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「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

「脇田美術館」@軽井沢町旧道1570-4

2012年09月06日 00時04分18秒 | Weblog
「脇田美術館」@軽井沢町旧道1570-4

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小鳥や子供や花の絵など身近な対象を描いた洋画家・脇田和(1908~2005)を知ったのは、後藤清一さんのアトリエの壁に掛けられて花のデッサン。
その後、水戸市内の画廊で開催された「脇田和展」を観て、童話の世界の様な優しい眼差しを感じた。水戸出身の彫刻家・小鹿尚久さんに通じるものを感じた。小鹿さんも小鳥と子供が大好きだった。

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脇田和の軽井沢の夏のアトリエを、囲む形で美術館が建設されて一般に公開されたのは1991年6月2日。旧軽井沢の銀座通りから徒歩数分の別荘地の一画だ。

美術館の発案から基本設計まで、脇田和自身が手がけ「自分の絵にふさわしい着物(建物)を着せてみたい」という夢が託された美の館。
設計図は友人の吉村順三・吉村順三設計事務所担当した。

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自然光の巧みな配分、変化とのびやかさのある展示空間からインテリアまで、絵画と建築そして環境が呼応しあう美術館。

15歳からの7年間、ベルリン国立美術学校で研鐙を積み帰国した。
1936年には、猪熊弦一郎、小磯良平らと「新制作派協会」の結成に参加し、終生、会員として活躍した。

戦災で焼失してしまった作品以外の全てを網羅した油彩・素描・版画・ペーパーバック・立体・コラージュ、など多彩な作品が陳列されていた。

シベリヤ・シリーズで有名な香月泰男も、僕は好きだ。
テレビ番組で観た時、アトリエには紙・針金・ブリキなど身近な素材で手作りしたオブジェやコラージュなど飾られていた。


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それと同じような、小さな手造りのオブジェ作品が連絡通路に展示されている。

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ミュージアムショップのカフェには、絵本『おだんごぱん』に登場するアンパンマンと同じようなパンとコーヒーのセットを昼食に。



中庭には鉄製のオブジェや大きな木には鳥かごが吊るされている。


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一日中居ても飽きないような、美術館だった。




「カフェ水野・クチュール水野」@旧軽井沢銀座通り

2012年09月05日 14時07分17秒 | Weblog
「カフェ水野・クチュール水野」@旧軽井沢銀座通り

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ファッションデザイナーの水野正夫・和子ご夫妻は戦後の日本のファッション業界を代表された方。
日本文化の海外への紹介に大きな役割を果たした。
目白の本店と六本木店さらに鎌倉店。
フランスのオートクチュールの会員となり、パリにもお店を有していた。

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夏期(7月~9月上旬)は旧軽銀座に「カフェ水野・クチュール水野」を出店していた。
旧軽でも飛びぬけてお洒落な店として人気を博した。

たまたま、両先生とご縁があり、店舗裏の茅葺屋根の茶室に家族で泊めて頂いたことがあった。広い中庭には何本かのカラマツの大木も在った。
中庭の大きなテーブル、小鳥のさえずる中での朝食は、いまだに忘れない想い出だ。

昨年、来た時に懐かしく思って探したが、見いだせなかった。
今回、改めて探したところ、当時の建物を探し出すことが出来た。
貸店舗にされたのか、営業内容は異なり雰囲気も違ったが、とにかく、建物が存在していることで嬉しかった。

日本の美を強く意識し、生活全般の『美』を願った水野正夫・和子ご夫妻。
テレビに雑誌にと大活躍の時代があったが、最近は眼にする機会がない。

目白の本店は営業しているようだ。
近いうちに訪れてご挨拶したいと思っている。



そば街道を歩く

2012年08月23日 13時43分16秒 | Weblog
そば街道を歩く

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横浜在住のFさんは中学・高校時代の同級生、50年以上の付き合いだ。
「火曜日、墓参りに水戸に行くから、昼に蕎麦でもどう?」と電話があった。
何処にしようか?と迷ったが「麦屋」(那珂市後台)に行くことに。古民家を改造し、作庭を店主自らが行った、風雅な店だ。月曜が定休と思っていたら、この日(21日)は月・火と連休との張り紙。
されば、R349を北上し「そば園 佐竹」(常陸太田市天神林町)を目指す。
磯部の田圃から連なる稲作地帯。隣接地に農園を有し、天ぷら、漬物など食材は園内の自家製が特色。残念ながらこれまた、連休だった。
それでは「越路」(常陸太田市稲木町)に。

