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「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

中谷宇吉郎の森羅万象帖 展@LIXILギャラリー

2013年10月29日 00時21分26秒 | Weblog
中谷宇吉郎の森羅万象帖 展@LIXILギャラリー

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東京には大学や企業の運営する美術館や博物館やギャラリーが沢山ある。
それぞれ独自の視点で蒐集・運営されている。
入場料も無料か或いは心づけ程度の値段だから有り難い。

中央区京橋の「INAXギャラリー」が改装され「LIXILギャラリー」と名前も変った。
これまでも、陶器、絵画、彫刻、映像表現と多様な企画展や、斬新な作品が紹介されてきた。新たになっても、これまでの運営方針は変わらないようだ。
散歩のついでに立ち寄るには格好の場所だ。
鹿島アントラーズの胸のロゴ「LIXIL」の会社で、トステム・INAX・ 新日軽・
.サンウエーブ等住まいと暮らしのトップブランドが一つになって生まれた会社とのことだが、専門外だから詳しくは分からないが、鹿島の応援をはじめとして発展することを期待している。

「雪は天から送られた手紙である」という有名な言葉で知られる科学者・中谷宇吉郎(1900~62年)自然現象を捉えた写真、スケッチ、科学映画など宇吉郎や彼の研究室が残した貴重な資料が展示されている。
火花放電や雪の結晶など、当時のカメラでよく撮影できたと思う映像が張り付けられた研究ノートが沢山展示されている。
研究の内容は理解できなくとも、中谷宇吉郎の科学に対する姿勢や自然に対する眼差しをくみ取れ、ただ、感心するばかりだった。


明治大学博物館@神田駿河台

2013年10月24日 17時20分48秒 | Weblog
明治大学博物館@神田駿河台

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50年前頃の話だが、フランス語を習おうと御茶ノ水の「アテネフランセに」の夜間の教室に週1回通った。1年ぐらいしか続かなかったが、文化学院の建物やマロニエの街路樹など、フランス映画が思い浮かぶような気分だった。
ジャズ喫茶やシャンソン喫茶「ジロー」(この店は今でもあるようだ)などにも良く行った。時には、神保町方面に降る坂道の途中の明治の学食でカレーなども食べた。坂を下った辺りに、白いピアノがあるシャンソニエにも何度か行った。学生の町だが、静かで落ち着いた雰囲気があった。

最近、神保町界隈を散策する機会が増えた。
路地裏には昔ながらの店が残っているが、御茶ノ水駅からの表通りは全く変わったが。
明治大学はリバティータワーとアカデミーコモンと云う高層ビルが出来た。
アカデミーコモンの地下に「明治大学博物館」があると知り訪ねた。
明治大学の前身は「明治法律学校」。
建学の精神「権利自由,独立自治」に基づき、自由と自治の精神を養うための設備として博物館を開設したらしい。

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館の案内パンフレットには
私たちの博物館には3つの部門があり,それぞれ異なる由来をもっています。商品部門は「商品博物館」を前身として商品を通した生活文化のあり方を,刑事部門は「刑事博物館」を前身として法と人権を考えます。考古部門は「考古学博物館」を前身とし,人類の過去と多様性を取り上げています。
とある。考古部門は茨城県内の貝塚や古墳の発掘に沢山関わっており、そこからの出土品なども多数展示されていた。

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中国の古代の鏡の特別展示がされていたが1級品揃いだ。

刑事部門の拷問具などはこの博物館ならでの資料らしい。
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別室の特別展 天平の華 東大寺と国分寺(2013年10月19日~12月12日)
は、主に古瓦などが展示されていたが、古瓦が大好きな私は興味が尽きなかった。

反対側の通路の奥には「阿久悠記念館」が在った。
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阿久悠記念館について《館資料には》
日本を代表する作詞家・作家阿久悠は、だれもが知る多数の歌謡曲の作詞を手がけました。その数は5,000曲以上におよびます。都はるみの『北の宿から』、沢田研二の『勝手にしやがれ』、ピンク・レディーの『UFO』などの大ヒット曲をはじめ、アニメソングやCM曲まで幅広いジャンルでヒット曲を数々世に送り出してきました。日本レコード大賞受賞は史上最多の5回、シングルレコードの売り上げは6,800万枚を越え、史上1位です。

