「脇田美術館」@軽井沢町旧道1570-4




小鳥や子供や花の絵など身近な対象を描いた洋画家・脇田和(1908~2005)を知ったのは、後藤清一さんのアトリエの壁に掛けられて花のデッサン。
その後、水戸市内の画廊で開催された「脇田和展」を観て、童話の世界の様な優しい眼差しを感じた。水戸出身の彫刻家・小鹿尚久さんに通じるものを感じた。小鹿さんも小鳥と子供が大好きだった。


脇田和の軽井沢の夏のアトリエを、囲む形で美術館が建設されて一般に公開されたのは1991年6月2日。旧軽井沢の銀座通りから徒歩数分の別荘地の一画だ。
美術館の発案から基本設計まで、脇田和自身が手がけ「自分の絵にふさわしい着物(建物)を着せてみたい」という夢が託された美の館。
設計図は友人の吉村順三・吉村順三設計事務所担当した。


自然光の巧みな配分、変化とのびやかさのある展示空間からインテリアまで、絵画と建築そして環境が呼応しあう美術館。
15歳からの7年間、ベルリン国立美術学校で研鐙を積み帰国した。
1936年には、猪熊弦一郎、小磯良平らと「新制作派協会」の結成に参加し、終生、会員として活躍した。
戦災で焼失してしまった作品以外の全てを網羅した油彩・素描・版画・ペーパーバック・立体・コラージュ、など多彩な作品が陳列されていた。
シベリヤ・シリーズで有名な香月泰男も、僕は好きだ。
テレビ番組で観た時、アトリエには紙・針金・ブリキなど身近な素材で手作りしたオブジェやコラージュなど飾られていた。



それと同じような、小さな手造りのオブジェ作品が連絡通路に展示されている。


ミュージアムショップのカフェには、絵本『おだんごぱん』に登場するアンパンマンと同じようなパンとコーヒーのセットを昼食に。
中庭には鉄製のオブジェや大きな木には鳥かごが吊るされている。

一日中居ても飽きないような、美術館だった。




小鳥や子供や花の絵など身近な対象を描いた洋画家・脇田和(1908~2005)を知ったのは、後藤清一さんのアトリエの壁に掛けられて花のデッサン。
その後、水戸市内の画廊で開催された「脇田和展」を観て、童話の世界の様な優しい眼差しを感じた。水戸出身の彫刻家・小鹿尚久さんに通じるものを感じた。小鹿さんも小鳥と子供が大好きだった。


脇田和の軽井沢の夏のアトリエを、囲む形で美術館が建設されて一般に公開されたのは1991年6月2日。旧軽井沢の銀座通りから徒歩数分の別荘地の一画だ。
美術館の発案から基本設計まで、脇田和自身が手がけ「自分の絵にふさわしい着物(建物)を着せてみたい」という夢が託された美の館。
設計図は友人の吉村順三・吉村順三設計事務所担当した。


自然光の巧みな配分、変化とのびやかさのある展示空間からインテリアまで、絵画と建築そして環境が呼応しあう美術館。
15歳からの7年間、ベルリン国立美術学校で研鐙を積み帰国した。
1936年には、猪熊弦一郎、小磯良平らと「新制作派協会」の結成に参加し、終生、会員として活躍した。
戦災で焼失してしまった作品以外の全てを網羅した油彩・素描・版画・ペーパーバック・立体・コラージュ、など多彩な作品が陳列されていた。
シベリヤ・シリーズで有名な香月泰男も、僕は好きだ。
テレビ番組で観た時、アトリエには紙・針金・ブリキなど身近な素材で手作りしたオブジェやコラージュなど飾られていた。



それと同じような、小さな手造りのオブジェ作品が連絡通路に展示されている。


ミュージアムショップのカフェには、絵本『おだんごぱん』に登場するアンパンマンと同じようなパンとコーヒーのセットを昼食に。
中庭には鉄製のオブジェや大きな木には鳥かごが吊るされている。

一日中居ても飽きないような、美術館だった。