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「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

彫刻家の庭さき@水戸市元山町

2016年04月14日 10時19分14秒 | 人と作品
彫刻家の庭さき@水戸市元山町

彫刻家・森山 元國さん




偕楽園に行く途中、水戸市元山町の民家に彫刻とフラワーポットが置かれている庭が気になっていた。
声をかけては入ろうと思ったが、無断で奥まで行ってみた。




その気配を感じたか、ご主人が出てきた。



彫刻家・森山 元國さんの自宅だった。

森山さんの父親・森山朝光(1897-1962)さんも彫刻家。
山崎朝雲に師事し、日本伝統木彫の刀技を生かした穏健な木彫作品制作した。
昭和32年日展会員に推挙され、木彫界の中堅作家として嘱望されたたが、65歳で亡くなってしまったので、知られている作品は少ない。

調べてみたら、常陸太田出身の実業家・梅津 福次郎(1858年~1942年)の胸像等も制作している。梅津は函館で活躍し、地元の太田に役場(現・梅津会館)建設の費用を寄付している。



梅津 福次郎 木彫・1944年

森山 元國さんは1939 年に生まれ 1958 年 茨城県展初入選 。
1961 年 茨城大学卒業/日立電線(株)入社。
1969年 茨城県展(美術館長賞)
1994年 茨城彫塑作家展(現在MITO彫刻展) :一陽会会友。
この様な経歴ゆえに彫刻で糧を得ることなしに、生活を楽しむ暮らしをされているのだろう。



通りがかりの人が楽しめる空間は素晴らしいことだ。

眞壁明吉良さんが「きらめきプラス」に登場

2016年03月17日 09時02分03秒 | 人と作品
眞壁明吉良さんが「きらめきプラス」に登場



月刊『きらめきプラス』は2012年に創刊された月刊誌だが、巻末には「人・文化・世代をつなぐ読者参加型の月刊誌、先人から受け継いだ日本の歴史と伝統・日本人の生き方を、今を生きる私たちが未来へとつないでゆきたい」で年間購読の読者が多いようだ。
著者はその道の専門家が、見開き2頁から4頁位を分かりやすい言葉で書いているから気楽に読める。



VOL43/卯月号は「2011年3月11日・あの日を忘れない」と東日本大震災関連の記事から相撲、教育、経済、法律、ビジネス、映画、武道、ペット、在宅医療など多岐な内容が盛り沢山。



巻頭を飾っているのは『女子の武士道』(致知出版社)で脚光を浴びた石川真理子さんが取材・執筆した「石川真理子の人物探訪」の第1回。



[うどんを科学した現代の武将]として眞壁明吉良さんが取材・掲載されている。
日本の三大うどんの1つ秋田の稲庭うどんは、昔ながらの手作りうどん製造が風前の灯だった時に、工学部出身で粉体工学を専攻した眞壁さんが伝統製法を踏襲しながら科学的な手法を取り入れ「乾麺でありながら、生麺の食感。細麺でありながら煮込み・鍋物でも煮崩れしない」うどんを完成させた。



茨城県の眞壁を発祥とする戦国武将・眞壁氏を継承する者として先祖に対するつながりの意識は戦国武将の清廉な生き様を現代に伝えようとして来た。
家業において食の安全性に対する研究・開発に専心する傍ら、心や魂に関する事柄にも造詣が深い。
秋田を本拠地としているが、講演などで全国を飛び回る毎日だ。

多忙な眞壁さんが「きらめきプラス」の次号から『現代に生きる武将たちの系譜』と題し連載を始る予告がされている。先ずは、出自の眞壁氏の先祖を辿り家訓の中から多くの教訓を得て、現代に生かす。
続いて織田家と縁の深い秋田氏など、今後の1年間どの様な武将が登場し「幸せに生きるための秘訣」を話されるか楽しみだ。

筧次郎さん講演会@ 水戸市立東部図書館

2016年01月20日 19時50分59秒 | 人と作品
筧次郎さん講演会@ 水戸市立東部図書館
■演題 「二つのこの世」~「もう一つのこの世」に気づくために~




■日時:2月6日(土) 午後1時30分~3時30分
■場所::水戸市立東部図書館2階視聴覚室
■入場無料


京都大学を卒業後、パリ第一・第三大学で哲学・言語学を学び花園大学講師だった筧次郎さんは自らの思想を実践するため、昭和58年より筑波山ろくで百姓暮らしを始めた。
当初は学者のきまぐれと思われたが農業者として30年をこえた現在、多くの影響を与えるようになった。
当時の新規営農者は日本全国で1500人程度だったが、昨年は約8万人位あるらしい。
経済効率が優先される世の中だが、自給自足を願う人が増えたという時代背景もあるだろう。

