳴らない。

下(階下)へ降りて自分で新聞を開く。オッ!あるじゃん名前が!!
久々の投稿はまるで新人気分でおどおどする。新しく赴任してきた選者と初めて気持ちが通じ合った瞬間。やっと分ってくれたのか・・・とひと安心、というか有頂天。

いつも早朝電話を頂くあのお方にこちらから掲載のお知らせをしようか。待てよ、自分の掲載を自分の口から言いふらすのも気が引けるな~ どうしよう・・・
そこへタイミング良くあのお方から電話が入る。「もしもし・・・ ・・・」後はお決まり。褒められたり褒められたり、皮肉られたりまぜっかえされたり、そして最後はまた褒められる。

そんな一喜一憂する250字の世界。次の通り。

  『隠し味』 

 みそ汁に浮かぶ青い小さな葉っぱ、この季節ならではの味わいが朝から元気をくれる。
 そんな木の芽どきになると、我が家流の岩国寿司が何度となく食卓を飾る。
 私の母から受け継いだ伝統の味は十分クリアしていると思うのに、さらにひと工夫。
 風味豊かな木の芽を寿司の表面に散りばめ、旬の味に仕立て上げる。
 この味は隣近所にも喜んでもらっている。
 時には寿司がタケノコに化ける。タケノコが木の芽あえに姿を変える。
 何十年変わらず作り続けるかみさん。
 「うまいね」だけでいいのだろうか、と時々・・・・・・。

               2012.5.15 毎日新聞 はがき随筆 掲載

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「消毒気の毒」

2012年05月14日 | 晴耕雨読

 
     葉っぱに穴が開き始めたジャガイモ         ニジュウヤホシテントウ  

青葉若葉の萌え出る5月。畑の夏野菜も本格的に枝葉を広げるころとなる。
3月に植えた春ジャガイモ。柔らかい葉っぱを穴だらけにするほど虫が寄ってくる。
優しい緑、やわらかな新芽、虫たちにとっても腹いっぱい食べて子孫を残す原動力になるのであろう。黙々と葉の表面と言わず裏側と言わず食べつくそうとしている。

様子を見に畑に立つと、気の早いヤツは慌てて飛び立つ。厚かましいヤツは葉っぱを揺すっても「見つけた食糧、手離してなるものか・・・」とばかりにしがみつくヤツもいる。
それが、ナナホシテントウほど色鮮やかでもなく、飛ぶ姿までなんとなくグロテスクに感じるニジュウヤホシテントウと呼ばれるテントウムシの一種である。

黄褐色~黄赤褐色で、たくさんの黒紋を持っている。全体に灰黄色の短毛でおおわれているので、くすんだ色に見える。なけなしの畑の春ジャガや夏野菜の大敵である。
せっかく植えたものを食い荒らされるのを黙って見ているわけにもいくまい。さてどうするか。一匹一匹つまんで踏みつぶすのも可哀想だし骨が折れる。 

野菜作りベテランの友にジャガイモの消毒について、人間への影響などを尋ねると「特に問題ない。今葉っぱをやられるとイモが育たんよ。薄めの消毒を」というヒントを得て早速噴霧器に1000倍以上に薄めた消毒液を詰める。まさに霧の如き消毒散布。 

ついでに余った消毒液で、ヒイラギなどの新芽をことごとく枯らすアブラムシにも思いっきり霧のお見舞いをする。野菜や木を守るため、虫には気の毒だが、木に毒を振りまく。
結果はすぐには出てこない。2・3日待つ。あまりにも効果がなければ、庭木の方は少し濃度を上げてまた噴霧。

虫がつく・・・。セガレの方はともかく、娘の方にはえらい神経を使ったものだ。
「お父さんが虫除けになってやろう・・・」などといきがった昔もあった。それこそ無駄な抵抗で、年頃の娘に防虫剤など何の役にもたちはしない。噴霧も煙もスプレーも、かいくぐって寄ってくる虫には勝てなかった。でもお陰で孫と言う宝物をもたらした。しかも3人。

そうはいってもねー。葉っぱを食い荒らす虫はやはりどっかに行って欲しいよねー。無理に隣りの畑に行けとは言わないが、畑の周りに生える草でがまんしてもらえんかねー。 

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「ジワーッとくる思い・・・」

2012年05月13日 | 趣味・・エッセイ

       