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向かう途中に「佐竹寺」(常陸太田市天神林町2404)が在るのでご案内する。

名前の通り、鎌倉時代から江戸時代にかけて常陸国を支配した佐竹氏代々の祈願所。本堂は茅葺き寄棟造りで,正面中央には唐破風が設けられ,正面の火頭窓や柱,組物など,あらゆる箇所に桃山時代の建築物の遺構が残された国指定の文化財。僕の大好きなお寺だ。

「越路」に着いたらこれまた連休の張り紙。
お盆あがりで、休む店が多いようだ。
それでは、安比高原のフランス料理店シェ・ジャニー春田光治さんが「日本一の蕎麦」と絶賛する慈久庵に、とも思ったが更に10㎞以上の距離とある程度待つ覚悟がいるので、今回はスルー。

田園風景が美しいので暫くドライブしてみると、旧金砂郷村の久米町に。
ここは「くめ納豆」発祥の地。
水戸納豆の代表ブランドだが、今は「ミツカン酢」のグループ傘下になった。

近くには、「剛烈」の醸造元・富永酒造店がある。
最近は日本酒より、そば焼酎「金砂郷」が売れに売れている。

久米十文字から常陸大宮に向かうルートに「丸太小舎」と云う蕎麦屋を思い出した。文字どうりの丸太小屋で、近所のオバサン達が手打ちの田舎蕎麦を提供し、これが美味しい、
それらしきところに到着したが、跡形なく介護施設が在った。
所員に訊くと、「同じ経営で、昨年まで在りました。施設の拡張で取り壊されました」とのこと。残念ながら水戸に戻ることにした。

この辺りの蕎麦屋はどこに入っても間違いはない、と思っているから、次に目にした店にしようということで、金砂そば」(常陸太田市久米町120)に。

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変わり種で「豚せいろ」を頼んでみた。
豚肉と玉ねぎのつけ汁、

旧水府村・旧金砂郷村・旧里美村は2004年常陸太田市に編入された。
何れも趣のある村名であったから、名残惜しいが、


『平和祈念日』8月15日

2012年08月15日 01時10分40秒 | Weblog
『平和祈念日』8月15日

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ぴ~すプロジェクト「水戸が燃えたあの日」と題して水戸の空襲体験者の話を聴き、当時の中学生の日記を朗読し“戦争を知らない世代”に戦争を追体験してもらおう。との企画が8月11日と12日に水戸市南町の小林ビル地下1Fの
「クラブソニック水戸」で開かれた。

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若い世代に語り継ぎたいとの意図だから、バンド演奏などもあったので、高校生の参加者も目立った。

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会場の内外に、戦時中や空襲後の写真や感想などがパネルで展示されていた。

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日記文の朗読や戦時や空襲後の水戸の街の映像など盛りだくさんの内容で、定員100名の申込み制であったが幅広い世代の参加が在った。
水戸市平和記念館・水戸市立博物館。水戸芸術館の共催で高校や大学がボランテアとして運営に参加した。

午後4時から始まって8時までの4時間の長丁場。
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冷房が若干きき過ぎて、最後のライブ演奏は失礼したが、水戸空襲の記憶と題した体験者の話とトークタイムが有意義であった。

水戸市は昭和60年7月1日に核兵器廃絶平和都市宣言をした。
世界の平和は、全人類の願いである。しかし、核兵器保有国間の果てしない核軍備拡張競争は、今や人類生存の脅威となっている。
 このような憂うべき世界情勢の中で、我が国が唯一の核被爆国として全世界に対し、核兵器全面廃止の実現に向けて訴え続けることは、国民的使命である。
 よって、我が水戸市は、世界のすべての国に対し、核兵器の全面廃絶を求めるとともに、核兵器廃絶平和都市となることを宣言する。

「水戸市平和記念館」@水戸市銀杏坂(平成21年8月1日に開館)は空襲による被災状況、戦時中の市民の生活などについて、当時の資料や写真パネルを用いて展示しているが、市立博物館との提携を密にし、展示内容を充実させるべきと思っている。

8月15日を「終戦記念日」或いは「敗戦記念日」ととらえるか、との論議はある。人それぞれの受けとめ方は有ろうが「戦歿者を追悼し平和を祈念する日」さらには「核兵器全面廃止」願い『平和祈念日』が最適では、と思う。
今回の企画・運営に携わったボランテアの方々ご苦労様でした。