 その活躍は作詞のみにとどまらず、直木賞候補となった『瀬戸内少年野球団』をはじめとする小説作品や、アフォリズム(警句)の手法を駆使したエッセイ、詩歌を多数発表し、作家として多大な業績を残しました。

 2010年、ご遺族から、自筆原稿をはじめとする阿久関係資料およそ1万点が寄贈されたことを受け、同氏の業績をたたえるとともに、その遺産を次世代に継承していくために阿久悠記念館をオープンさせることとなりました。



「布留(ふる)遺跡展」@神田錦町・天理ギャラリー

2013年10月23日 23時18分47秒 | Weblog
「布留(ふる)遺跡展」@神田錦町・天理ギャラリー
   9月27日~11月23日


天理ギャラリー

新興宗教団体が運営している博物館や美術館は教主の趣味嗜好や考えが反映された個性の強いコレクションだ。
世界救世教の「MOA美術館(熱海)」「箱根美術館」の審美眼は素晴らしく、施設と収蔵品が一体化している。
「ミホミュージアム」は展覧会の企画などから察するに、素晴らしい所と感じているが、残念ながらまだ行ったことが無い。
「天理教」が運営する天理大学の附属施設「天理参考館」は世界の生活文化(民族資料)と考古美術の博物館として名高い。
かなり前に行ったが、膨大な展示資料に驚いた記憶がある。

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「天理参考館」の付属施設「天理ギャラリー」が神田錦町に在るのを知って訪れた。
東京天理ビルの9階の小さな展示室。

遺跡布留

「布留遺跡展」―物部氏の拠点集落を掘る―と題する展覧会で、その遺跡は天理教の所有地の中にあるらしい。
 
《展覧会のパンフレットには》

布留遺跡の東側には石上(いそのかみ)神宮が鎮座します。日本書紀によれば、古くから物部氏が石上神宮を祭ってきたとされています。この石上神宮は神剣フツノミタマを祭神とし、大量の武器がおさめられていて、王権の武器庫としての役割も担っていました。物部氏は祭祀を司るとともに、軍事氏族としての一面も有していたことがわかります。
 布留遺跡は、この物部氏が本拠を置いた集落遺跡で、これまでの調査で祭りや軍事との関わりを示す良好な資料が出土しています。また、玉工房や武器工房との関連を示す遺物や渡来人との関わりを示す遺物なども出土しています。



「上海博物館 中国絵画の至宝展」@東博・東洋館 8室

2013年10月23日 00時43分47秒 | Weblog
「上海博物館 中国絵画の至宝展」@東博・東洋館 8室
10月1日 ~ 11月24日(期間中展示替えあり)



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今年の1月2日に東京国立博物館の東洋館がニューアルオープンした。
耐震補強と同時に展示室中央にエレベーターが設置されて、歩きやすくなったし、展示空間も全面改装された。照明にも工夫が凝らされて楽しい雰囲気となった。
展示範囲も広がり中国、朝鮮半島、東南アジア、西域、インド、エジプトなどの美術と工芸、考古遺物を展示されている。

今回は上海博物館所蔵の五代・北宋から明清にいたる中国絵画の流れを辿る展示だ。比較的小さな作品が多く、細密な描写が多いから間近に観ないと良く分からない。

煙江
一級文物 煙江畳嶂図巻 王詵筆 北宋時代・11~12世紀 上海博物館蔵

上海博物館
一級文物 花卉図冊 惲寿平筆 清時代・1685年 上海博物館蔵

何年か前に上海博物館で開催された「清明上河図」をメインとする展覧会に行ったが、長蛇の列だった。
当時も経済優先の時代と成ってはいたが、今ほどでなく、絵画などを楽しむ余裕はあったように思う。
昨今報じられる中国は、環境汚染に経済至上主義。
日本においても同様かもしれないが、文人墨客に憧れた、優雅な中国人は何処に行ってしまったのかと嘆きたくなる。

