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「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

小石川後楽園  @文京区後楽一丁目

2012年04月18日 20時23分19秒 | 庭園
小石川後楽園  @文京区後楽一丁目








江戸時代初期、寛永6年(1629年)に水戸徳川家の祖である頼房が、江戸の上屋敷の庭として造ったもので、二代藩主の光圀の代に完成した庭園。
現在は、東京ドームに隠れてしまったような存在だが、水戸藩の上屋敷はドームの場所も含め広大な敷地だった。

池を中心にした「回遊式泉水庭園」で、随所に中国の名所の名前をつけた景観を配し、中国趣味豊かなものになっている。



シダレザクラ
門を入って直ぐ、池の傍。



得仁堂
光圀が創建した時代の建物で、残っているのはこれだけ。
伯夷、叔斉の木像を安置した堂。
得仁堂の名前は孔子が伯夷・叔斉を評して「求仁得仁」と語ったことによる。



円月橋
明の儒学者朱舜水が設計したといわれる石橋。
石工は日本人だが、中国の様式を良く伝えている。





護岸工事が進行中
創建以来の池の石垣の損傷が激しく、修復工事が進んでいる。



西行堂跡



鶴岡八幡宮境内 @鎌倉市雪ノ下

2012年04月14日 17時05分33秒 | 庭園
鶴岡八幡宮境内 @鎌倉市雪ノ下

東慶寺を訪ねる前に、大船駅近くの中・高時代の友人と再会した。
Fさんは定年後も以前の仕事(VTRの制作など)を続けている。
更に、昔からのボランテア活動としての少年野球チームの運営にも携わっている。以前に増して忙しい毎日の様で、この日は昼食をともにしながら近況を話し合った。
友人が、元気で活躍している姿は頼もしい。



東慶寺からバスに乗って鶴岡八幡宮に。
八幡宮に詣でるのは10年振り位だろうか、桜の時期(この日は4月5日)とあって沢山の人。



舞殿では結婚式が挙行されていた。



本殿手前の奥に「鎌倉国宝館」残念ながら展示変えの為休館。



平家池の脇の「鎌倉県立近代美術館・鎌倉」ここも展示替えで休館。



『石本泰博写真展』4月7日~6月10日
日本の写真史に名を刻む、石本泰博(1921-2012)の写真展。
水戸芸術館でも個展が開かれたことがある。
今回は、代表作の「桂離宮」
期間中に是非とも訪れたい。



源氏池の桜。





源氏池の周りの牡丹園。
100品種・1000株が植えられているとのことだが、先日の強風で大きな被害を受けたとのこと。
入場料500円を300円に値引きしていた。

牡丹は花の女王ですね。


重森三玲作 東福寺方丈庭園

2012年02月22日 23時27分25秒 | 庭園
東福寺方丈庭園・重森三玲作

方丈とは禅宗寺院における僧侶の住居。
後には相見(応接)の間の役割が強くなった。
東福寺の方丈は明治23年に焼失し、明治23年に再建された。
100年以上を経ているから、それなりの風格を感じる。

東西南北に四庭が配されている。
禅宗の方丈には古くから多くの名園が残されているが、方丈の四周に庭園を巡らされているのは、東福寺方丈のみだという。

この庭は重森三玲の作で、昭和14(1939)年に完成された。

南庭。








広さ210坪の枯山水庭園だが、西方には築山がある。
巨石が配され、鎌倉時代の質実剛健な風格を感じる。


特に有名なのが、北庭。






もと御下賜門内にあった敷石とウマスギゴケを用いて市松模様に配置した庭は、彫刻家・イサム・ノグチは「モンドリアン風の新しい角度の庭」と評したそうだが、現代的な感覚の庭だ。


東庭・北斗の庭。




もと東司(重要文化財、旧便所)に使われていた円柱の余石の七本を北斗星に見立て配置した独創的な石庭で、狭い空間ながら小宇宙を感じさせる。
まさに、重森三玲の世界だろう。

西庭。



サツキの刈込と砂地とくず石。
地形的にも複雑、北庭に続く通天台と呼ばれる舞台もある。


重森三玲(しげもり みれい1896年 - 1975年
)の経歴を調べてみると。
日本美術学校で日本画を学び、卒業後に東洋大学文学部に進学。
にいけばなと茶道を習い稽古に励む。