あれから1カ月。いろんな思いがこみ上げてくる。
単なるセンチメンタルだけでもなく、辛く苦しい思いばかりでもない。大声出して笑い転げるほでもないが、少し頬ゆるむというのが今の気持ちにより近いのかな。

二つの大きなノルマを果たしたのが1カ月前。
たった30数日しかたっていないのに、随分前の出来ごとのようでもあり、まだまだ終わってはいない継続中の感もあるへんてこりんな思いが去来する。何かしら複雑。

一つは中学校古稀同窓会。14ページに及ぶ記念アルバムを発送してから、今もってチラホラ礼状が届いたりする。そのたびに「やってよかった・・・」「参加してくれて有難う・・・」の礼状をしたためる。会計報告など全て済ませた幹事会打ち上げの二次会では、それこそ思いっきり歌った。「・・・ホッとされているお気持ちが手にとるようにわかります・・・」などと会計幹事さんから手紙を送られたりすると、何かを見透かされた様な気恥ずかしさを感じないでもない。が、愚直と言われようが、何でそこまでやるのと言われようが、そうすることしか出来ない自分をどこかでわずかながら誇りに思ったりする部分があるようだ。

そんな同窓会に間に合わせようと、こちらも必死になったエッセイ集の自費出版。
所詮素人の日記文に毛が生えたようなもの。内容に自慢できるものはないと思いながらも、兎に角一冊。古稀の記念に残る自作の一冊を世に出しておきたい、というおこがましくも大胆に一歩を踏み出したこと。この事実は、恐れ多いことではあっても自分を褒めてやっていいと、1カ月たった今は思えるようになった。出版に向けて原稿作成に悩まされているころは「出版すべきか、踏みとどまるべきか」両者のせめぎ合いでいささか疲れる日々であった。というのが正直な心境である。
ついでに言わせていただくならこの二つ、どっちもどっちも決して自慢しているわけではなく、1カ月を過ごした今冷静に振り返って単純にこんな風に思えるだけである。

そして、どっちもどっちも自分ひとりの力ではとても出来なかったことを、やり通すエネルギーを与えてくれた友、勇気を持たせてくれた佳き友に恵まれたことは、誰はばかることもなく自慢したい。そんな思いが今改めて胸の中で渦巻いている。

ジワーッとこみ上げてくる思い。突き詰めると、厭な思いというよりどちらかと言えば、今、青葉若葉の萌え上がる山肌のような爽快感に近いのだろう。
ようやく自分のペースで時間配分が考えられるようになてきた。いつも何かに追いかけられる焦燥から解放されることがこれほど柔らかな自分になれるとは不思議な思いだ。
こんな体験がまたひとつ、血となり肉となってくれると有り難いのだが。

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「参加することに・・・」

2012年05月11日 | ニュース・世相

          
           オリンピック聖火採火式。(ネットより拝借)

あと2カ月と2週間後に始まるロンドンオリンピック。
ギリシャのオリンピア遺跡では、世界を巡る聖火の採火式が行われた。
いつ見ても何回見ても、何かしら古代へ夢を馳せる儀式であり、各国の国旗を背負って参加す選手への思いが胸を熱くする。

ヨーロッパ信用不安の元祖であり、国家財政の危機に瀕しているとはいえ、オリンピックと言えばやはりギリシャ抜きでは始まらない。
10日に採火された聖火は17日までギリシャ国内をリレーし、18日にはイギリスに上陸、その後70日をかけて世界を巡るのだそうな。

国内では、日本代表選手が次々と決まり、歓喜の笑顔がこぼれる。
もちろん日本代表に選ばれることが最終目的などでないことは言うまでもない。
自分が選ばれることで、出場の機会を逃し悔し涙にくれる多くの人がいることを忘れてはならない。そのためにも死力を尽くしてがんばって欲しい。
破れて笑顔なんぞ見せて欲しくない。負けた悔しさを前面に出し、涙を流して次への雪辱を誓って欲しい。それこそが本当のスポーツ選手であり向上心の表れであろう。

だからといって「勝つことが全て」などと言うのではない。
そこで「オリンピックで重要なのは勝つことではなく、参加することだ」という言葉を思い出す。これは近代オリンピック創設者クーベルタンが言ったとされている。
が、実はそこには大きな歴史的背景や裏話が隠されていることを知った。