日頃の生活を振り返ってみるによい機会の展覧会だった。



「洛中洛外図屏風」 @東京国立博物館

2013年10月22日 23時29分47秒 | Weblog
「洛中洛外図屏風」 @東京国立博物館

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10月26日(土)から11月11日(月)まで奈良国立博物館で「第65回 正倉院展」が開催される。秋の風物詩として毎年通った時期もあったが、残念ながら、とんとご無沙汰になった。とはいえ、JR東海の「そうだ、京都行こう」は旅心を誘われる。

東京国立博物館で「京都―洛中洛外図と障壁画の美」展が10月8日 ~ 12月1日まで開催されている。
国宝・重文に指定されている7件の洛中洛外図屏風や京都御所、二条城、龍安寺を飾った障壁画が展示されている。

舟木本

岩佐又兵衛
重要文化財 洛中洛外図屏風(舟木本) 岩佐又兵衛筆 江戸時代・17世紀 東京国立博物館蔵

興味を持ったのは岩佐又兵衛筆の「洛中洛外図屏風(舟木本)」。
都の賑わいと四季の景観が軽妙な筆使いで描かれている。
とは云え、登場人物は2000人以上、一人一人は数センチ程度だろう。
実物から拡大した精密なスライドが併示されているから、それを見ながら納得する仕組みだ。
最近の展覧会のCGを駆使した展示法に疑問を感じるが、この屏風については、理解が深まった。
更に、書かれた時代によって描かれている建造物も異なる。

俯瞰図ではあるが、現実とは異なるあいまいな遠近感。
絵の中を散歩しているような気分になれる。

屏風によっては、画面の方角も現在の北が上、とは限らない。
自分の頭の中の町を自由に散策できる。

修復を終えたばかりの絢爛豪華な二条城の障壁画は通常は模造の展示で、現実の京都では目にすることが出来ない。
とはいえ、障壁画が本物でも空間は模造だから、自分の頭の中で重ねあわせて観る他ない。
美を感じるとは、そうゆうものなのだろう。

*『ヘンな日本美術史』山口 晃著 祥伝社によれば
「洛中洛外図」(単なる地図ではない、不思議な絵;とっつきやすさの「舟木本」、:王者の貫録「上杉本」:上手さとはとは別な迫力「高津本」とあったが、これからの研究課題。もう一度観てみたい。


「はにわの世界」展@ 茨城県立歴史館

2013年10月11日 23時37分48秒 | Weblog
「はにわの世界」展@ 茨城県立歴史館
10月12日~11月24日


埴輪展

明日(10月12日)から茨城県立歴史館で「はにわの世界-茨城の形象埴輪とその周辺-」が開催される。

埴輪(はにわ)は日本の古墳上に立ち並べられた素焼きの焼き物で、円筒埴輪と形象埴輪の2種類に区分される。
さらに、形象埴輪には家形埴輪、器財埴輪、動物埴輪、人物埴輪などがある。
形象埴輪は、古墳時代当時の衣服・髪型・武具・農具・建築様式などをうかがい知ることが出来る、考古資料だ。

古代、茨城は埴輪の一大生産地で、埴輪を並べた古墳が多く見られる地域で。
小美玉市・舟塚(ふなつか)古墳から出土した一群は、関東を代表する埴輪群の一つだ。

茨城県桜川市出土と伝えられる「男子跪坐像」は僕の大好きな埴輪。
関西のコレクター蔵らしいが、今回、久し振りに展示されるから、拝見するの楽しみだ。

考古資料ではあるが、古代の彫刻作品とも云え、縄文土器などと共に、古美術品としての人気も高い。
出土品は文化財で売買は出来ないが、昔、農作業などの際に発掘されたものなどがコレクションの対象となるが、優品の入手は難しい。

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著名な蒐集家のYさんのコレクション図録から、思い出の品の写真を紹介。
これ等は、既に散逸してしまったが、博物館所蔵となっているものもある。



