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清家清の自宅『私の家』

2010年08月22日 22時16分48秒 | 人間
清家清の自宅『私の家』



土曜日の夜10:00~10:30テレビ東京「美の巨人たち」は一枚の絵(作品)にスポットを当て、その一枚に込められた人と作品の秘密を探る番組。
作品の背景が分かり、普通の美術番組とは一味違う楽しさがある。



21日は、戦後を代表する建築界の巨人・清家清の自宅『私の家』だった。
清家が1954年に家族の為に建てたこの家は、日本の住宅のあるべき姿を追い求める上で“実験台”としての役割も担っていたという。



『私の家』には、玄関どころか、家のどこにも仕切りやドアがない。
横幅10m、奥行き5m、わずか50平米のコンクリートの箱。
つまりワンルームに居間、寝室、書斎、洗面所の全てが収められている。

予算がないので、必要最小限度の家しか建てられなかった。
と云うが、50平米という広さは、人間が疲労を覚えることなく掃除が出来る限界の時間を割り出し、そこから逆算して決めたとのこと。



ユニークなのは、この家のシンボルとも言うべき移動式の畳。
この畳、ちゃぶ台を置けばそのままそこがお茶の間になり、布団を敷けば子供の寝室に、庭に出せば庭全体がリビングになる。

清家清は、戦後のお金もモノもない時代に現れた建築家。
そうした時代の中、日本の住宅のあるべき姿を追求し、辿りついた答えが「ワンルーム」。
其の後、日本は高度経済の道をたどり、豪邸や億ションが珍しくない時代となった。

しかし、
人間が必要な広さとして『立って半畳、寝て1畳』という諺もある。
江戸時代の長屋は9尺×2間が標準だった。
1軒が僅かに6畳しかなかった、ということだ。
だから、いかに狭い空間を工夫しながら生活したいたか。
道具類も必要最小限だった。

清家清は仕切りのない空間で家族が生活することにより、相互の理解が進むと考えた。
子供達は個室など与えられなくとも立派に成長し、長男は慶応義塾の塾長まで務めた。
長男・長女・次女の成長につれて、隣接地に「長男の家」「家族の家」を増築するが基本のスタンスは同じだった。

戦後65年を過ぎて、日本人の生活は豊かになりすぎた。
清家清の自宅『私の家』は必要最小限度で充分。
ものや、広さにとらわれない心。
そこに、人間の幸せがある、と考えたのだろう。


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