毎日新聞 余録によると、『104年前、ロンドンで開かれたオリンピックでは、アメリカとイギリスの選手間で感情の対立が高まり、反則の判定に不満なアメリカ選手による競技ボイコットもあった。
この時、セントポール大聖堂を訪れたアメリカ選手にペンシルベニア大主教がさとした言葉が「オリンピックで重要なのは・・・ ・・・」というあの名セリフになる。
クーベルタンがオリンピック精神を説いた演説でこの大主教の言葉を引用した。』と。

どちらが言った言葉にしても、確かに参加することに意義があるのは分る。
が、明らかに世界のレベルに到達していない種目については、先ずは国内で鍛えに鍛えレベルアップを図ることが大切な気がしてならない。
古来日本の武士道では「負ける戦はしない」のが常道。それがリーダーの資質でもあったはずだ。やるからには勝つ見込みがあるか、そのレベルまで己を引き上げる努力を惜しまなかったのだと思う。 

オリンピックなどテレビで観戦するしか縁のない人間の勝手な戯言と思し召せ。

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「反動」

2012年05月09日 | つれづれ噺

      

これは一体なんじゃろう?空飛ぶユーホーが地上に下りて来たのかな?
幅345mm 奥行360mm 高さ85mm、体重約2.95kg。3,5時間かけて充電してやれば60分は働くというお掃除ロボット『ロボクリーナー』君。
お掃除する暇もない人、仕事から帰って掃除をするのは厭だという人たちに結構人気商品なのだそうな。

へ~・・・掃除をする暇もないほど忙しい人が多いのか~、今の世の中、いや今に限らず何かと理由を付けて掃除をしたがらない人が多いのはいつの世も変わらないようだ。
掃除が必要なほど汚すのはいったい誰なのか、考えたことがあるのだろうか。

そういえば昔こんな話があった。小学校2年生になったら教室や廊下を自分たちの手で掃除することになった。ある保護者のお母さんが「我が家では掃除などさせたこともないのに、学校で掃除をさせるとは何事か?」との捻じ込みがあった。先生がその子に掃除をさせないようにしたら、とたんにみんなからのけ者にされて「お母さん、ぼく掃除したいよ・・・」と訴えたとか。

2・3・4月の3ヶ月間、パソコンを使いまくった。使うのに忙しく、ファイルやホルダーの掃除もしなかった。たまる一方。ごみ箱の掃除さえ手が回らなかった、のではなく何かに追われるように作業を前に進めようとするあまり、全く余裕がなかった。一段落した今ふと気がつくとパソコンの動きが緩慢。立ち上がりもおやすみもどうもゆっくりである。

マイドキュメントもマイピクチャーも山の如く積み上げられている。こりゃ遅いのも無理はない。しかしすぐには捨てられない。いちいち確認しながら整理ダンスにしまうのか、ごみ箱に入れ、まとめて処分するのか振り分けていたら、なんとまあ半日近くかかってしまった。
こんなに手がつけられんほど散らかしたのはいったい誰じゃ??分っているだけに腹も立てられず、粛々とお掃除にいそしんだというわけだ。

そこで、パソコンの中にもこんなお掃除ロボットがいたらな~などと、己の至らなさを棚に上げて勝手なことを夢に見る。もしもそんなものが実現したら、今度はあれはどこへいった?これはどこにしまったか?捨てた??などと自己嫌悪に陥るのが見えるようだ。溜まって欲しいものは溜まりもしないで、溜まらなくていいものはじきに溜まっている。

性能のいいパソコンロボクリーナー、誰か考えてよ。

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「アオサギ異変!」

2012年05月07日 | 季節の移ろい・出来事


               
                  こんな姿に出会えない今年の夏。残念!

1月下旬、今年も向かいの小山に最初にやってきたアオサギ君の先発隊。
昨年の子育てに明けくれた地を確認し、安全であると本隊に報告したのか、2月に入ると次々にやってきて、カップルが出来上がり、2月下旬には少なくとも7カ所の巣を作った。
よしよし、今年も野生の子育てに出会える。風雨に耐える野生の本能にも触れられる。と密かに喜んでいた。

ところが、3月に入るとエッセイ集の原稿作りや同窓会本番近しで、よそ見をする暇もないほど気ぜわしい日々を過ごすことになった。アオサギにゆっくり目をやるゆとりもなかった。例年の如く巣作り応援も、雨風を凌ぐ声援も送ってやれなかった。