「ちい散歩」地井武男さん・お別れ会

2012年08月10日 19時18分35秒 | Weblog
「ちい散歩」地井武男さん・お別れ会

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僕の趣味のひとつが散歩。
徒歩ばかりでな自転車というより、主に貸自転車。
テレビドラマは見ないが「ブラタモリ」「ちい散歩」「世界街歩き」の様な“旅もの”は良く見る。

地井武男さんの「ちい散歩」は路地裏などを気ままに訪ねる。
人柄を反映しているのだろう、やさしさにあふれていた。
体調を崩され、番組を降板して間もなく亡くなられた。

眞壁明吉良さんは秋田のうどん屋さん(このブログからリンクしてます)
地井武男さんと交流があり、8月6日の「お別れ会」に参列され、秋田に戻る途中、水戸に立ち寄られた。

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昨日(8月9日)千波湖畔の「好文カフェ」で昼食を共にし、その様子をお伺いした。その際、参会者に配られた本を見せて頂いた。



「ちい散歩」では、その日の印象的な出来事をハガキノ大の紙に水彩画で描く。
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それらをまとめた563枚のスケッチが掲載された本で、厚さ3㎝位、水戸の偕楽園も含まれていた、

旅に出かけた際、写真は撮らないで、スケッチをしたい。
と思っているが実行は難しい。
筆と岩彩絵具と和紙を携え、描いたものを大道で売りながら無銭旅行をする、
こんな夢を持ったこともあった。


?「ちい散歩」を放送していたテレビ朝日では「想い出をありがとう 今夜、最後のお別れ」(11日午後6:30~)を放送する。
残念ながら、明日は「水戸が燃えたあの日」の公演が16:00~20:00 @クラブソニック、参加申し込みをしてあるから、テレビを観られない。
我が家のテレビは録画機能なし、どなたか録画して戴けませんか?


《眞壁明吉良さんのブログの記事を転載します》


2012年 8月6日(月曜日)、6月29日にお亡くなりになられた地井武男さんのお別れ会が青山葬儀所で行われた。
徳の高い方をお送りする時、竜神が動き、雨が降り、雷が鳴るという。
地井さんのお別れ会が始まると激しい雨が降り、雷雲が現れた。人を大切にされる地井さんらしく、通り一辺倒の付き合いではなく、心からの触れ合いを持たれた方々、約800名が集まられた。
祭壇は地井さんが好きだった黄色、ひまわりの花が飾られた。『北の国から』、『故郷』、『ちい散歩のテーマ曲』がヴァイオリンの生演奏で流れた。
渡辺徹さんが、『地井さんを皆が好きだったということを知っていますか』と弔辞で述べられた。青木功さんは親友の深さを語られ、研ナオコさん、萬田久子さんは号泣された。岩城こういちさんは、『芸能界に数少ない友人であり、兄貴だった。本当に面倒を見て頂いた』と話された。水谷豊さんは、地井さんが入院前、水谷さんを抱きしめられ、『豊、お前のことが好きだった。ありがとう』と耳元で言われ、目に涙をためられた地井さんの顔を一生、忘れられないこと、『(地井さんの人生は)見事な人生でした』と敬服の意を示された。田中邦衛さんは、『地井にい、会いたいよ』と振り絞る声で想いを語られた。私は、地井さんの今にも話されそうな写真に向かい、黄色のバラを献花しながら、『地井さん、本当にありがとうございます。私は地井さんにお会い出来、お付き合いさせて頂き、幸せでした。』と語りかけました。姿は見えなくても、地井さんは一人一人に、目に涙をためながら、『ありがとう。さようなら』と語りかけられたことだと思う。無双の優しさ、一つ一つ地道に積み重ねるホンモノ、人の悲しみ、喜び、苦しみも包みこんでしまう人格者、名優の逝去に全員が涙し、ぽっかりと空いた心の穴を感じている。水谷豊さんと食事をされた時はいつも地井さんがご馳走されたという。水谷豊さんがお金をだそうとすると、『豊が私におごるというのは、十年早い。というより一生、早い』と言われたように、また、国生さゆりさんが、お祭りに参加された時の地井さんの気遣いについてエピソードを紹介されたように、後輩想い、面倒見の良い、優しい方だった!私も何の恩返しも出来ないまま、地井さんは彼岸へ旅立たれてしまった。北の国からで号泣された地井さんのように私の目から涙が流れてしまう。せめて、私の想いが、お別れ会で伝わってくれればと祈っている。私は人間 地井武男さんを尊敬し、その大きな人格を惜しんでいます。見事な人生でした、地井さん、ありがとうございます。