「はだしのゲン」上映会@茨城県民文化センター小ホール

2013年10月09日 22時39分52秒 | Weblog
「はだしのゲン」上映会@茨城県民文化センター小ホール
10月12日(土)①10:30~12:00 ②13:30~15:00
中学生以下無料/一般500円


はだしのゲン

8月15日、水戸市立博物館で「わたしは戦争を忘れない」と題して戦争を語り継ぐイベントが開かれた。
語り部として登場した滝田浩さんと佐藤隆男さんのお二人。
佐藤さんは「中沢啓治の『はだしのゲン』、大岡昇平の『野火』、五味川 純平の『人間の條件』などを読んで下さい。私にとって、戦争が終わったわけでなく、深く刻まれた痛みはまだ消えていません。今日聞いた話を、皆さんで話し合い、語り継いで下さい」話された。

講演会終了後、市立図書館で『はだしのゲン』を借りた。
中沢啓治による、自身の原爆の被爆体験を元にした自伝的漫画。

戦中戦後の激動の時代を必死に生き抜く主人公中岡ゲン。
小学校低学年なのに、不屈の正義感を持っている。
僕が忘れてしまった、あの頃の様子も、良く描かれていた。

それから間もなく、この本の閲覧を難しくするような処置を、ある教育委員会が行ったことが報道された。残虐な場面があるとの理由だったが、思わず「えー、どうしてと思った」今の劇画などの方がその何倍も過激なものがコンビニで売られているのに。
間もなく、その方針は撤回されたが、当然と思った。

今回、『はだしのゲン』の上映会があるとのこと。
10月12日(土)文化センター小ホールで、10:30~と13:30~の2回上映。中学生以下は無料で、一般は500円とのこと。
多くの人に見てほしい。


『よろず占い処 陰陽屋へようこそ』@フジテレビ

2013年10月09日 18時22分54秒 | Weblog
『よろず占い処 陰陽屋へようこそ』@フジテレビ



5年程前から月に4~5日間を東京北区の王子で過ごすようになった。
王子駅の脇に「飛鳥山公園」があり、江戸時代からの桜の名所で緑が豊か。
東京で唯一の路面電車、荒川線も走っている。
荒川線を挟んで、王子神社の下に石神井川の親水公園もある。

王子銀座を含め、昔からの商店街が点在している。
閉じた店が増えたが、豆腐屋・八百屋・雑貨屋・米屋・魚屋・肉屋等。銭湯も少なくなったにしても、10軒以上はあり、下町の風情が遺されている。
通りに面して、草花を育て、季節の花を楽しんでいる家も多い。
そんな街を背景に、天野頌子「よろず占い処 陰陽屋シリーズ」の漫画を原作とするテレビドラマが火曜日の夜10時から、フジテレビ系列で放送が始まった。

自称陰陽師の阿倍祥明に扮する錦戸亮(関ジャニ∞)は霊能力が皆無なのに、よろず占い処『陰陽屋』を開業する。
南野陽子と知念侑李が扮する親子が最初の客として飛び込んだことから始まる
騒動が、クールな推理を交え解決する。」

杉良太郎、見栄晴、濱田マリ等の助演者は分かるが、主演の錦戸亮、知念侑李を知らず、原作も読んでいない。
題名から想像した占いオカルトの要素は少なく、下町商店街的の人情話で面白かった。
ロケ地は梶原銀座商店街で王子銀座とは少し離れた場所だが、あくまでもフィクション。
見慣れた光景も随所に現れ、興味深いドラマで次回以降も楽しみ。
12月まで毎週放送されるらしい。


「岡倉天心と文化財展」@天心記念五浦美術館

2013年10月08日 21時57分32秒 | Weblog
「岡倉天心と文化財展」@天心記念五浦美術館
10月12日~11月24日

ポスター天心展

岡倉天心

岡倉 天心(1862年2月14日(文久2年12月26日) - 1913年(大正2年)9月2日)
福井藩の武家の子として横浜に生まれる。東京美術学校(現・東京藝術大学)の設立に大きく貢献し、また日本美術院を創設した。近代日本における美学研究の開拓者で、英文による著作での美術史、美術評論家としての活動、美術家の養成といった多岐に亘る啓蒙活動を行い、明治以降に於ける日本美術概念の成立に寄与した。(ウィキペディアから)