ようやく落ち着きを取り戻したこのGW連休に、ふと気がつくとアオサギの姿が全く見られない。鳴き声一つ聞こえない。「おかしい・・・」と思いながら高性能の双眼鏡で探しても全くそれらしい姿がない。しかも最初に巣作りを始めた3カ所を丁寧に覗いても、完全に巣を放棄しているようで生活の様子がうかがえない。

さては・・・?思い当たるふしがある。
アオサギコロニーをカラスの集団に乗っ取られたのではないか。昨年までは全く見られなかったカラスの群れが、小山の上の方で騒ぐ様子が何回か目撃された。その前後に、あのおとなしいアオサギが、夜といわず昼といわず、ギャー・クワー・ギャーと悲痛な叫びにも似た声を発していた。あの頃がカラスとの闘いの真っ最中だったのかもしれない。

まさに鳥仲間のギャングカラスの群れ。ひょっとしたら無遠慮にアオサギのねぐらを襲ったのではなかろうか。体型からいえばカラスの3倍くらいもあるアオサギ、しかも長い脚、長くく鋭いくちばしを持っているというのに何故カラスに負けるのか、不思議な感覚である。

人間に匹敵するほどの頭脳明晰と言われるカラス。徒党を組んで波状攻撃をかけ、アオサギを疲れさせ卵を横取りしたのに違いない。襲われる側のアオサギ君たちは、おっとり優雅に構えていて、徒党を組むカラスに対抗するだけの知恵を持たなかったのか、カラス追放アオサギ軍団を組織できなかったのか、組織をまとめるリーダーがいなかったのか。

アオサギが消えた向かいの小山。淋しい、実に淋しい。ちょっと目を離したスキにカラスに乗っ取られるとは。でもこれが弱肉強食、野生の世の習いなら致し方ない。
アオサギ君たちは、カラスとの闘争を避け、別の地へ移動したのだろう。とすれば二度目の産卵をしない限り今年の新たな雛の誕生は望めないのではないか。子孫繁栄、種を守るという意味から考えれば、カラスと闘い、カラスを撃退する知恵と力を持たないと絶えてしまうのではないか。

「日本を象徴する鳥」などと呼ばれる朱鷺(トキ)が、国を上げて保護されているが、アオサギも絶滅種になったころに大切に扱われても手遅れだよな~。
ちなみに、朱鷺は国鳥ではない。日本の国鳥は?「雉(キジ)」である。

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「GW、何するものぞ!」

2012年05月05日 | 晴耕雨読

 

やれ大型だ、やれ9連休だと大騒ぎしたGW。残すところ一日となった。
自慢じゃないがこちとらは、いつもかつもGW・大型連休・サンデー毎日・・・ときている。
人出でごった返すところへわざわざ出向くこともないや・・・と決め込んだわけでは決してない。まあ軽くどこかへ行ってもよかったのだが、兎に角今年は忙しさに追われ自分の時間が取れない4月末から5月初めであった。

ただまあ遊びに出かけなかっただけで、気持ち的には十分、とまではいかないまでもある程度満たされていた。忙しさの合間を縫って、遅まきながら夏野菜の苗も植えた。
例によって、スイカ・トマト・キューリ・ピーマン。ついでにサツマイモ用の畑もこしらえておいた。どれもこれもみんな孫の笑顔をちらつかせながらの作業。苦にはならない。

昨年11月に撒いたスナック豆が毎日おやつ代わりになるほどに実っている。
玉ねぎもようやく真っ白い丸っこい肌を地上に出してきた。もう少しで収穫。
その隣では、春ジャガが青々と育っている。なんだかんだ言いながら、やはり土いじり、畑づくりは答えを出してくれるのが嬉しい。掛け値なしに没頭出来るのがいい。

例によって今年も植えた苗の全てに、ビニール囲いを施した。これは虫除けのおまじないみたいなもので、この囲いのお陰で、幼い苗がすくすく成長する。まさに手を掛け、目を掛け、肥えをかければ必ずや結果を出してくれる。人間とちょっとだけ異なるところか。

暦の上では今日から夏、立夏。見上げる空には旧暦3月15日のまん丸お月さまが煌々と照っている。雨が遠のくと、植えたばかりの苗に水やりという一仕事が生じることになるが、取れたてもぎたてをかぶりつく彼らの歓声には、どんなひと手間も惜しくなくなる・・・のかなー。それにしても何かしら忙しい初夏の毎日ではある。

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「逞しくなる理由(わけ)」

2012年05月04日 | 家族・孫話

 
   ステージ真ん中の三兄弟               市長さんとスイッチON!!    