平成24年長崎平和宣言 

2012年08月09日 22時33分40秒 | Weblog
平成24年長崎平和宣言  長崎市長 田上 富久

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 人間は愚かにも戦争をくりかえしてきました。しかし、たとえ戦争であっても許されない行為があります。現在では、子どもや母親、市民、傷ついた兵士や捕虜を殺傷することは「国際人道法」で犯罪とされます。毒ガス、細菌兵器、対人地雷など人間に無差別に苦しみを与え、環境に深刻な損害を与える兵器も「非人道的兵器」として明確に禁止されています。
 1945年8月9日午前11時2分、アメリカの爆撃機によって長崎に一発の原子爆弾が投下されました。人間は熱線で黒焦げになり、鉄のレールも折れ曲がるほどの爆風で体が引き裂かれました。皮膚が垂れ下がった裸の人々。頭をもがれた赤ちゃんを抱く母親。元気そうにみえた人々も次々に死んでいきました。その年のうちに約7万4千人の方が亡くなり、約7万5千人の方が負傷しました。生き残った人々も放射線の影響で年齢を重ねるにつれて、がんなどの発病率が高くなり、被爆者の不安は今も消えることはありません。
 無差別に、これほどむごく人の命を奪い、長年にわたり人を苦しめ続ける核兵器がなぜいまだに禁止されていないのでしょうか。
  昨年11月、戦争の悲惨さを長く見つめてきた国際赤十字・赤新月運動が人道的な立場から「核兵器廃絶へ向かって進む」という決議を行いました。今年5月、ウィーンで開催された「核不拡散条約(NPT)再検討会議」準備委員会では、多くの国が核兵器の非人道性に言及し、16か国が「核軍縮の人道的側面に関する共同声明」を発表しました。今ようやく、核兵器を非人道的兵器に位置付けようとする声が高まりつつあります。それはこれまで被爆地が声の限り叫び続けてきたことでもあります。

 しかし、現実はどうでしょうか。
 世界には今も1万9千発の核兵器が存在しています。地球に住む私たちは数分で核戦争が始まるかもしれない危険性の中で生きています。広島、長崎に落とされた原子爆弾よりもはるかに凄まじい破壊力を持つ核兵器が使われた時、人類はいったいどうなるのでしょうか。
 長崎を核兵器で攻撃された最後の都市にするためには、核兵器による攻撃はもちろん、開発から配備にいたるまですべてを明確に禁止しなければなりません。「核不拡散条約(NPT)」を越える新たな仕組みが求められています。そして、すでに私たちはその方法を見いだしています。
 その一つが「核兵器禁止条約(NWC)」です。2008年には国連の潘基文事務総長がその必要性を訴え、2010年の「核不拡散条約(NPT)再検討会議」の最終文書でも初めて言及されました。今こそ、国際社会はその締結に向けて具体的な一歩を踏み出すべきです。
 「非核兵器地帯」の取り組みも現実的で具体的な方法です。すでに南半球の陸地のほとんどは非核兵器地帯になっています。今年は中東非核兵器地帯の創設に向けた会議開催の努力が続けられています。私たちはこれまでも「北東アジア非核兵器地帯」への取り組みをいくどとなく日本政府に求めてきました。政府は非核三原則の法制化とともにこうした取り組みを推進して、北朝鮮の核兵器をめぐる深刻な事態の打開に挑み、被爆国としてのリーダーシップを発揮すべきです。
 今年4月、長崎大学に念願の「核兵器廃絶研究センター(RECNA)」が開設されました。「核兵器のない世界」を実現するための情報や提案を発信し、ネットワークを広げる拠点となる組織です。「RECNA」の設立を機に、私たちはより一層力強く被爆地の使命を果たしていく決意です。

 核兵器のない世界を実現するためには、次世代への働きかけが重要です。明日から日本政府と国連大学が共催して「軍縮・不拡散教育グローバル・フォーラム」がここ長崎で始まります。
 核兵器は他国への不信感と恐怖、そして力による支配という考えから生まれました。次の世代がそれとは逆に相互の信頼と安心感、そして共生という考えに基づいて社会をつくり動かすことができるように、長崎は平和教育と国際理解教育にも力を注いでいきます。