昭和4年(1929年)京都へ移り住み、翌年には勅使河原蒼風らと「新興いけばな宣言」を起草(当時は未発表)、いけばなの革新を世に提唱した。

その後は日本庭園を独学で学ぶ。
昭和11年(1936年)より全国の庭園を実測調査し、全国500箇所にさまざまな時代の名庭実測、古庭園の調査などにより、研究家として日本庭園史のさきがけとなっていく。

昭和14年(1939年)、『日本庭園史図鑑』26巻を上梓して庭園史研究の基礎を築き、また昭和51年(1976年)には息子の重森完途と共に『日本庭園史大系』全33巻(別巻2巻)を完成させるなど庭園史研究家としても多大な功績を残した。
『日本庭園史大系』などは、東日本大震災で被害を受けた庭園の修復の貴重な資料になるとも聞いた。

敷石や円柱などを巧みに使いこなし、植栽と融合させる。
伝統を受け継ぎ、創造につなげた偉大な人物と思った。



東福寺・龍吟庵庭園

2012年02月22日 20時16分37秒 | 庭園

東福寺・龍吟庵庭園


重森 三玲(しげもり みれい、1896年 - 1975年。昭和期の日本の作庭家・日本庭園史の研究家)について建築家の中込佶さんから聞いたことがあった。

僕が骨董に魅せられていた35年前頃、〈お茶の世界も分からなくては〉と友人宅にお茶の稽古に通ったり、奈良・京都に足繁く運んでいた時代。

その頃、中込さんは淡交会茨城支部の青年部長を引き受けていた。
茶室などにも造詣が深かかったので、重森 三玲の庭実測図や古庭園について教えてくれたのだろう。
会合で京都に行かれる機会も多く、訪れた有名茶室の話などを聞かせて頂いた。


龍吟庵庭園

今回、「非公開文化財特別公開」で重森三玲の作の東福寺・龍吟庵の庭園(1964・昭和39年)が公開されるとのことで、東福寺に向かった。



龍吟庵






東福寺第三世住持 無関普門(大明国師)の住居あとで方丈(国宝・室町)は単層入母屋造、こけら葺。その正面は七間(約12.7m)、梁間は五間(約9m)、柱間中央に両開き板唐戸の入口を設け、両端の柱間には遣戸をはめ込むなど書院造に寝殿造風の名残をとどめた、現存最古の方丈建築です。
背面に開山堂があり、大明国師座像(重文・鎌倉)を安置しています。大明国師は南禅寺の開祖でもありました。

龍吟庭


方丈を東西南に囲む三ヶ所からなり、いずれも枯山水の庭。

西庭「龍の庭」





特に有名なのが西庭、龍が海中から黒雲を得て昇天する姿を四国産の青石の石組で表現している。白砂と黒砂は雲を顕している。
四国産の青石は苔のつかない種類、折からの小雨・小雪を得て緑色が強く見える。

東庭「不離の庭」

方丈と栗を結ぶ渡り廊下に面した、長方形の小さな庭。
中央の石組を囲んで、鞍馬石を砕いた赤い砂が取り囲んでいる。
鞍馬石も、水を含んで赤みが強くなっている。

石によっては、水を含むと色の変化が激しい、ということが分かった。
雨が降っている時が、見頃と云う事もあるわけだ。


洗足池公園 @大田区南千束

2012年01月27日 23時54分24秒 | 庭園
洗足池公園 @大田区南千束



「ギャラリー・古今」で開かれている「縄文展」を観るため、東急池上線洗足池駅で降りた。
駅前の中原街道を跨ぐ陸橋を渡ると大田区立洗足池公園。



池の畔の案内板には、次ぎのとおり書かれている。
区指定名勝 洗足池
洗足池は、 武蔵野台地の末端の湧水をせきとめた池で、 昔は千束郷の大池と呼ばれ、灌漑用水としても利用されました。
池畔の風景は優れ、 江戸時代には、初代広重の浮世絵「名所江戸百景」に描かれるなど、江戸近郊における景勝地として知られていました。
昭和3年(1928)に池上線が開通すると、公園として整備され、 同5年には風致地区として指定されました。
面積は、 周辺を含めると約67,000㎡、 水面の広さは約40,000㎡です。 日蓮が足を洗ったので洗足池というとか、袈裟をかけたといわれる袈裟掛けの松のある御松庵など、日蓮にまつわる伝承も残されています。 また池畔には この地を愛した勝海舟の墓や西郷隆盛(南州)の留魂祠・詩碑などがあります。