筧さんは農作業の傍ら『ことばの無明』『百姓入門―奪ワズ汚サズ争ワズ』『 百姓暮らしの思想 丸い地球の暮らし方』『ことばのニルヴァーナ―歎異抄を信解する』など哲学書や農業書など、10冊近く著わしている。
農業の実践を通して自給自足生活を模索し、現代文明について考える著作、(農作業もと著作)は筧さんにとっては同等の意義があるのだ。



昨年の3月『死を超えるということ 「もう一つのこの世」に気づくために』
を出版された。

「死が怖い」とはどう結うことか。「言語とは何か」。「もう一つのこの世」を語る試み。死とは何か。修行としての百姓暮らし。
等について語られているが、難解なところが多い。

説法するように語りかけ、解説を聞きたいと思っていたら「水戸読書の会」主催、水戸中央図書館共催で「二つのこの世」と題する講演会が開催される。

■日時:2月6日(土) 午後1時30分~3時30分
■場所::水戸市立東部図書館2階視聴覚室
■入場無料

難しい問題をどのように説明されるのか?
聴講を楽しみだ。事前の申し込みは必要なしだ。

深作欣二記念室 @水戸市立中央図書館

2015年09月26日 22時45分56秒 | 人と作品
深作欣二記念室 @水戸市立中央図書館







「Re MITO 100」の多くは講演や鑑賞ばかりでなく、参加型・体験型のイベントが多いのが特色だ。
週末には幾つかのイベントが重なり、何処に行こうか迷う。

「Re MITO 48」は《戦時中に水戸で育った少年の心には何が映っていたのか?》と題し、水戸出身の映画監督・深作欣二(1930- 2003)について「310+1シネマプロジェクト」の谷田部智章さんが水戸市立中央図書館の視聴覚室で紹介した。

生い立ちから助監督・監督時代の逸話、代表作の解説など約2時間にわたって映像を交え話された。
「仁義なき戦い」「バトル・ロワイアル」など暴力的な描写の作品の印象が強く偏見を持たれることも多いが、第二次大戦中は旧制中学校の生徒、戦後の「焼け跡・闇市」で混乱の時代に大学生活を送り、高度成長に向かう時代に映画人として制作した作品の裏に込められたモノを感じて貰いたい。との熱意が伝わった。





2009年7月、監督のご遺族から蔵書など4,000点以上の貴重な資料が水戸市に寄贈された。
資料の一部は「見和図書館」などで公開されたこともあるが、通常は非公開で、
中央図書館の3階に「深作欣二記念室」とし、保存されている。











今回は特別に谷田部智章さんの解説付きで拝見することが出来た。
『シナリオ』『キネマ旬報』『映画芸術』等を含む雑誌・図書類約4000点、LD・DVD・CD類、約300点、映画祭等の表彰トロフィー及び遺品や写真。
棚に入れたまま、未整理の品も多い様子。

台東区の図書館に付属した「池波正太郎記念館」を何度か訪ねたことがあるが、スペースさえあれば、展示法次第で引けはとらないと思えた。

文化遺産であり、観光資源であるこれらを眠らせておくのはもったいない。
受け入れ設備を確りさせてくれれば、遺族はさらなる品々を追加で寄贈することも考えているとのことだ。

市内のどこかの図書館の付属施設として「深作欣二記念館」を設置できないものだろうか。

「新市民会館」膨大な経費をもって対処しようとしている。
足もとを確実に、身の丈に合った施設をと願っているが、賛同する方はいないでしょうか?