 東京電力福島第一原子力発電所の事故は世界を震撼させました。福島で放射能の不安に脅える日々が今も続いていることに私たちは心を痛めています。長崎市民はこれからも福島に寄り添い、応援し続けます。日本政府は被災地の復興を急ぐとともに、放射能に脅かされることのない社会を再構築するための新しいエネルギー政策の目標と、そこに至る明確な具体策を示してください。原子力発電所が稼働するなかで貯め込んだ膨大な量の高レベル放射性廃棄物の処分も先送りできない課題です。国際社会はその解決に協力して取り組むべきです。

 被爆者の平均年齢は77歳を超えました。政府は、今一度、被爆により苦しんでいる方たちの声に真摯に耳を傾け、援護政策のさらなる充実に努力してください。
 原子爆弾により命を奪われた方々に哀悼の意を表するとともに、今後とも広島市、そして同じ思いを持つ世界の人たちと協力して核兵器廃絶に取り組んでいくことをここに宣言します。

2012年(平成24年)8月9日
長崎市長 田上 富久


原爆忌 広島・松井市長の平和宣言全文

2012年08月06日 21時11分56秒 | Weblog
原爆忌

広島・松井市長の平和宣言全文


 1945年8月6日8時15分、私たちの故郷は、一発の原子爆弾により灰じんに帰しました。帰る家や慣れ親しんだ暮らし、大切に守ってきた文化までもが失われてしまいました。「広島が無くなっていた。何もかも無くなっていた。道も無い。辺り一面焼け野原。悲しいことに一目で遠くまで見える。市電の線路であろう道に焼け落ちた電線を目安に歩いた。市電の道は熱かった。人々の死があちこちにあった」。それは、当時20歳の女性が見た街であり、被爆者の誰もが目の当たりにした広島の姿です。川辺からは、賑(にぎ)やかな祭り、ボート遊び、魚釣りや貝掘り、手長えびを捕る子どもたちの姿も消えてしまいました。

 そして原爆は、かけがえのない人の命を簡単に破壊してしまいました。「警防団の人と一緒にトラックで遺体の収容作業に出る。少年の私は、足首を持つように言われ、つかむが、ズルッと皮がむけて握れない。覚悟を決めて指先に力を入れると、滴が垂れた。臭い。骨が握れた。いちにのさんでトラックに積んだ」。この当時13歳の少年の体験のように、辺り一面は、無数の屍(しかばね)が重なり、声にならない呻(うめ)き声の中、息のない母親のお乳を吸い続ける幼児、死んだ赤子を抱き締め虚(うつ)ろな顔の母親など、正に生き地獄だったのです。

 当時16歳の少女は、大切な家族を次々と亡くしました。「7歳だった弟は、被爆直後に全身火傷(やけど)で亡くなり、ひと月後には、父と母、そして13歳の弟と11歳の妹が亡くなりました。唯一生き残った当時3歳の弟も、その後、癌(がん)で亡くなりました」。広島では、幼子からお年寄りまで、その年の暮れまでに14万人もの尊い命が失われました。

 深い闇に突き落とされたヒロシマ。被爆者は、そのヒロシマで原爆を身を以(もっ)て体験し、後障害や偏見に苦しみながらも生き抜いてきました。そして、自らの体験を語り、怒りや憎しみを乗り越え、核兵器の非人道性を訴え、核兵器廃絶に尽力してきました。私たちは、その辛(つら)さ、悲しさ、苦しみと共に、その切なる願いを世界に伝えたいのです。

 広島市はこの夏、平均年齢が78歳を超えた被爆者の体験と願いを受け継ぎ、語り伝えたいという人々の思いに応え、伝承者養成事業を開始しました。被爆の実相を風化させず、国内外のより多くの人々と核兵器廃絶に向けた思いを共有していくためです。

 世界中の皆さん、とりわけ核兵器を保有する国の為政者の皆さん、被爆地で平和について考えるため、是非とも広島を訪れてください。

 平和市長会議は今年、設立30周年を迎えました。2020年までの核兵器廃絶を目指す加盟都市は5300を超え、約10億人の市民を擁する会議へと成長しています。その平和市長会議の総会を来年8月に広島で開催します。核兵器禁止条約の締結、さらには核兵器廃絶の実現を願う圧倒的多数の市民の声が発信されることになります。そして、再来年の春には、我が国を始め10の非核兵器国による「軍縮・不拡散イニシアチブ」の外相会合も開催されます。核兵器廃絶の願いや決意は、必ずや、広島を起点として全世界に広がり、世界恒久平和に結実するものと信じています。