水戸の大塚池公園と似た雰囲気で、広さは三分の一程度と思うが、湖畔の植栽は植物の種類も多く、手入れが行き届いている。



池の東側には、この池を愛した勝海舟夫妻の墓。



勝海舟が尊敬した西郷隆盛の死を悼んで建てた留魂詩碑。








弘安5年(1282)9月日蓮上人が、 身延山から常陸国(茨城県)に湯治に向かう途中、 ここ千束池で休息し傍らの松に袈裟を掛け、 池の水で足を洗ったとの伝えから「袈裟掛けの松」と称される松が在る御松庵妙福寺。



西の畔の千束八幡神社。
    
西北部一帯は桜山と呼ばれ、桜の名所でもあるらしい。



夢の島熱帯植物館 @江東区夢の島

2011年10月08日 20時57分40秒 | 庭園
夢の島熱帯植物館 @江東区夢の島



夢の島と云えば、かってはゴミの埋め立て地。
もっとも、江戸時代以来東京は埋め立てによって敷地を拡大した。

初めて、訪れたがそれらのイメージは皆無、素晴らしい公園緑地であった。
熱帯植物館は水戸も同様だが、隣接する清掃工場の余熱を利用している。





規模は大きいが、水戸植物公園も勝るとも劣りません。

マリーナに面したバーベキュー広場も在ります

西の谷にも、BBQが出来る場所を作りましょう。

北山公園 @笠間市

2011年05月05日 09時03分23秒 | 庭園
北山公園 @笠間市



3日に笠間の陶炎祭(4/29~5/5 @茨城県笠間市芸術の森公園)に行ったが、道路が混雑していると考え、宍戸駅から北山公園を抜けるルートを選択した。

この道の途中には、「白鳥の湖」と呼ばれる沼があり、湖畔に白亜の3階建のホテルとレストランもあった。
猟銃のメーカーが、クレー射撃場の付帯設備として開発したもので、当時としては夢のような世界であった。
沼の周辺は、恰好なハイキングの場所で、家族や町内会などでよく出かけたものだ。

その後、道路は笠間の陶芸公園方面に延長され、途中は「北山公園」として整備された。

道路の両側は桜並木で、さらに、湖や池にそって遊歩道がある。
湿性生態園、アヤメ・ショウブ園、キャンプ場、ローラーすべり台、展望塔、休憩施設などが整備されている。細長く距離もあり、高低差もある。
総ての所に行ったわけではないが、水戸近辺では僕のお気に入りの場所。


陶芸公園に向かう道だが、途中下車して散策することにした。





湿性生態園の水芭蕉はおしまい、カラーは盛りを過ぎた。
アヤメ、カキツバタはこれから。



八重の桜が盛りで、ヤマツツジは見頃。


先を急ぐので、30分位しか時間を取れなかったが、新緑の中の散策を楽しめた。

高低差や地形を生かした散策路。
適度に手入れした、遊歩道。
変化に富んだ植物。
雑草の処理など、多くの点で管理者の意図を感じられた。
旧友部町の時代の発想なのだろうが、とても素晴らしい。


水戸市の公園緑地課や公園協会も大いに見習ってほしい。
西の谷、逆川緑地、千波湖畔など、もっともっと良くなると思う。


桜吹雪の音無川親水公園

2011年04月12日 12時07分25秒 | 庭園
桜吹雪の音無川親水公園






王子の飛鳥山は桜の名所として江戸時代から有名です。
脇を流れる石神井川は板橋付近は滝野川と呼ばれ、飛鳥山の辺りは音無川と呼ばれるようです。
高低差もあり、蛇行しながら、変化に富んだ流れであった、のでしょう。

王子駅の後ろは、本流から分離され「音無親水公園」として整備されている。
桜の並木は、桜吹雪が舞っています。
江戸きり絵図にも在る「扇屋」の名物・卵焼が売っていました。