天心は明治初期の超越した思想家で実践した人。と云う程度の認識はあるが、幅広い活動の全貌を知るのは至難の業だ。
岡倉天心や横山大観をはじめとする五浦の作家たちの業績を顕彰し、作品鑑賞の施設として平成9年11月8日に「天心記念五浦美術館開館」が開館した。

今回の特別展は、岡倉天心生誕150年・没後100年記念「天心が救った神仏たち」と題して文化財保護の観点から企画された。

天心が救った神仏たち
明治初年、政府は文明開化や廃仏毀釈の波によって荒廃していた寺院や古美術品の保護に動き出しますが、文部官僚としてその実現に奔走したのが天心でした。天心は帝国博物館(現在の東京国立博物館)の整備や古社寺保存法(現在の文化財保護法)の制定などその礎を築いています。さらに天心は、明治31年創立の日本美術院に国宝彫刻修理の部門(天心没後「美術院」と改称)を設置して、損傷した文化財を数多く保護しました。

神像

日本美術院による修理第1号となった和歌山・熊野速玉大社の国宝「国常立命(くにとこたちのみこと)坐像」や、京都・平等院の国宝「雲中供養菩薩像 南14号」など明治30年代に修理された仏像、神像をはじめ、美術院が修理に携わった茨城県内の仏像を修理記録と共に展示し、天心の文化財保護の精神と仏像修理の歩みをご紹介します。

【第一部】天心による古美術の価値の発見
【第二部】美術院国宝修理所に受け継がれる天心の理念
【第三部】美術院国宝修理所が修理した茨城県の仏像

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重文 薬師如来坐像 平安時代西光寺蔵(常陸太田市管理)※10月22日より展示予定

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県指定文化財 十二神将像鎌倉時代薬王院(水戸市)蔵

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重文 聖徳太子立像 鎌倉時代善重寺(水戸市)蔵

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重文 大日如来坐像 平安時代 公財)佐野美術館蔵
等も展示される(天心記念五浦美術館のホームページから)
天心を理解する良い機会として展覧会を楽しみにしている。

関連イベントとして10月13日(日)午後1時~3時30分に、西川杏太郎氏(公益財団法人美術院理事長)金子啓明氏(興福寺国宝館館長)根立研介氏(京都大学大学院教授)の三氏による「岡倉天心と文化財」と題する記念シンポジウムが開催される。
事前申し込みが必要だが、予約が出来たので、これまた楽しみにしている。


徳島と引き分けでしたが@ケーズデンキスタジアム水戸

2013年10月06日 22時59分12秒 | Weblog
徳島と引き分けでしたが@ケーズデンキスタジアム水戸

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4位の徳島ヴォルティスを迎えてのホームゲーム、久し振りの勝利を、と意気込んだが、お互いに激しいボールの奪い合いで前半を終えた。
後半に入ってから、チャンスが何度もあったが決められずに0-0のドロー。
上位を相手に良く戦った、といえるかもしれない。
入場者は3715人とこれまた、少し残念な結果。

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今日から、10万人チャレンジ!『ホーリーホックブルーミング!Tシャツチケット2013』が売り出された。

11月17日(日)開催のホーム最終戦、京都サンガF.C.戦の観戦チケットとなるTシャツが1枚1000円5000枚限定品、が売り出された。勿論、買いましたよ。

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沼田社長もTシャツ・チケットの購入を呼びかけ。

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サイン会の近藤岳登選手、ファンとの記念撮影。

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スタジアムグルメも楽しいものです。
もっと増えれば、より嬉しい。