「富張広司・也以、めおと展」@青野商店 提灯展示ルーム 

2015年03月05日 00時40分19秒 | 人と作品
「富張広司・也以、めおと展」@青野商店 提灯展示ルーム 





水戸市新荘の「青野商店 提灯展示ルーム」において、茨城出身の木版画家、富張広司さんと奥様の、也以さんによる夫婦展が3月20日(金)まで開かれている。

富張広司さんは「筑波山」「霞ヶ浦」など、茨城の景勝地をモチーフにした作品で知られるが、奥様の也以さんも版画家とは知らなかった。

サブタイトルに「版画めおと展」とあるように、それぞれの味が発揮されているのが楽しい。







白隠や浮世絵に想を得たような広司さんの豪快な作品。
西の内の和紙に刷った版画を貼った提灯はサイン入りのアート作品だ。





女性的な花をモチーフとした、也以さんの作品。

どちらも、今までの「提灯」と云う概念を突き抜けた、現代感覚に溢れている。
インテリアとして、或いは電球を入れた照明器具としても使える。

伝統技術に現代感覚が加わった「水府提灯」に取り組む姿を感じた。

佐伯祐三アトリエ記念館@新宿区中落合

2015年01月28日 15時37分09秒 | 人と作品
佐伯祐三アトリエ記念館@新宿区中落合






訪ねたのは12月9日、イチョウの大木が黄葉していた。

20代の頃はフランスに憧れた。パリを描いたユトリロやモジリアニに漠然とした興味を感じた。物心がついてからアメリカ的な生活の願望は強かったが、文化はヨーロッパのほうが勝っていたように感じていた。

日本人では佐伯祐三(1898-1928)の描く、ポスターが貼り尽されたパリの街角、近郊の村落や教会、など荒々しいタッチで書きなぐった、古き良き巴里を偲べる画面と30歳と云う若さでパリに客死したという夭折の画家の印象などから別格の存在に思っていた。
ほぼ同じ年代に活躍した中村彝と佐伯祐三。
佐伯が中村に私淑したことによるらしいが両者のアトリエは近い距離にある。
当時の下落合は郊外の農村地帯で、住宅地となった現在も農道がそのまま残された感がする。
「佐伯祐三アトリエ記念館」は袋小路の突き当りで、近くまで行きながら見い出せない程、細い路地裏。

佐伯祐三は明治31年(1898)大阪の浄土真宗光徳寺の二男として生まれた。
大正7年(1918)東京美術学校洋画科入学。
大正9年(1920)東京銀座の象牙商の娘、池田米子と結婚。
大正10年(1921)アトリエが完成、私淑した中村彝のアトリエが近くに在ったのが、この地を選んだ動機らしい。
大正12年(1923)に家族と共に神戸港からパリに出発。
大正15年(1926)健康状態がすぐれず、帰国し下落合の自宅・アトリエに戻る。
日本の風景などを描くが飽きたらず、昭和2年、病身をおし家族3人で再度フランスに渡る。
再び訪れたパリでは以前にも増して制作に熱中し、厳冬期でも
一日中戸外で描き続ける日を重ねた。

昭和3年(1928)8月死去、間もなく娘も6歳で病死。10月に妻・米子は
2人の遺骨を抱えて帰国、大阪の実家光徳寺に埋葬された。

妻の米子は昭和47年(1972)10月に死去(享年75歳)するまで、自ら画家としても活動し、このアトリエ兼住居で暮らした。

没後、この地は昭和50年(1975)建物を撤去し「新宿区立佐伯公園」として開放されていたが、平成22年(2010)4月当時の設計図を基に一部を復元「佐伯祐三アトリエ記念館」として開館した。



ライフマスク。

写真パネル、「下落合風景」の写真展示、佐伯が描いた地点と考える所の現在の写真、略歴・年譜など展示されているが、若干の物足りなさを感じた。
とは言え「土地の記憶・街の記憶」として、この様な復元事業は意義のあることだ。

中村彜アトリエ記念館@新宿区下落合

2015年01月26日 18時51分11秒 | 人と作品
中村彜アトリエ記念館@新宿区下落合







水戸出身の洋画家・中村彝(1887~1924)は優れた人物画などを遺し、37歳で亡くなった。





特に盲目のロシアのエスペランティスト、作家、言語学者、教育者をモデルにした『エロシェンコ像』(1920年・東京国立近代美術館蔵・重要文化財)は代表作といえる。
この作品の以前の所有者は春日部市のO氏で、その購入に際し後藤清一さんが相談に預かった。との話を聞いたことがある。



大正5年(1916)に建てられた中村彜のアトリエが修復され「新宿区立中村彝アトリエ記念館」として公開されている。
水戸市千波町、茨城県立近代美術館の敷地内に同じアトリエが再建され公開されているが、下落合のこちらがオリジナル。
とは言え、最近まで奇跡的に廃屋で残っていたのを、資料をもとに新宿区が建て替えた。

