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「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

松本瑠樹コレクション@世田谷美術館

2014年10月29日 20時09分57秒 | 人と作品

松本瑠樹コレクション@世田谷美術館

 

 

 

 

 

世田谷美術館で松本瑠樹さんのポスターのコレクションの一部が「ユートピアを求めて〜ポスターに見るロシア・アヴァンギャルドとソヴィエト・モダニズム」と題された展覧会が開催されている。

本年1月26日まで、神奈川県立近代美術館 葉山にて開催された展覧会の巡回展らしい

 

松本瑠樹(1946年~2012年)さんは文化服装学院在学中に、株式会社オールファッションアート研究所を創立。自らプロデューサー兼デザイナーとしてDCブランド「BA-TSU」を創業した。

当時、雨後の竹の子のように原宿近辺のマンションの一部屋から、多くのブランドが出現した。松本さんもその一人だが、当時から今まで存続しているブランドは少ない。

65歳で没したが、ファッションデザイナーとしてよりもトータル・プロデューサーの先駆者としての功績は偉大だ。

 

水戸市に1978年5月26日に「サントピア水戸」が営業を開始した。

2007年5月末日をもって閉館したファッションビルだが、地方都市に大きなインパクトを与え、今でも語り草であり伝説となっている。

 

「サントピア水戸」は建設費の未払いなどで開店を危ぶまれたビルだった。

起死回生の切り札として引きずり出されたのが松本さんで、渋谷に出現した「パルコ」をプロデュースした実績を評価された。

従って、「サントピア水戸」は日本で二番目のファッションビルと云う人もいるくらいだ。

ともかく、テナントの導入・開店のイベント・全てが彼の独り舞台だった。

開店後はテナント会の理事として貢献し、毎年一月のテナント総会後の記念公演で、ファッショントレンドや営業的なことまで話された。

松本さんなくしては「サントピア水戸」は成り立たなかったろう。

 

私も一時期、サントピアのテナントであったことや。企画部の用田さん・加藤さんとも知り合いだったので、松本さんとは話す機会が有った。

既に、その当時からアンティークやポスターの蒐集を始められたようなので骨董好きの私は興味が尽きなかった。

 

 

カッサンドルのポスターを収集し『美術館で展覧会が出来るほどです、村一番は世界一』と自信満々だった。

「ポスターは時代を映す鏡」との認識を持っていられた。

とにかく、敏感な感覚を持ち時代を先取りしていたことは間違いない。

 

ベストセラー『にんげんだもの』(相田みつを著、文化出版局、1984年)の出版プロデュースをしたのも松本さんで、母校の文化服装学院の出版社に「売れない場合は全て私が責任を取ります」と強行した。

癒しの書と文で名をあげた《相田みつを》もまた、松本さん無しでは有り得なかった。

サントピアのテナント総会で《相田みつを》の詩を朗読し、記念品として『にんげんだもの』が配られたが、朗読の音程や抑揚は役者以上の出来で、聞き人達に多くの感動を与えた。

本人が感動しているからこそ、他人にも影響を与えたのだ。

その点で、とても純真な方だった。

 

サントピアのポスターの一枚に『ハラハラ・ドキドキは僕が教えてあげる』とのコピーで百人以上の幼稚園児の顏」が写されたポスターは今でも印象に残る。

 

ポスターコレクションの数は2万点にも及ぶようだが、本展はこのコレクションより、カンディンスキーやマレーヴィチといった著名な画家や、ステンベルク兄弟、ロトチェンコなどのロシア・アヴァンギャルドのデザイナーたちが手掛けたものなど約180点を紹介しされていた。

社会の変革期に花開いたポスター芸術の多様性を概観できたが、特にスターリンが出現する前、平等で豊かな理想の社会を作り出そうとした時代の作品は魅力的だった。

 