徳島ヴォルティス戦@ケーズデンキスタジアム水戸

2013年10月05日 22時12分57秒 | Weblog
徳島ヴォルティス戦@ケーズデンキスタジアム水戸
10月6日(日)13:00キックオフ

徳島10月6日


35節はアウェー戦ながら神戸と1-1で引き分けた。
録画で見たが、西岡の素晴らしいミドルシュートで同点に追い付くなど、シュート数も互角以上の戦いを見せた。
2試合連続での引き分けで、順位は13位のままだ。
明日は4位の徳島を迎えて、7試合ぶりの白星を期待。

さらに明日より、10万人チャレンジ!
『ホーリーホックブルーミング!Tシャツチケット2013』が売り出される。

コラボTシャツ2013[1]

このTシャツは11月17日(日)開催のホーム最終戦、京都サンガF.C.戦の観戦チケットとなる。
1枚1000円で、5000枚限定品だ。
明日の発売と同時に即日完売を期待したい。

昨シーズンも売り出されたが、着心地もとても良く、今シーズンのスタンドでも数多組みかけた。
ユニホーム着用の様な一体感がある。

年間入場者10万人が目標だが、J2リーグ平均が6,465人。
水戸は1試合平均、4,601人で14位。
残る僅かなホームゲーム、毎試合1万人で盛り上げよう。


飯野安 「鳥の形をした壺」

2013年10月05日 20時13分43秒 | Weblog
飯野安 「鳥の形をした壺」

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「鳥の形をした壺」と題された3号の油絵の小品は、1971年5月に日立市鹿島町の「長山画廊」で開催された第12回「飯野安個展」に展示された36点の内の一つだ。
飯野安(1917-1990)さんは、蒐集していた縄文土器や埴輪を主題にした作品が多く、この展覧会でも半数を占めている。
この鳥の形をした須恵器の壺は新羅時代であろう。
酒器だが、野草の数本を挿す花器として使えそうだ。
実物はもう少し灰色だろうが、明るい色調で描かれている。
写真で撮ったらさらに明るく見える。
子供が描いたように見えるが、天真爛漫な飯野さんらしい作だ。

飯野さんは1917年(大正6)多賀郡日高村(現日立市)生まれ、1937年(昭和12)に茨城師範学校(現・茨城大学教育学部)を卒業した。
駒王中学で教員生活を十数年続けたが、毎日を制作にあてたいと退職し、絵画一筋の道を歩んだ。
榎戸庄衛に師事し、1950年に創元会展に初入選して以後同会と日展に出品する。
1960年に香取徳、小又光らと共に創元会茨城支部を結成、後に支部長として、後進の育成と会のまとめ役を務めた。

後藤清一さんとも親交があったので、何度かお話を聞く機会が有った。
『僕と後藤先生の出会いは、昭和28年の日展会場の都美術館でした。遊びに御出で下さいとのことで、間もなく、谷田のアトリエにお邪魔しました。もっともその頃はアトリエは無く、自宅の板の間に油紙を敷いて、制作してましたが。それ以来、良くお訪ねするようになりました。先生は古陶磁が好きで、僕も土器や埴輪が好き、先生の座右のものを見せて頂くのも楽しみでした。
後藤先生との出会いによって生き方も変わったし、また、芸術家のあり方を教えられました』
出会いから、日立の美術家や蒐集家との交流談など、興味深い話を水木のご自宅や文化団体連合の教室で伺った。

後藤清一さんとは関係ない話だが、棟方志功にまつわる話の数々は興味深かった。、
機会をみて、改めて記したい。

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1989年(平成元年)長山画廊の個展会場で。
もう24年前のことだが、これから間もなく亡くなられた。

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新羅の台付壺

?新羅(しらぎ/しんら、紀元356年- 935年)は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家。「新羅」という国号は、503年に正式の国号となった。


東京藝術大学構内散歩

2013年10月03日 14時47分50秒 | Weblog
東京藝術大学構内散歩

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「興福寺仏頭展」を拝観してから東京藝術大学の構内を散歩してみた。
大学美術館を観た後、たまに、構内を散策するこがある。

興福寺仏頭展が開催されている東京藝術大学の前身は東京美術学校。
後藤清一さんは大正3年9月(1928年)21歳の時に東京美術学校の牙彫選科に入学、大正8年3月卒業し研究科に進学した。
卒業作品は『波の囁き』(木彫・高さ50cm)