雨に濡れし花園

2011年04月09日 21時03分42秒 | 庭園
雨に濡れし花園

今日は朝から雨だった。
桜の時期は天候が不順、花冷え、と云うこともある。

何故か木蓮の花が見たくなり、先輩のお宅を訪ねた。




残念ながら、モクレンは盛りを過ぎていた。
残り花が、地面に散っているのは風情がある。
花は、盛りが良いとは限らない。



少し早目の、利休梅。
未だ、つぼみが多い。




貝母(バイモ)
我が家から株分けしたが、旺盛に繁殖している。




土佐水木(トサミズキ)




沈丁花(ジンチョウゲ)
湿度が高いと、香りはさらだ。




連翹(レンギョウ)と雪柳(ユキヤナギ)




山吹(ヤマブキ)
初夏の花で少し早め。

雨に濡れた花園「生あるを、喜ぶし」。
有難いことである。



称名寺(しょうみょうじ)@横浜市金沢区金沢町

2011年03月07日 21時39分24秒 | 庭園
称名寺(しょうみょうじ)@横浜市金沢区金沢町




運慶展が開催された神奈川県立金沢文庫は称名寺の境内の一部分。
称名寺と金沢文庫についてウィキペディアをもとに概略すると。

称名寺は北条氏の一族である金沢(かねさわ)北条氏の祖、北条実時(1224年 - 1276年)が開基した。居館内に実時が収集した政治、歴史、文学、仏教などに関わる書籍が収められていた。
金沢北条氏滅亡後は、菩提寺の称名寺に文庫の管理がゆだねられたが、寺運の衰退とともに蔵書も次第に散逸した(中でも徳川家康や前田綱紀の持ち出した数はかなりなものだといわれる。
1930年(昭和5年)、神奈川県立金沢文庫(かなざわぶんこ)として復興、県立図書館として活動してきた。1990年(平成2年)には新館が完成し、現在は、中世文化に関する博物館兼図書館の役割を果たしている。



文庫と称名寺は切通しとなっているが、以前はトンネルでつながっていた。
山と谷が連なる鎌倉の社寺は岩を刳り貫いた隧道が多い。










浄土式庭園

金堂前の池と周りの庭園は浄土式庭園と云われている。
浄土曼荼羅に基づいて配置された庭園のことで、平安時代末期から鎌倉時代にかけて盛んにつくられた様式。
代表例としては、

奈良県奈良市 円成寺、京都府宇治市 平等院、京都府木津川市 浄瑠璃寺、
福島県いわき市 白水阿弥陀堂、岩手県平泉町 毛越寺などが知られている。

上記の中で、奈良県奈良市・円成寺の他は訪ねたことが有る。
平等院は建物や堂内の荘厳など貴族文化を偲ばれた。
毛越寺の庭園の広大さ規模の大きさは、平泉の藤原氏がいかに隆盛であったのかを感じることが出来た。








称名寺の庭園は
1320年(元応2年)、金沢氏3代貞顕の代に整備されたもので、発掘調査を経て1987年(昭和62年)に復元された。


完全に復元されたのか?とも思えるが鎌倉時代らしいのかも。







早朝に東京を立ち、運慶展を観て後の称名寺の庭園の散策は鎌倉時代をいくらか身近に感じた。



花の寺・東慶寺 @北鎌倉山之内

2011年02月20日 23時05分47秒 | 庭園
花の寺・東慶寺 @北鎌倉山之内



東慶寺境内図(東慶寺HPより)





書院玄関

最近は、男女同権というより、女性上位の社会に戻りつつある。
縄文時代は母系社会で争いのない世界であったというから、その方が理想の社会と云えるかもしれない。

平安時代末期から勢力を高めてきた社寺は、いつのまにか罪過ある者が逃げ入れば許されるという、治外法権をもつほどに至っていた。
そんな中で、東慶寺は罪人の救済所というよりも、女人救済の「駈込寺」として人々に知れ渡り寺法が確立され、江戸時代には幕府から補助金も出たと記録に残っている。