 2011年3月11日は、自然災害に原子力発電所の事故が重なる未曽有の大惨事が発生した、人類にとって忘れ難い日となりました。今も苦しい生活を強いられながらも、前向きに生きようとする被災者の皆さんの姿は、67年前のあの日を経験したヒロシマの人々と重なります。皆さん、必ず訪れる明日への希望を信じてください。私たちの心は、皆さんと共にあります。

 あの忌まわしい事故を教訓とし、我が国のエネルギー政策について、「核と人類は共存できない」という訴えのほか様々な声を反映した国民的議論が進められています。日本政府は、市民の暮らしと安全を守るためのエネルギー政策を一刻も早く確立してください。また、唯一の被爆国としてヒロシマ・ナガサキと思いを共有し、さらに、私たちの住む北東アジアに不安定な情勢が見られることをしっかり認識した上で、核兵器廃絶に向けリーダーシップを一層発揮してください。そして、原爆により今なお苦しんでいる国内外の被爆者への温かい支援策を充実させるとともに、「黒い雨降雨地域」の拡大に向けた政治判断をしてください。

 私たちは、今改めて、原爆犠牲者の御霊(みたま)に心から哀悼の誠を捧げるとともに、この広島を拠点にして、被爆者の体験と願いを世界に伝え、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に全力を尽くすことを、ここに誓います。

2012年8月6日


「茶房 李白」と韓国喫茶「李青」

2012年06月18日 22時52分52秒 | Weblog
「茶房 李白」と韓国喫茶「李青」

映画「白磁の人」を観て、柳宗悦(1889~1961)らにより創設された駒場の日本民芸館の収蔵品を思い浮かべた。
博物館や美術館以外で、より身近に李朝の白磁や木工品を感じられる喫茶店もあった。



「茶房 李白」

李白看板

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神田・神保町に在った「茶房 李白」


後に、小田急線経堂駅近くの商店街から少し入った所に移転した。
神保町時代には行けなかったが、経堂に移ってから訪問し感激した。

李白外観

李白内部


建物からして韓国風、内装や展示品を含め、全てが完璧。
この様な店は、日本中でただ1軒だろう。
再訪が叶わないうちに、お店は閉じられたらしい。

稀な店だっただけに、誠に残念だ。


韓国喫茶「李青」 @京都出町柳


「李白」に心を打たれたご婦人が、京都に開業した喫茶店。

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内装に李朝の民具や陶磁器が飾られている。
本棚もあって美術書など自由に読むことが出来る、ブックカフェ。
李朝と現代が混然一体となって、如何にも京都、と言える店だ。


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高麗美術館
(京都市北区紫竹上岸町15番地)の関連施設らしい。
この美術館も小さいながら、きらりと光るコレクションを間近に見ることが出来る。

白磁の人 @TOHOシネマズ ひたちなか

2012年06月15日 22時35分20秒 | Weblog
白磁の人 @TOHOシネマズ ひたちなか


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古美術好きが憧れる品の一つに、李朝の白磁や木工品がる。
しかし、それらの品々が愛好されるようになったの、はさほど昔の話ではない。
日本が韓国を併合していた時代(1910年~1945年)朝鮮の美に魅せられた浅川伯教・巧兄弟の活動によって李朝の陶磁器や工芸品は一躍注目を浴びることになった。


兄の伯教は、1913(大正2)年朝鮮に渡り、700箇所にも及ぶ朝鮮王朝陶磁の窯跡を調査し研究し、陶磁器の時代的変遷を明らかにした研究成果は、朝鮮陶磁史の基本文献としてまとめられ今日に至っている。
兄を慕い、その影響を強く受けていた巧も朝鮮行きを決意し、翌年には就職していた秋田県大館営林署を辞め、朝鮮に渡って朝鮮総督府農商工部山林課林業試験所の雇員として働きはじめた。
林業技師として荒廃した山々の緑化に奔走するかたわら、兄とともに「朝鮮白磁」をはじめとした朝鮮陶磁の研究に心酔し、『朝鮮陶磁名考』を書き残した。