東京美術学校は1889年2月に開校したが、第2代校長として就任した岡倉覚三(天心)は準備時代から関わっており、事実上の初代校長であった。

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「岡倉天心像」平櫛田中作
この地は、旧寛永寺の敷地の一部、豊かな自然が残されている。

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「奥の細道」と称されている自然林、その一角に「天心像」は安置されている。


美術学校の彫刻科は、明治40年の教科課程の改正により木彫・塑像・牙彫の三科になった。主任は江戸仏師だった高村光雲。
天心によって、彫刻家の主任として迎えられ、昭和元年に退官するまでの在職期間は36年の長きに及んだ。
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「高村光雲像」(ブロンズ・高69.1㎝、昭和10年/1935)
台座背面刻書「昭和十年十月建 門人一同 熊取谷工作所」

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「バルザック像」(ブロンズ・1897年ロダン作、全高280.㎝)
*備考
昭和8年1月20日 デルスニス氏より石膏像寄贈 昭和46年8月25日鋳造

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赤のMGB
彫刻棟1階に駐車してあった。
こんな車に乗ってみたい。教授がお乗りでしょうか?

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「陳列館」
1929年、美術学校が蒐集した美術品を展示するための「陳列館」(現東京藝術大学大学美術館旧館)が1929年建設された。
修復されて、定期的に企画展が開催されている。

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日本・中国「東洋茶文化交流」 展覧会が開催されていた。

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学生食堂

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定番の「カツカレー」を食す。

後藤さんの在学時代とは大幅に変わったであろうが、一部はそのままと云う所も有ろう。
構内の散策は久し振りに後藤さんの生涯と作品を振り返る機会となった。


会沢正志斎の像・小鹿尚久作・@水戸市南町3丁目

2013年09月26日 11時08分35秒 | Weblog
会沢正志斎の像・小鹿尚久作・@水戸市南町3丁目

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茨城県立歴史館の「会沢正志斎」展(9月29日迄)の記事をアップしたら「水戸市内にある会沢正志斎の銅像は父の作品です」と書き込みを受けた。
はてさて、その像は何処か?と一瞬迷ったが、住友生命水戸ビル前のポケットパーク建立されていたのを思い浮かべた。
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餌差町(旧・鷹匠町、現・梅香2丁目)生まれとも伝えられる、会沢正志斎(1782年~1863年・82歳没》は9歳にして四書五経を学び、10歳で藤田幽谷に入門、18歳で彰考館に入り、22歳で江戸に移り1820年39歳で水戸に転居。
その間、任地の大阪で死亡した父の遺骨を受け取る旅に出で、伊勢・吉野。京都を巡った。41歳の時は駿河、伊豆を巡り富士山に登る。42歳で彰考館総裁代役となる。1824年・43歳の時、大津浜に上陸したイギリス人の捕鯨漁船員の取り調べの筆役と赴き、海外の事情に触れ危機感を感じ翌年『新論』を著わし藩主に提出。

『新論』沈滞した民心を振いおこして国防を強化し、内外から迫りくる政治的危機を克服し、国家の富強を実現するための方策を明示するところにあり、尊王と攘夷は、その民心糾合の手段としての意味をもっていた。
幕府にはばかる内容と出版は禁止されたが、写本が行く末を案じて活動した吉田松陰などの志士達を中心に広く流布し,水戸に発達した学風である水戸学の書物としても伝わった。刊行されたのは1857年76歳の時で、斉昭復権運動の罪に問われ1846年(65歳)から4年間幽閉され復権した後の事だ。
1852年吉田松陰は永井政介宅に1ケ月逗留し会沢正志斎に教えを乞うた。

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南町の旧宅の反対側に建つ会沢正志斎像は、小鹿尚久(1922-2011)作で、平成4年3月に建立された、『下級武士出身の正志斎があの大津浜の岸頭に天の一角をにらんで、潮風に吹かれながら立つ姿を思って制作しました』と生前語っている。
優しい女性像、或いは男女の子供、小鳥などの小動物を得意とした小鹿さんの作では珍しい作品だ。