600年近く縁切りの寺として知られた、松が岡山・東慶寺の歴史だが、明治時代以降を記すと次のようだ。

明治4年3月、寺法の存続を願い出たが、夫婦の離縁を1つの寺の法則として取り扱うことを今後堅く禁ずるとして、同年7月をもって東慶寺の縁切寺法は明治政府によって禁止された。

明治6年5月、「人民自由の権利」によって松ヶ岡の寺法は、裁判所に引き継がれ、女性も男性同様に離婚の申し立てができるようになった。
駈込寺の幕を閉じたのち、明治36年には古川堯道老師が住職につき男僧の寺となる。

明治38年 (1905) 建長・円覚寺両派管長の釈宗演、東慶寺に遷住(二世)
大正8年、61歳で示寂した際、東慶寺中興開山の称号が贈られた。

大正8年 佐藤禅忠、住職(三世)となる



昭和16年 (1941)井上禅定、住職(四世)となる。
宗演の弟子鈴木大拙、師の遺言に基づき 「松ヶ岡文庫」を寺内後丘に創立する。

昭和58年 第5世の井上正道が住職となり現在に至っている。







井上禅定が住寺してのち、鎌倉の『花の寺』としての名声が高くなった。
僕が考えるに、住職夫人の尽力によると思う。

勿論、井上禅定の「京都にない鎌倉らしい庭を」の念が実ったといえよう。





釈宗演



大塚池公園

2011年01月23日 15時54分38秒 | 庭園
大塚池公園




天保4年(1833)徳川斉昭公が領内の景勝地を巡り、水戸八景を選定しました。
平成8年新たに市内の中から八景を選定しようと市民の投票により、新水戸八景が選定された。

1.弘道館と水戸城の濠
2.保和苑と周辺史跡
3.偕楽園と千波湖周辺
4.水戸芸術館
5.備前堀
6.大塚池公園
7.大串貝塚ふれあい公園
8.森林公園と楮(こうぞ)川ダム

エビネンコさんと雑談のついでに「私の水戸八景」を選定しよう。とあれこれ考えているが、有るが未だに決定はしていない。





大塚池畔の友人宅を訪問したついでに、湖畔を周遊してみた。
案内板によれば1周2・2㎞ということらしい。
千波湖のように楕円形ではないから見た目以上に距離がある。





白鳥等や鴨も多く数多く飛来し、鳴き声はかなり賑やか。
餌付する人が多いのだろう、岸辺に立っていると沢山のハクチョウが集まってくる。
散策やウォーキングする人も多い、
冬場は緑が少ないが、紅葉の時期は素晴らしそうだ。






周辺には豪邸が立ち並び、東京の石神井公園の周辺と似た雰囲気だ。
お屋敷を改造した喫茶と雑貨の店もあった。
もう何軒か出来たらなお楽しくなりそう。




椿山荘 @文京区関口

2010年10月19日 00時23分35秒 | 庭園
椿山荘 @文京区関口

東京滞在中、幾つかのことを決めてはいるが、他は、かなり適当だ。
この日は、天神町のゲストハウス出て江戸川橋をから神田川沿いを散策し、椿山荘の庭園を見て目白通りに抜け、学習院の前からJR目白駅の先の「古道具・坂田」まで、約6kmの散歩をすることにした。

「古道具・坂田」を訪ね、店内の品々を観るのは愉しい。
坂田さんの考えや感性に共感できる気がするが、これは、僕の一人よがりか。

神田川を境にして新宿・豊島・文京の3区が交錯している。
文京区の関口は椿山荘、細川家の永青文庫などが広大な敷地を占め、豊かな自然も残されている。
江戸時代初期に神田上水の水役として出府した松尾 芭蕉が、深川芭蕉庵に移るまでの4年間過ごした椿山荘に隣接する関口竜隠庵(のちに関口芭蕉庵)の跡がある事になっているのだが、現在は非公開なのか立ち入ることは出来ない。

武蔵野台地の東縁部にあたる関口台地、この地は、南北朝時代から椿が自生する景勝地だったため「つばきやま」と呼ばれていたとのこと。





明治の元勲・山縣有朋が1878年(明治11年)に購入し「椿山荘」と命名した。

今年の3月、京都南禅寺の近くの「無鄰菴」を訪ねたが、ここも山縣有朋が自ら設計・監督した別荘で東山を借景とし、琵琶湖からの疎水を取り込んだ名園だ。

其の後、椿山荘は大阪を本拠とする藤田財閥譲り受け、東京での別邸とした。
戦災で一部が焼失したが、1948年(昭和23年)に藤田興業の所有地となり、その後1万余の樹木が移植され、1952年(昭和27年)より結婚式場として営業を開始した。