「茄子」郡司硯田・筆

2014年07月16日 14時22分51秒 | 人と作品
「茄子」「なすび」



郡司硯田・筆

3日か16日まで「お盆」今日は送り火だ。
月遅れに行う寺や家も多いが、梅雨明けしない時期よりは、間もなく秋と云う8月のほうが気分に叶う。

茄子やキュウリに割り箸を差しこみ、午や牛に見立て、供物や精霊を運んでもらう、という習慣が有る。
僕も子供の頃はやったが、最近は省略してしまった。

夏の代表的な野菜と云えば、ナス・キュウリ・トマトを思い浮かべる。
茄子の原産地はインドの東部で、その後、ビルマを経由して中国へ渡ったと考えられ、日本には平安時代に伝わったので、1000年以上にわったて食べられている。
従って種類も多く、漬け物から煮物・焼きもの・炒め物など料理の幅も広い。僕も大好きな野菜。

たまたま、昨日の新聞に「夏野菜として、栄養価の高い食材」との記事が有った。
水っぽくて淡白、料理次第でどうにでも変化するが多くの栄養素が入っているとは知らなかった。
形や色も良いので、画材になることも多い。

この色紙の作者は、郡司硯田(1907-1975)で水戸市下市城東の生まれ。
堅山南風に師事し、師匠と共に日光東照宮の天井壁画の修復に従事している。
鯉の絵を得意とし「硯田の鯉」として、人気が高かった。
今でも、水戸や常陸太田で「鯉の図」の遺作を見かける機会は多い。

花開不同賞,花落不同悲。欲問相思處,花開花落時。 

2014年04月10日 20時24分45秒 | 人と作品


「春望詞」薛濤


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画家の福地靖さん、唐時代の俑を買い求めた際のスケッチとそれにふさわしい詩文を添えた。

「春望詞」薛濤
花開不同賞,花落不同悲。
欲問相思處,花開花落時。 

「春の眺めの歌」薛濤
花開くも 同(とも)に賞せず、
花落つるも 同に悲しまず。
問わんと欲す 相(あい)思(おも)ふ処、
花開き花落つるの時。 

大意は
花が咲いても一緒に楽しむこともならず、花の散る悲しみも共にできません。
 花が咲き、散ってゆくときに、思いを共に出来る処があったら教えて下さい。
(そこに行ってあなたと一緒に思いを語りたいのです)

薛濤(せつ とう、768年 - 831年)は中国・唐代の伎女・詩人。
魚玄機とならび詩妓の双璧と称される。
長安の出身(一説では成都とも)父の赴任とともに蜀へ移り、14・5歳の頃に任地で父が亡くなり17・8歳頃までに楽籍に入った(伎女となること)。蜀の長官・韋皐の屋敷に召されて酒宴に侍し、詩を賦して女校書と称せられた。浣花渓にいて、白居易・元�兔・牛僧孺・令狐楚・張籍・杜牧・劉禹錫などと唱和し、名妓として知られた


花狂いの日々であるが、思い出すことも多々ある。


「大久保蘭風・百二歳展」@常陽芸文センター

2014年03月25日 19時39分16秒 | 人と作品

「大久保蘭風・百二歳展」@常陽芸文センター

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90歳以上の高齢者が珍しくない時代になった。
百歳を超える方も多くなった。

今年102歳を迎えられる大久保蘭風(あい子)さんの書道展が27日(木)まで開催されている。

大久保さんのことは以前から存じ上げていたが、書道をなさっているとは知らなかった。平成19年11月、水戸市泉町の「タキタ画廊」で開催された『大久保蘭風九十五歳展』、平成23年『白寿展』立て続けに発表されたのを見る機会に得て、その人なりを良く知ることが出来た。

今回の『百二歳展』にも新作ばかりを発表された。


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会場入り口から会場の中まで、たくさんの祝いの花で埋め尽くされた。

書道への誘いは「倫理研究所」に入会(昭和36年・49歳)まもない頃、倫理研究所創立者・丸山敏雄師が書道によって生活を浄化するよう「秋津書道会」を主宰していたことがきっかけだったとのこと。