巧はまた、木工芸品の中に民衆芸術の美を見出し、優れた文化として日本に紹介している。1915年12月、巧は兄伯教と柳宗悦を千葉我孫子に訪ねる。
兄は前年、朝鮮白磁を持って柳をたずね、柳もまた朝鮮白磁の美しさに打たれ、にわかに朝鮮陶磁器に対する関心を高めることになる。

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この実話に基づいて制作されたのが「白磁の人」
映画は巧の仕事先の林業試験所で、伐採で山肌が見えるようになった朝鮮の山々を緑に戻す事に寝食を忘れるほどに働く、
共に働く朝鮮人の職員チョンリムから朝鮮語を習い始め、朝鮮人に溶け込もうとする巧。
当時の朝鮮半島は日本による植民地統治のもと、朝鮮の人たちへの蔑視や差別が当然のように行われていた。そんな社会情勢の中、彼は自らの意志で朝鮮の国と文化と人々を理解しようとし、心から愛した。

「白磁」に関する話より、日本による植民地統治下に繰り広げられた人間模様は、涙腺が壊れたかと思えるほど泣けた。

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昨年末、韓国で観た品々。




沖縄復帰から40年

2012年05月15日 23時20分25秒 | Weblog
沖縄復帰から40年

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記念式典で式辞を述べる沖縄県の仲井真知事。
後は野田首相=沖縄県宜野湾市で

毎日新聞は
 沖縄は15日、72年に日本に復帰して40年を迎えた。沖縄県宜野湾市内で政府と沖縄県が共催した復帰40周年記念式典で、野田佳彦首相は沖縄の基地負担軽減に取り組む決意を改めて述べた。沖縄県の仲井真弘多(なかいま・ひろかず)知事は沖縄の米軍基地問題を国全体で考えるよう改めて求めた。一方、戦後27年間の米国統治下で多くの人々が願った基地負担の大幅な軽減は今もかなっておらず、県内では40年前より規模は小さいものの、式典に抗議する集会やデモがあった。

と報じている。

沖縄が本土に復帰する前年か、或いは前々年に沖縄に行った。
アメリカ軍の統治下で、パウポートは必要としなかったが、渡航証明書の様なものを携行し、通貨は米ドルだった。
車はアメリカ式の右側通行で左ハンドル。

那覇市の至る所が米軍の基地で占められていた。
つてが有って、米軍のキャンプ一つに立ち入ることが出来た。
正に占領下であることを実感させられた。

嘉手納基地のフェンス越し、B-52戦略爆撃機がベトナム北爆に向かうのか、8基エンジンから黒煙を上げて飛び上がる様は正に怪鳥、不気味な姿であったことを今でも思い出す。

沖縄戦の終局の地、摩文仁の丘に立ち多くの慰霊碑をまえにし、戦争は二度と繰り返すべきではないと思った。

最大の犠牲者である沖縄の人達の苦労のほどは、とても理解の及ぶところでは無いと思えた。
基地問題は40年以上を経過しても、根本的な解決の道は見いだせないままだ。

昨年の大震災と原発事故は多くの問題を二の次にしてしまった感もある。
山積した難問にどう答えればいいのだろう。


上田薫さん@ 鎌倉

2012年05月08日 23時21分30秒 | Weblog
上田薫さん@ 鎌倉


port上田薫



久し振りに、上田薫さん異お会いすることが出来た。


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上田薫


小さな貝殻を描いた作品から始まり、「なま玉子」シリーズで、日本におけるスーパーリアリズム絵画の第一人者となった。
茨城県立近代美術館に収蔵されている幾つかの作品を目にした方も多いだろう。


茨城大学教授時代にお目にかかって以来20年以上になる。
温厚な人柄で淡々と生きておられる。
その後、退官されて相模原に転居。

フジテレビのギャラリーの個展「流れ」(1997年)のレセプションに草間弥生が来ていた時は驚いた。

5年前頃に鎌倉に移られ、昨年は水戸芸術館に作品を寄贈された。

奥様の葉子さんはキルトの作家としてご活躍。


東京Vを迎えて

2012年05月05日 23時46分01秒 | Weblog
水戸ホーリーホックVS東京ヴェルディ@ケーズデンキスタジアム水戸

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水戸ホーリーホックは5月3日FC岐阜戦に勝利し、J2通算150勝の記録を達成。勝点24で3位に浮上。
J1が現実味を帯びてきましたが、バックアップ体制はまだまだ、といえる。

しかし、水戸駅北口には幟も掲げられたとのこと。
もっと多くの場所に幟やフラッグをはためかせたい!

