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会沢正志斎の像・小鹿尚久作・@水戸市南町3丁目

2013年09月26日 11時08分35秒 | Weblog
会沢正志斎の像・小鹿尚久作・@水戸市南町3丁目

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茨城県立歴史館の「会沢正志斎」展(9月29日迄)の記事をアップしたら「水戸市内にある会沢正志斎の銅像は父の作品です」と書き込みを受けた。
はてさて、その像は何処か?と一瞬迷ったが、住友生命水戸ビル前のポケットパーク建立されていたのを思い浮かべた。
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餌差町(旧・鷹匠町、現・梅香2丁目)生まれとも伝えられる、会沢正志斎(1782年~1863年・82歳没》は9歳にして四書五経を学び、10歳で藤田幽谷に入門、18歳で彰考館に入り、22歳で江戸に移り1820年39歳で水戸に転居。
その間、任地の大阪で死亡した父の遺骨を受け取る旅に出で、伊勢・吉野。京都を巡った。41歳の時は駿河、伊豆を巡り富士山に登る。42歳で彰考館総裁代役となる。1824年・43歳の時、大津浜に上陸したイギリス人の捕鯨漁船員の取り調べの筆役と赴き、海外の事情に触れ危機感を感じ翌年『新論』を著わし藩主に提出。

『新論』沈滞した民心を振いおこして国防を強化し、内外から迫りくる政治的危機を克服し、国家の富強を実現するための方策を明示するところにあり、尊王と攘夷は、その民心糾合の手段としての意味をもっていた。
幕府にはばかる内容と出版は禁止されたが、写本が行く末を案じて活動した吉田松陰などの志士達を中心に広く流布し,水戸に発達した学風である水戸学の書物としても伝わった。刊行されたのは1857年76歳の時で、斉昭復権運動の罪に問われ1846年(65歳)から4年間幽閉され復権した後の事だ。
1852年吉田松陰は永井政介宅に1ケ月逗留し会沢正志斎に教えを乞うた。

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南町の旧宅の反対側に建つ会沢正志斎像は、小鹿尚久(1922-2011)作で、平成4年3月に建立された、『下級武士出身の正志斎があの大津浜の岸頭に天の一角をにらんで、潮風に吹かれながら立つ姿を思って制作しました』と生前語っている。
優しい女性像、或いは男女の子供、小鳥などの小動物を得意とした小鹿さんの作では珍しい作品だ。

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安政時代の地図と照合すると、この辺りらしい。

江戸時代に82歳まで生きられ、長命な方で、更に江戸に住まい、京にも旅し、抜擢されたり幽閉されたりと波乱の人生を送ったから、住まいも何度か変わった。一晩をかけて足跡をたどっって、いくらかの理解は深まった。
混迷の時代、将来を見据えた政策を提言した会沢正志斎を見直してみる必要がありそうだ。

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