秋津書道会の「書道箴言」として、次のことがモットーとされている。

 練習は、必ず日に一度
 ずぼらは、向上の敵
 常によろこんで書き、求めて観よ
 人の書をほめ、己の書を愛せよ
 書は心声なり、書は心画なり


確かに、この言葉は全てのことに極意だろう。
日々の精進が、今回の展覧会に繋がっているのであろう。


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会場に在られた大久保さんはツルツル、老人に成れば誰しも出来るシミも少なく誠に若々しい。
とても102歳には思えない。
話をしても、よどむところ無く反応される。

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この様に生きられる方は、そう多くない。
5月には『生かされて百二歳』が刊行される予定と告示されていた。
自伝の書で、元気の秘訣の数々が明かされそうだ。


『オフェーリア』 サー・ジョン・エヴァレット・ミレー作。

2012年07月18日 23時26分53秒 | 人と作品

『オフェーリア』 サー・ジョン・エヴァレット・ミレー作。


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テレビ番組「極上美の饗宴」で『オフェーリア』を観た。
サー・ジョン・エヴァレット・ミレー(Sir John Everett Millais, 1829- 1896)は19世紀のイギリスの画家でラファエル前派の一員に数えられる。

ヴィクトリア朝の最高傑作と名高いこの作品は、1862年のロイヤル・アカデミー展に出品したもので、シェイクスピアの『ハムレット』のヒロインを題材にしたものである。川の流れに仰向けに浮かぶ少女のモデルは、後にロセッティの妻となるエリザベス・シダル。
明治期の日本の作家や画家にも影響を与え、ロンドンに留学中だった夏目漱石は『草枕』の中で温泉宿に逗留中の主人公の画家の言葉をかりてこの作品について述べている。

陶芸家・ 瀬戸浩(1941~ 1994)さん

2011年09月27日 23時32分03秒 | 人と作品
陶芸家・ 瀬戸浩(1941~ 1994)さん @栃木県益子町



昨年9月、エビネンコさんと「益子メッセ」で開催された「ルーシー・リー展」を観に行って以来、1年ぶりに益子に行く機会に恵まれた。

益子には浜田庄司が蒐集した日本国内外の民芸品を展示する「益子参考館」が在る。
40年前頃から古美術に関心を持つようになり、30年前頃は、年に何回か益子に行くのを楽しみとしていた。

その頃、水戸の伊勢甚百貨店の美術画廊で益子在住の陶芸家・瀬戸浩さんの個展が開催された。伊勢甚や志満津の美術画廊や相馬画廊を巡るのは、僕の毎週のルーチンワーク、愉しい時代だった。

会場におられた瀬戸さんは1941年の生まれで、僕と同じ歳。
話している内に話が盛り上り「是非おいで下さい」との言葉に甘え、訪問した。

益子町道租土の瀬戸さんの工房と自宅及び庭は自力で(一部は大工さんなど、専門家に頼んだというが)作られたと伺い感心した。
特に、栃木の名産である大谷石を積み上げて作ったリビングは建築雑誌に掲載されても不思議でない程、素晴らしかった。
庭木も、「何十年か立って丁度良く見える、ように植栽しました」と言ったが、垣根越しに見る、秋の山々を借景に取り込んだ庭は素晴らしかった。







その頃の瀬戸さんの作品は、建築的な面の構成に窯変釉のストライプ文様が施された金属的な作品だった。
類例を見ない形態と装飾はユニークで、今見ても、斬新な作品である。

次世代を担う活躍が期待されていたが、平成8年に亡くなられた。
謙虚で温厚な人柄であったから、誠に残念であった。
それから数年後、「益子メッセ」で回顧展が開かれ、懐かしく拝見したのも随分前のこととなってしまった。

『トリエステの坂道』(新潮社, 1998 年)

2011年06月21日 14時33分50秒 | 人と作品
『トリエステの坂道』(新潮社, 1998 年)



18日の須賀敦子のテレビ放映記事を読んだ、Tさんからメールが有った。
Tさんはイタリアが大好き、毎年のように訪れている方だ。
昨日、イタリアの旅から戻ったばかり、とあった。

メールの一部を披露すると、、、

4年前にトリエステに行きました。
これも須賀敦子の「トリエステの坂道」の検証と言うわけです。
本を片手にたどってきました。
トリエステなど訪れる日本人はほとんどいません。