駐車場の出入り口の解決。
球場前から植物園にかけての道路を拡幅し、舗道を安全に歩けるように成れば良いですね。

クラブの YouTubeの公式チャンネルもスタートしました。
拝見した感想と云うより要望は、
サッカー入門者の小生には、リーダーが応援の歌や掛け声、拍手なども掲載してくれれば、スタジアムで一体に成れます。
重厚な応援歌も欲しいですね!
新しいパターンも考えてください。

サポーターのリーダーは、一般の観衆にもっと参加してくださいと遠慮しないでお願いした方が、、、
我々は、照れてしまって、やりたいけど出来ない!が現実と思います。

J1経験チームの応援の見事さは羨ましく感じます。
早く同じレベルに達したい。

明日、水戸は東京Vと戦う。
チームタイ記録の5連勝を飾り、首位タイを狙うチャンス。
水戸駅。赤塚駅からのシャトルバスも大増発のようです。
多くの人達が来られることを、期待してます。


手打ちそば 茶織菴 @鎌倉市雪ノ下

2012年05月03日 22時22分41秒 | Weblog
手打ちそば 茶織菴 @鎌倉市雪ノ下


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鎌倉国宝館を観た後、画家の上田薫さんに電話をした。
待つこと15分上田さんが迎えに来て下さった。
「家はこの上の方なんですが。お昼未だでしょう?蕎麦でも如何ですか」
歩くこと5分足らずで[手打ちそば 茶織菴]に。
鶴岡八幡宮に近く、観光客相手の店とも思えたが、小町通り程ではなさそう。
昭和の雰囲気が漂っている。


「メーカーズシャツ鎌倉」本店の隣。
このシャツ屋さんは1993年創業以来《オーダーメイドの品質を既製品の価格で》をモットーに今では首都圏に約20店舗を展開する人気店の本店。

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かき揚げせいろ。
サクサクなかき揚げには、粗塩が添えられていた。
細めの更科系、香りとコシが少し足りないかな。
薬味は刻みネギと本わさび。


平塚と湘南ベルマーレから学ぶこと。

2012年05月02日 00時28分49秒 | Weblog
平塚と湘南ベルマーレから学ぶこと。


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4月30日(月)1:00からケーズスタジアムの徳島戦、27日の湘南戦に2-1で勝利した後の疲れが出たのか、動きが鈍く徳島に主導権を握られたが、本間の再三にわたる好セーブにより得点を許さず。前半37分にFKから加藤が頭で合わせて先制し、後半に西岡が追加点を奪取。直後にPKから失点を許すが、反撃を1点に抑えて勝利、劣勢な試合でも勝ちに繋げるのは地力がついてきたのだろう。22日のザスパ草津に1-0で勝利してから3連勝で4位に浮上した。

とても嬉しいことだが、27日平塚を訪れて感じたこと記しておきたい。

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駅前の商店街にはベルマーレのフッラグや幟が沢山はためいている。
(この写真は良く撮れてない、縦型・横型。大小もある)
フロンターレの川崎駅に行った時も同様に思った。
水戸も駅を降りれば、ホーリーホックのフッラッグが常に掲げられていれば。(水戸でも、商店街に幟がたっているのを見かける時は有るが、チョットばかり違うな)

駅とスタジアムの間は170円区間で、歩いても30分位。
シャトルバスが頻繁に発着(試合終了後のスタジアム発も同様)

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総合運動公園は野球場(プロ野球の公式戦も行われる)、陸上競技場「Shonan BMW スタジアム平塚」、日本庭園も有し、屋外コンサートのステージも有るような広い敷地の3点セット。
水戸で云えば、偕楽園辺りにそれらの施設が有ると考えればよい。

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駅から10分位の「平塚八幡神社」

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八幡神社隣の隣には公園と「旧横浜ゴム平塚製造所記念館」は国の登録有形文化財(建物)
室内コンサートもあるとのこと、訪ねた時は数日後の演奏のリハーサル中だった。

更に5分歩けば市役所・博物館・美術館。

東京から60㎞で人口約26万人、水戸と人口は同じ位だが活気を感じた。
水戸は分散し過ぎて、核が亡くなってしまったのかもしれない。