「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

《春田光治さん略歴》其の4

2023年07月20日 18時55分23秒 | シェジャニー
《春田光治さん略歴》其の4



仔羊や内臓料理などを取り入れた新しいフランス料理、渋谷の閑静な住宅街の隠れ家的な店、若夫婦がもてなす家庭的な雰囲気などなど、多くの魅力で瞬く間に話題を呼び予約が取れない人気店となった。





さらに、昭和48(1973)年に開館したNHKホールの影響で渋谷の公園通りが脚光を浴びるようになり、コンサートの帰りに立ち寄る店としても便利な立地だった。
常連さんとしてシャンソン歌手・石井好子、女優・黒柳徹子、ファッション評論家・鯨岡 阿美子、ピアニスト・安川加壽子、評論家・古波蔵保好などが名を連ねている。

開店間もないころに、話題の店として紹介された雑誌を見た友人Hさんが、「この店で修業をしたい」と相談された。まもなく弟子入り志願し、最初の弟子となり働くことになったとなった。そのようなことで、シェ・ジャニーの存在を知ったが客として行ったことはなかった。



その後、客数の増加に伴い弟子も急激に増えた頃から、上京の際に僕も厨房に出入りするようになった。
閉店時刻の午前1時頃になると、ジャニーの知り合いや弟子の友人が集まってくる。
皿洗いのお手伝いと片付けの手伝いが建前だが、ジャニーの作る賄い料理のご相伴に与かりたいと集まるのだ。料理関係者ばかりでなく、街中の情報にたけた人たちが沢山くる。
その頃、水戸のレストラン「西洋堂」が赤坂にも支店を設け、こちらも盛業だった。
そんなことで、西洋堂主人・木下太介さんも時折、顔を出した。Hさんの同級生でバイトをする人もいて、水戸関連の人も多かった。
賄いは修行を兼ねて、店の新人が作ることが多いらしいが、シェ・ジャニーではシェフの春田さんが自ら行った。中華やタイやベトナムなどのエスニック時には和食など、春田さんが食べたい、試したいという料理を作る。充分に店のメニューとして出せる料理だから誰も食べたいのは当然で毎日、余分な人が集まる。
厨房には常時「菊正宗」樽の菰かぶりが用意されており、収蔵庫には糠漬けもある。
先ずは日本酒と漬物で乾杯してから食事が始まる。
食事が終わるのが2時から~3時頃、一斉に片付けて退出だが、時には朝まで仕込みの時もある。



翌日は、昼頃に集合して仕込みの食材を買い出しに行く。
野球が好きだった春田さん、従業員で草野球のチームが出来る程にスタッフが増え、試合も行うこともあった。忙しい厨房だが、テレビは野球中継も流れることもあった。

客として訪れたのは数回で、店内の状況はよく分からないが、厨房のスタッフが交代でサービスする方式だった。作ることに携わっている調理師がサービスするから、料理も詳しい。
僕自身は料理に詳しいわけでなく食べ歩きをした訳でもないから、この文章を含め間違いや知らないことばかりだ。
店のこと春田さんのことと料理に関しては、渋谷時代から安比・盛岡まで行動を共にした、ハモサンこと中村 美智男さんが一番詳しく知っているが、現在も盛岡在住なので話す機会もない状況で、今回の件についてもかなりあいまいな状況で書いている。
没後3年を経過し、何とか書き留めて置きたいとの気持ちによるので、断片的な話もある。

*春田さんは日本の夏の暑さに閉口していたので、開店当初から夏期の1か月は休業とした。期間中はフランスに渡り、各地を食べ歩き新たなメニューの開拓や店内のインテリアや食器などを買い整えた。

*私生活に関して話された機会は少なく、2017年1月10日放送のテレビ東京「鶴瓶の巷(チマタ)の噺」で中のインタビューVTRのコーナーで偶々、春田光治さんご夫妻がインタビューを受けたのが放映されたが、『学生結婚に始まり8回結婚し、現在の奥様とは41歳の齢の差。3番目のカミさんに2人の子供がいると自ら話している。』

僕が「シェ・」ジャニー」に出入りを始めた頃は開業時に2人で始めた2度目の奥さんとは離婚し独身だった。その方が青山の珈琲専門店Dで時折パートのバイトをしていたことをHさんから聞き、どんな方かと見に行った。その頃、僕は骨董に夢中で青山の骨董街に近いDは疲れを休めるに最適だった。

間もなく、春田さんは3番目の方と結婚し同居を始めた。
春田さんは生涯において結婚離婚を繰り返したが、ピカソと同様「惚れてしまえば後先なし、すぐにでも結婚したくなり」いやと感じたら顔も見たくなくなる感情の起伏があったように思える。

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