イタリアといえば明るくてアモーレ・マンジャーレ・カンタビーレだと言う人もいますが、トリエステはそんなイタリアではなく、静かでどこか寂しい街というイメージです。

私も須賀敦子の文章はすきです。あの文章に流れるそのままの雰囲気をもつ街です。
坂道の検証なんて、気取ったことをいっていますが、イタリアだからこそ、いつ訪れても同じ雰囲気につつまれるのでしょう。

そして文のなかにある本屋さんに行ったりしました。

須賀さんが感じたことをそのままは無理としてもいくらかは感じとってきたかもしれません。

今回は、私たちのボローニアの友人の個展をみてきました。
そしてリグーリア海岸にあるポルトフィーノへいってきました。
ラパッロと言う街を基点にして海岸線を電車に乗ったりフェリーに乗ったりです。
トンネルを抜けるとすぐラパッロなのですが、リゾート地とはいえフランスのニースや モナコほど垢抜けてはなくて、かといって熱海ほど俗ではないと笑いました。

以上、以下略。

18日放送のテレビ朝日の番組に対する僕なりの感想だが。
正直の話、がっかりした。
映像と本ではまるで違うのは了解している。
2時間番組なのに感動するところが一つとしても無かったのは残念だ。

NHK教育テレビの「こころの時代」を観たときの印象が強すぎたのだろうか。
とは言え、三回シリーズの次回は6月25日午後7時~も見る心算。
魂を打つ場面があることを期待して。

「木のいのち 木のこころ」小川三夫氏 

2011年06月16日 21時27分39秒 | 人と作品
「木のいのち 木のこころ」小川三夫氏 
@蝸牛文庫 常陸大宮市舟生865番地




1級建築士・エビネンコさんのお誘いで、「蝸牛文庫」開設3周年を記念講演会に参加した。講師は“最後の宮大工”といわれた西岡常一(明治41年~平成7年)の内弟子で、法輪寺三重塔、薬師寺金堂、薬師寺西塔の再建に副棟梁として参加した小川三夫氏。

昭和52(1977)年に徒弟制を基礎とした寺社建築専門の建設会社「鵤(いかるが)工舎」を設立、全員住み込みの共同生活のユニークな会社である。
奈良と栃木に拠点を構え、全国各地の寺院の修理、改修、再建、新築にあたっている。
現在は舎主を辞するも、講演活動など多方面で活躍している。




大子町在住の大工棟梁・菊池均氏との縁で今回の講演会が実現したと云うが、現代の名工の講演とあって、旧舟生分校の講堂は満員となった。

「木のいのち、木のこころ」と題した講演は、情報過多で頭でっかちの我々に、黙って実践せよ、説いてくれた。
内容を抄録し記憶にとどめたい。

弟子入りと修行

高校の修学旅行で法隆寺五重塔を見まして宮大工を志しました。
弟子入り志願したのは、高校を卒業する直前の18歳のときです。
法隆寺の境内に西岡さんを訪ねると、「子弟を養う余裕ありません」と断られました。
それでも、仏壇屋などで修行を重ねている時に、法輪寺三重塔建設中の西岡さんから手紙がきました。「法輪寺へ来てもよい」という内容でした。

道具箱持参し見せたら、「こんなものでは使い物にならない」といわれました。
次に「納屋の掃除をしろ」と言われました。

そこには法輪寺の図面と棟梁の道具がありました。
納屋の掃除をしろ、と言う言葉で感じ取れという教え方です。

新聞・テレビ、建築の本などは一切禁止でした。
「頭で考えてはいけない、まず体で先に覚えろ」それだけです。

あとは何も教えてもくれず、ほぼ3か月間、毎日、刃物を研いでいました。
ようやくある日、納屋にやってきた棟梁は、「カンナ屑とはこういうものだ」そういって1枚のカンナ屑をくれました。
向こうが透けるほど薄いものでした。