5月3日。恒例の「岩国くすのき花火フェスティバル」が華々しく開催された。
早くも第10回という記念の今回、折よく岩国錦帯橋空港の開港に合わせて、例年より一回り大きなお祭りとなったようだ。

花火はもちろん日が暮れてからであるが、イベント広場では昼過ぎからゲームコーナーや、多くのにわか露店がテントを並べて、大勢の人でにぎわう。
孫三兄弟も、フェスティバルに大きく関わっているお父さんに促されて、早い時間から出かけた。夕ご飯用のお弁当をひと抱えしてジジババが駆け付けた頃には、いささかお疲れの様子。それでも三歳になったばかりの三男坊が嬉々として迎え、早速手を引っ張って「あそこいこ、ここいこ」と案内してくれる。

ステージでプロ歌手による歌と演奏が始まると、アナウンスに応えていの一番に兄ちゃんとカー君がステージの中央へ。二人が上がれば三男坊も黙ってはいない「ゆうがくんもいく、じいちゃんだっこ」とステージへ上げろという。実に堂々としている。
誰の血を引いたのか?きっと婿殿のじいちゃんに似たのだろう、ということに。

いよいよ日が暮れて花火打ち上げのセレモニー。ここでも岩国市長さんから出されたクイズに、真っ先に兄ちゃんが手を上げて答える、「正解」。
花火打ち上げ開始スイッチONの権利を獲得。そこにも次男・三男が駆け付け、小さな手を兄ちゃんに引っ張られて市長さんと一緒に「スイッチ ON!!」

こうなったらもう恥も外聞もなく、じいちゃんはひたすらカメラを向ける。
ケロッとしてステージから降りる悠雅君、今度はまばたきもせず、夜空に広がる花火を堪能してござる。兄ちゃんの優しさに頼りながらではあるが、逞しきかな三男坊!!

今年は仕掛け花火も準備されていた。『岩国 ⇔ 羽田』の文字の上を飛行機が移動した。爽やかな初夏の一日。三兄弟からまたひとつ大きなエネルギーをもらった。
         
            川面に映える仕掛け花火

 

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「今日から5年目」

2012年05月01日 | 趣味・・エッセイ

       
             新緑萌える里山。 孫君との散歩コース

2008年4月30日。おっかなびっくり、及び腰で開設した拙ブログ。
まる4年の歳月を歩んできたことになる。
初日は開設の挨拶に始まり、2日目、5月1日から本格スタートした。
「白い花の咲くころ」が実質第1作目であったことをはっきり覚えている。あれから4年。特に日数を意識することもなく、ひたすら趣味の領域で書きつらねてきた。
あのときも今も同じように、山肌が萌える新緑に盛り上がっていたような。

今日から5年目。格別意識することもなく、心に映るよしなしごとを、喜んだり・悲しんだり・笑ったり・怒ったりしながらyattaro-の視点、yattaro-の感情で今後も書き続けて行くのだろう。たとえそれが独断や偏見に満ち溢れようと、その時の心のひだに引っかかったそのままを素直に、文字や文章に置き換えられたらいいなと思っている。
その思いは、これまでもこれからも大きく変わることはないのだろう。

ただ一つ、書くことで意識するものがあるとすれば、それは自分史の一部分としてひょっとしたら、一冊のエッセイ集になるかもしれないという可能性を残しておきたいということだろうか。もっとも、先のことなど分りはしないが、少しでもそういった意識で、物に触れ、物を見、感じて行きたいという、欲張り爺さんであることも確かだ。

そこには、読書の大切さを改めて思い知らされる。が、こちらはどうも思い通りに進まない。頭もとにはあれこれ高く積み上げられている。
文字通りの積読(ツンドク)ではもったいないことも分ってはいるのに・・・。

まあいずれにしても、あまり肩に力を入れず、身の丈に合った思考を巡らし、まろやかなエッセイブログを目指して、5年目の新たなスタートとしよう。

どうぞこれからも末永いお付き合い、応援を頂きますようお願いする次第です。

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