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安政時代の地図と照合すると、この辺りらしい。

江戸時代に82歳まで生きられ、長命な方で、更に江戸に住まい、京にも旅し、抜擢されたり幽閉されたりと波乱の人生を送ったから、住まいも何度か変わった。一晩をかけて足跡をたどっって、いくらかの理解は深まった。
混迷の時代、将来を見据えた政策を提言した会沢正志斎を見直してみる必要がありそうだ。


「歿後150年 会沢正志斎」展@茨城県立歴史館

2013年09月23日 23時38分07秒 | Weblog
「歿後150年 会沢正志斎」展@茨城県立歴史館

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会沢正志斎

茨城県立歴史館の開館は1974年、40年を経過した。
開館後しばらくの間、多くの企画展が開催されて楽しみだった。
10年前頃か(正確には覚えていないが)2階が常設のジオラマ展示になってから、これぞという展覧会が少なくなった感じがする。
予算の減少によるのだろうが、文書館としての役目もある博物館ならではの企画展に期待するほかはない。

さて、今回の「会沢正志斎展」は幕末の歴史に大きな影響を与えた水戸学の理論を確立した人物に焦点を当てた企画展。

歴史館のHPには次のように記されている。
水戸藩の儒者会沢正志斎(天明2年〈1782〉~文久3年〈1863〉)は、幕末の尊攘運動の理論を確立したことで有名ですが、近年、その思想が再評価されてきています。たとえば、評論家の中野剛志氏は「プラグマティックで健全なナショナリズムから学ぶべきことは大きい」とし、伊藤仁斎、荻生徂徠、福沢諭吉と同列に位置づけています(同氏『日本思想史新論』)。

 正志斎は10歳のとき、8歳年上の藤田幽谷のもとに入門、35年間にわたりその教えを学び、生涯に『新論』をはじめとして多くの著作を遺しています。それらは、深い儒学の素養、的確な世界情勢の認識に支えられていました。
 とくに、文政8年(1825)に著した『新論』は、幕末の尊攘運動の理論的出発点となった名著です。当初出版されなかったにもかかわらず密かに写されて広まり、全国の志士たちに大きな影響を与えています。久留米藩の真木和泉(保臣)、長州藩の吉田松陰らは水戸を訪れ、正志斎から直接教えを受け深い感銘をうけています。

今日(23日)11:00から学芸課長永井博氏の展示解説があり、お聞きしたこと
を纏めてみた。

大津浜イギリス人上陸1
文政七年(1824)異国人上陸図

ペリーがやってくる30年前、水戸藩の大津にイギリスの捕鯨船員が上陸。
この出来事によって水戸藩では外国人を追い払おうという攘夷思想が広がっていく。

新論

会沢正志斎は筆談役として現地に赴き、報告として藩主に提出したのが『新論』だった。
いわば内部文書が、書き写され全国に広まっていった。

その後、斉昭のもとで、藩政改革ブレーンの一人として活躍、とくに弘道館創設には、組織、内容の制定に情熱をもって取り組んだ。
教育の総責任者たる教授頭取をつとめ、幼き日の徳川慶喜など斉昭子弟の教育にもかかわった。

『新論』のあらましは幕府を中心とした内政改革、国家としてのまとまりを実現する。単に鎖国を維持するのではなく国力を増し、将来的には海外進出を目指すとした。

1824年(43歳)大津浜にイギリス人が上陸。
1826年(45歳)『新論』藩主に献上。 
1852年(70歳)吉田松陰が訪れる。     1
1853年(72歳)ペリー来航に際して、対応策を斉昭親子に提出。
1858年(77歳)朝廷に返納すべきと主張。
1860年(79歳)桜田門外の変の襲撃を「天誅の事その身の職に非ず」として非難。
1862年(81歳)『時務策』は軽挙妄動を戒める。
1863年82歳で死去。

40代後半から70代にかけては、徳川幕府や水戸藩の事情により、幽閉や史館の辞職と復帰など歴史の波に翻弄された。