私は、それから20年間、西岡棟梁とは、ただ一緒にいただけです。
何か特別のことを教えてもらったわけではないのです。

鵤工舎でも、新人は1年間掃除と飯炊きだけです。
「カンナが削りたくてしょうがない」となった時、削らせてこそ技は上達します。私が西岡棟梁から教わったのも、そういうことです。

一生のうちに教わったのは、あのカンナ屑だけです。


木のいのち


ポッと種が落ちて育った木の寿命と、植林されたものでは寿命が違います。
「自然の中で生育している間の樹齢」と、「用材として生かされている間の耐用年数」があります。

こうした木ですから、この寿命をまっとうするだけ生かすのが大工の役目です。
1000年樹齢の木なら、少なくとも1000年用材として生きるようにしなければ、木に申し訳ないと思います。
木という材料を「生命あるもの」として扱い、その生命をさらに建築物として生かすのが大工の役目だと思います。

1000年も生きているような木は、ほとんど栄養状態の悪いところに育っているものです。岩の間の松とかです。
栄養状態の良いところで育ったものは長い年月の間に木の中心から腐ってきます。木曽のヒノキでは、寿命が600年くらいです。

自然にまかせる。


法隆寺、薬師寺などは、礎石立ちしているから木が腐りません。
飛鳥時代の法輪寺も同様です。



基礎となる石の上に、ただ柱が置いてあるだけで建っています。
自然石の上に立てられた柱の底は方向がまちまちです。
地震が来て揺すられても力のかかり方が違います。
“遊び”のある動きが地震の揺れを吸収します。

屋根の重さが柱にかかっているため、普通に建っている場合は、動かないわけです。
柱と基礎部の石、礎石、は繋がっているわけでありません。
一つ一つ、石の表面が違います。
石の凹凸通りに印をつけ、それに合せて柱の底を削るわけです。
柱を立て、柱にはしごをかけてみて倒れなければ大丈夫です。

ゆっくりのんびり。

昭和52年東大寺大仏殿の工事をやりました。
屋根を支えているのは、2本の松の梁で元禄時代のものでした。
九州の霧島の松を使っていました。

当時、奈良には大きな木がなく、霧島の木を使ったのだと思います。
どのようにして運んだか。
人10万人、牛4000頭を使ったといわれます。
むかしは、木を運ぶのに時間が大変かかったわけです。
一方、この時間がかかったことが物を作るには良かったのです。
山に生えている木は、そのまま伐採しては使えません。
少し寝かして、木の癖を出してから使うわけです。

現在は、何でも早く、早くといっていますがこれではだめです。
木を自然に乾燥させ木の癖をだしてはじめて使えるようになるのです。



講演の後、小川氏による槍鉋の実演があった。



槍鉋は、現在使われている台鉋ができるまでは使われていた。



両刃で刃は先端に向かって上の方に反っている。
法隆寺の柱もこれで仕上げてある、とのこと。

*6月22日 NHKのBSプレミアムで小川三夫氏のインタビュー番組の放送が有るとのことだ。
番組表チェックしたら見当たりません。別の日かもしれません。






追悼 彫刻家・小鹿尚久さん

2011年04月19日 23時27分07秒 | 人と作品
追悼 彫刻家・小鹿尚久さん

今年の1月、彫刻家・小鹿尚久(こじか たかひさ) さんが、亡くなられた。
1922年(大正11年)のお生まれというから 享年89歳。
数年前までは奥様に手を引かれ、水戸市内を散歩されているお姿を見かけたが、最近お目にかかることも無く、どうなされているかと気になっていた。

美術の世界に興味を持った40年前の頃、小鹿さんの『青いレモンの少女』と題する作品にであった。
細長く、すらりとしたフォルムの少女像に魅了された。
それがきっかけとなって、度々ご自宅にお邪魔するようになった。
お茶をよばれながら、沢山の話を伺うことが出来た。
美術の話から水戸の町の昔話まで、話の幅は広かった。
博識で、次から次へと展開する話に感心した。

思い返してみると、殆どの話は忘れてしまったが、
第二次大戦に従軍し、復員したが虚脱の毎日であった。
何かを作る仕事に従事したいと思い、大倉陶園に数年勤務した。
ある展覧会で、後藤清一さんの『菩薩像』に出会った。

