香薬師如来立像@新薬師寺
像高73㎝
東京藝術大学大学美術館で「興福寺仏頭展」の白鳳の仏さんを観てから、40年前頃の古美術入門当時、奈良や京都に足繁く通ったことなどを思いだした。
諸先輩の話などから、和辻哲郎の「古寺巡礼」や亀井勝一郎「大和古寺風物誌」を携え、「巡礼」とは言えないにしても、寺から寺を廻った。
「古寺巡礼」は大正6年の紀行を大正8年に出版し、「大和古寺風物誌」昭和16年までの旅を纏めて昭和18年に刊行された。
昭和も20年代から30年代迄ならともかく、僕が行く様になった40年代ではかなり様子が違っていた。
「大和古寺風物誌」(創元社・昭和28年刊)は入江泰吉の写真が挿入されているが、10年ちょっとの間にかなり変化してしまった。
とはいえ、金堂や講堂も再建される前で朽ち果て、築地塀も崩れた場所も多く、鄙びた状況で、現在とはまるで異なっていた。
旅人の勝手さだが、崩れた物や朽ち果てようとするものに、旅情や詩情を感じる。最近はどの寺も境内の整備に力を入れ、その分、何処に行っても入山料を何度も払うことになる。
どの程度まで、補修整備すればいいものかは難しい問題だ。
新薬師寺に至る高畑辺りの景色も雲泥の差だ。
寺巡りの順路や見所を記したガイドブックとしての役割もあるが、著者の感じた風景描写、寺や仏像に関しての印象や歴史観など、読み返しても納得することや教えられることが多い。
発掘調査などによる美術史の変化を超えたものがある。
人ごみの少ない時期に、長期滞在して奈良の寺巡りをしてみたいと思った。
「興福寺仏頭展」に出陳されていた、深大寺所蔵の「銅造釈迦如来倚像」に似ていると云われるのが新薬師寺の「香薬師如来立像」。
何度か盗難にあい戻ったが、昭和18年に盗まれてから行方は分からない。
菊池寛と共に文藝春秋社の創立・発展に携わった佐佐木茂索が、どの様な訳なのかは分からないが「香薬師如来立像」の“型”を所持していた。
現物から石膏型採りしたのか、ともかく本物と変わらぬ出来らしい。
この型から昭和25年に3体の模造を鋳造した。
一体を新薬師寺に寄贈し、一体を国立博物館に、もう一体を佐佐木家に所蔵したが、佐佐木茂索27回忌に東慶寺に寄贈された。
北鎌倉・東慶寺の水月堂には、鎌倉時代の「水月観音」の脇に後藤清一作の「誕生仏」が安置されている。
この誕生仏は、昭和16年の作だが、微笑をたたえた童顔の面相は白鳳時代を思わせる。
像高73㎝
東京藝術大学大学美術館で「興福寺仏頭展」の白鳳の仏さんを観てから、40年前頃の古美術入門当時、奈良や京都に足繁く通ったことなどを思いだした。
諸先輩の話などから、和辻哲郎の「古寺巡礼」や亀井勝一郎「大和古寺風物誌」を携え、「巡礼」とは言えないにしても、寺から寺を廻った。
「古寺巡礼」は大正6年の紀行を大正8年に出版し、「大和古寺風物誌」昭和16年までの旅を纏めて昭和18年に刊行された。
昭和も20年代から30年代迄ならともかく、僕が行く様になった40年代ではかなり様子が違っていた。
「大和古寺風物誌」(創元社・昭和28年刊)は入江泰吉の写真が挿入されているが、10年ちょっとの間にかなり変化してしまった。
とはいえ、金堂や講堂も再建される前で朽ち果て、築地塀も崩れた場所も多く、鄙びた状況で、現在とはまるで異なっていた。
旅人の勝手さだが、崩れた物や朽ち果てようとするものに、旅情や詩情を感じる。最近はどの寺も境内の整備に力を入れ、その分、何処に行っても入山料を何度も払うことになる。
どの程度まで、補修整備すればいいものかは難しい問題だ。
新薬師寺に至る高畑辺りの景色も雲泥の差だ。
寺巡りの順路や見所を記したガイドブックとしての役割もあるが、著者の感じた風景描写、寺や仏像に関しての印象や歴史観など、読み返しても納得することや教えられることが多い。
発掘調査などによる美術史の変化を超えたものがある。
人ごみの少ない時期に、長期滞在して奈良の寺巡りをしてみたいと思った。
「興福寺仏頭展」に出陳されていた、深大寺所蔵の「銅造釈迦如来倚像」に似ていると云われるのが新薬師寺の「香薬師如来立像」。
何度か盗難にあい戻ったが、昭和18年に盗まれてから行方は分からない。
菊池寛と共に文藝春秋社の創立・発展に携わった佐佐木茂索が、どの様な訳なのかは分からないが「香薬師如来立像」の“型”を所持していた。
現物から石膏型採りしたのか、ともかく本物と変わらぬ出来らしい。
この型から昭和25年に3体の模造を鋳造した。
一体を新薬師寺に寄贈し、一体を国立博物館に、もう一体を佐佐木家に所蔵したが、佐佐木茂索27回忌に東慶寺に寄贈された。
北鎌倉・東慶寺の水月堂には、鎌倉時代の「水月観音」の脇に後藤清一作の「誕生仏」が安置されている。
この誕生仏は、昭和16年の作だが、微笑をたたえた童顔の面相は白鳳時代を思わせる。