大相撲が揺れている。
「大相撲を根底から揺るがす問題」「お詫びの言葉もない」とは、現在の日本大相撲協会、放駒理事長の弁。
実家が岩国にあり、かつては大関昇進祝いの金一封も提供したお相撲さんだけに、協会運営などその手腕に期待しながらも、気の毒な時期に理事長就任だな、という観測を持っていた。案の定。野球賭博に暴力行為等々、その都度「存亡の危機に立つ大相撲」と吹聴され、ぐらつく屋台骨を何とか持ち堪え、それでも常に平身低頭、肩で風を切って歩ける理事長職ではなかった。そこへもってきて今度ばかりは、本当に存続が危ぶまれる八百長発覚である。
幸か不幸か、今の段階では十両・幕下という下位組織が中心のようであるが、本当に幕内の取り組みにはそのようなことはなかったのか。なかったと信じたい。
ただ、7勝7敗で千秋楽を迎えた力士、特に大関は先ず負け越すことはない。他の幕内力士でも、後一つで勝ち越しがかかった勝負は、大半が勝ち越しに廻っている・・・と感じるのは本当の大相撲ファンではない証拠かも知れない。
今回の野球賭博・八百長問題。奥深いところに根っこが潜んでいる気がしてならない。
15~18歳で、夢と希望に胸ふくらませて相撲部屋に入門する。トントン拍子に出世すれば問題ない。そんなに甘くない。もちろんケガや病気も付きもの。
しかも年頃の若い衆。買い出し・料理番・炊事・洗濯・・・。後はごろ寝とフラフラになるまでの稽古稽古。
パチンコに行けるわけではなし、恋をささやく甘さもない。クルマを駆って乗り回すこともない。右を向いても左を見てもゴツゴツした男の世界。どこに彼らの安らぎや遊び心のはけ口があったのだろう。
麻雀さえ禁止事項であった。彼らのそんな実生活と、私自身やセガレの青春などを比べると、気の毒なほど自由も娯楽もない、閉鎖的な世界のような気がしてならない
せめて麻雀くらいやらせて、人の心理を読む・勝負勘を養う・・・など、勝負の世界に生きる勘所の養成にもつながるのではないか。但し、そこには厳然たるルールが必要。掛け金の制限・時間の制約などなど、そのようなルールを守る癖をつけた上で、仲間内の遊びをさせる。このくらいの余裕は考えられないものか。彼らは青春真っ只中の人間なのである。
まだまだ言いたいことは山ほどある。3日分くらいに分けて書こうかな・・・。