『観ていると、「菩薩」はちいさな光の輪になって、心の琴線に触れ、全てをぬぐい去り、何も考えずにその後に従うべきではないかと思った。』
一つの出会いが、その人生を変えてしまうことが有る。
この話は印象深い。

資料を基にした略歴と感想を記せば、
後藤清一さんに私淑し、彫刻の道に進む。
1954年 第39回二科展彫刻部に初入選、以来二科展に出品を続ける。
1969年 二科会彫刻部会員推挙
1987年 第72回二科展彫刻部ローマ賞受賞
2005年 第90回二科会彫刻部文部科学大臣賞受賞

小鹿さんは二科会で、師と仰ぐ後藤清一さんは日展会員。
しかし、両者とも所属会派の枠にとらわれず、独立独歩の自由人。
会派の長におもねることもせず、徒党を組むことを潔しとせず、子分も作らず、誰とでも平等に付き合う。
肝胆相照らす交流は、昭和45年(1970年から)連続して10年。
10回にわたる『彫刻二人展』を銀座の兜屋画廊で開催した。



『少女の顔』

小鹿さんの作品は、少女像・童子像・鳥などの小動物像・母子像などが多い。
子供を連れて、一日中公園の鳩を見続けたことが有るという話も聞いた。

作品を観ていると、童話の世界のように物語が展開する。
何れの表情も可憐で純真な心を感じる。

労力の割には報われぬ彫刻の世界一筋、小供の好奇心を持ち続けて生涯を全うした。奥様の尽力があったればこそ、ではあるが。

アーティスト・芸術家・美術家と呼ばれる人は多くなったが、画家・彫刻家などその道一筋の人が少なくなっていく様に思える。

小鹿さんの作品を、一堂に観る機会が有ることを願って。     合掌

『伝えたい日本の美しいもの』 水野 正夫著 

2011年04月04日 23時02分38秒 | 人と作品
『伝えたい日本の美しいもの』 水野 正夫著 (1981、婦人生活社)





一部の若い女性の間で『和』がブームになっている感がある。
日本の良さを見直そう、と云うことは嬉しい。
暮らしの中に生き続けてほしいと思う。

服飾デザイナーの水野 正夫(1928~)さんが、日本の物の素晴らしさを再認識して、と著わした『伝えたい日本の美しいもの』は30年を経た今も、写真を眺め、文章を読むたびに日本の良さや美しさを感じる。




水野さんは戦後のファッションデザイナーの草分けで、妻の和子さんと共にク「チュール水野」を経営し、目白・六本木・鎌倉・パリなどに店舗を持った。

『チップものがたり』(1980、主婦の友社)を著わすほどの旅好き。
外国の珍しい風物に触れる喜びは、日本への傾倒が激しくなり、日本の良さを再認識するようになった。




『着こなしてますか』(1978、鎌倉書房)

着るということの合理性を常に考え、服は流行に左右されない本質の部分が大切で、流行の部分を少し加えるという基本を説いている。




服飾の分野にとどまらず、生活全般にわたって日本の良さを紹介しようとの念は『もっと美的に暮らしたい』21世紀ブックス(1977、主婦と生活社) ― やきものから箸まで日本の道具を使いこなす本―としてまとめられた。

日本の良さを体感するきっかけとなる好著で読みやすく楽しい本だ。
僕は、この本からの影響を沢山受けた。






日本の文化を外国人にも知ってもらおう、としてまとめたのが『伝えたい日本の美しいもの』で、藍色の布製の“たとう”に包まれている。
装丁と題字も著者の水野正夫さん。






タイトルは『箱』『歌』『繕』『碗』『包む』『箸』など50項目、全て漢字で壱字。
文章に合わせた写真(撮影・関野吉正)が添えられている。
この写真が、まことに美しい。




さらに、文章を抄訳した英文(訳者。REIKO IKEDA)も掲載されている。
日本の文物を外国人に紹介するにも適切な内容となっている。