随分前の話だが、先輩のお嬢様の結婚式に出席するため、椿山荘に始めていった。





高低差のある敷地を滝と小川が流れ、高台には三重塔が聳え、あちらこちらに石仏や石塔が配されている。その光景に驚いた記憶がよみがえった。
さらに、骨董の世界に入ってから椿の花の美しさに魅せられた。

一重の山椿、しかも、白が良い。

グエル公園、スペインうたたね紀行 ⑤

2010年05月25日 09時34分16秒 | 庭園
スペインうたたね紀行 ⑤

グエル公園









1900年代、バルセロナでは工業化が急速に進んでいた。
人口の増大に対応して旧市街の東北に新市街地が計画された。
一画にはスペイン人の心のよりどころとして、サグラダ・ファミリヤ教会の建造が開始された。
以来100年以上建設は続行されている。
近年の観光客の急増による入場料増で、予定より早く竣工しそうだという。
来年には、ローマ法王が臨席してミサも開かれるとのこと。





人口増による、新市街地のアパートの新築のほかに、グエル伯爵は更に郊外の山の上、バルセロナの街が一望できる禿山に60軒の高級分譲住宅を計画した。
人々が自然と芸術に囲まれて暮らせる、新しい住宅地を作ろうとしたのだ。
今なら受け入れられようが、1900年から1914年にかけての時代、交通が不便な山の上では買い手が付かない。





売れたのはただ1軒で、その他は、グエル伯爵とガウディの住まいだけであった。






入り口には販売事務所と、管理人事務所、中央部の広場の下には市場も作られた。






二人の進みすぎた発想と自然の中で暮らす価値観は、当時理解されなかった。
グエイ伯爵の没後に工事は中断し、市の公園として寄付された。



現在はガウディが一時住んだこともある家が、ガウディ記念館として公開されている。
中にはガウディがデザインした家具なども集められて展示されている。



グエル伯爵邸跡は小学校として使用されている。


写真では規模が小さく見えたが、実際はかなり広大で1軒の敷地はかなり広かったようだし、造成に際して掘り出された岩を積み上げた、ドームや止めのはかなりの広さと長さが在る。



市場として構想された建物の天井空間や噴水など、さらに、事務所などはデズニーランドの原型とも思える。まさに、おとぎの国のようだ。

建設後100年を過ぎ、落ち着き馴染んだ建物や植え込みは、部分的に写真で観る奇異な感じはなく、自然と一体化している。




因みに、彼らが最も傾注していた芸術はリヒャルト・ワーグナーの「楽劇」で、ガウディは同じ芸術センスを持つグエル伯爵の下で、自然と調和を目指した総合芸術を作り上げようとした。らしいが、その関連はクラッシック音痴の僕の理解を超えるので、機会があれば、クラチュウさん・エビネンコさんにお聞きしたい。





八芳園

2010年04月12日 08時56分32秒 | 庭園
八芳園
@東京都港区白金台



白金台を散策していら「八芳園」が在った。
結婚式場として名高い。どのような場所か知らなかった。

周辺はビルが立ち並んでいるが、広い庭園は別世界。
高低差を生かした設計がなされ,一番下の窪地は池となっている。

江戸時代は大久保彦左衛門の屋敷,下って大正時代に鉱山王と云われた久原房之助の屋敷となった。
久原のの手により,ほぼ現在の姿になった。
現在は個人の手を離れ、主として結婚式場として運営されている。
レストランのみの利用も出来る。

この日も,庭を利用して結婚式の披露宴が行われていた。

ジミ婚が多くなり,華やかな式や披露宴が少なくなっているようだ。
この様な,庭園での挙式も良いものだと思った。

散策の途中,手入れの行き届いた庭で披露宴を拝見するのは愉しい。
若さ溢れる人達の門出を祝する姿は更に嬉しいことだ。