入館は無料で、自由に観て廻れる。
管理棟(展示室)では、解説パネルで彝の生涯や画業を紹介している。



このアトリエで亡くなった「彝のデスマスク」(複製、実物は茨城県立近代美術館)このデスマスクの発見は郷土史家・網代茂の手になる)も展示。



アトリエの床や天井、壁の腰板などは当時の建築部材を利用して復元している。

室内には彝の使用したイーゼルや家具・調度品(複製)が展示。







作品や写真等は複製だが、生前暮らした場所で見ると、美術館などで見る感じとは異なり、正しくそこに存在している感がある。


織部とは何者か?@銀座松屋8階

2015年01月13日 19時54分57秒 | 人と作品

織部とは何者か?@銀座松屋8階


 




古田織部(1544~1615年)が没して400年。「織部とは何者か?」を問う展覧会が銀座松屋8階で1月19日(月)まで開催されている。


「織部」と云えば織部焼を思い浮かべるが、信長・秀吉・家康ら天下人に仕えた武将茶人で、千利休亡き後の茶の湯の世界において「天下一茶の湯名人」として頂点に立ち、時代を動かした人物。


同時期の茶人である神谷宗湛の手紙に、織部の茶会に用いられた茶碗が「セト茶碗。ヒツミ候也。ヘウケモノ也」(宗湛日記)であるとされている。


 


一度完成したのを故意に形をひしゃげさせたり、壊して継ぎ合わせたりした茶碗。具象の絵柄に幾何学文様を書き加えた、不均衡さに美を見いだす作品は現代においても斬新だ。


 


「織部焼」は緑色の釉薬を掛けたやきものを指すのが一般的だが、志野、鼠志野、黄瀬戸、鳴海織部、黒織部、などの美濃焼を始めとして、唐津、伊賀、信楽、備前、丹波などでも数多く焼成されていた。


慶長年間の華やかな世相を踏まえ、奇抜な創意と斬新な造形美を創出し、桃山文化をみ出した指導者として、その才能をいかんなく発揮した演出家。


茶器製作ばかりでなく建築・造園などにも携わり「織部好み」として様々な形で伝えられている。


 


展覧会は3部で構成されている。


展覧会資料を基に概略と展示品の一部を紹介。


 


第1章 織部の時代


信長、秀吉らの出現により迎えた安土桃山文化。


中でも最も華やかで「かぶいた」慶長の時代を象徴する美術工芸品を通して、古田織部を生み出した時代。


 


銀箔押富士山形張懸兜 伝加藤嘉明所用


東京・靖國神社遊就館蔵


 


 


第2章 織部の茶の湯


利休の後、天下一茶の湯名人になった織部が、いかなる創意と工夫を発揮し、新たな武家茶の規範と斬新な茶道具の創出に関与したのか、ゆかりの茶道具を通し明らかに。


 


黒織部茶碗 (織部花押) 


 


 


3章 織部の茶道具


織部が開発し、時代のファッションとなったひょうげたる世界を、各地の茶碗・水指・花生の優品や、会席道具の名品を展示。


 


鳴海織部州浜形手鉢


 


お茶に関して知らないことばかりだが、織部の生きた時代背景の一部を垣間見ることが出来た。


日本の文化は縄文と弥生、水墨画と琳派など、相反するものが時代によって出現し共存することを、改めて認識した。



柴田宋休「陶・詩画展」@ギャラリー加古

2015年01月08日 20時52分53秒 | 人と作品

柴田宋休「陶・詩画展」@ギャラリー加古・水戸市河和田1-1545-7


会期:1月5日~14日


 



柴田 宋休(しばた そうきゅう)さんは茨城県笠間市出身で栃木県益子町在住の陶芸家にして浄土宗僧侶。


師の故・松井康成は(人間国宝)浄土宗月崇寺住職で、中国・宋代磁州窯に流れをくむ「練上手(ねりあげで)」の技法を研究し,独自の観点から現代に甦らせたとして人間国宝になった。


11年の修行の後、独立し益子に築窯。


当初は陶芸家として師の練上手の技法を継承するが、次第に詩画作品の制作に手を染めるようになる。


 


今回も、陶芸作品と並んで「心のつぶやき」の書画作品が展示されていた。


 


「前向きに生きる」「命」をテーマとした作品は悩みの多い現代の指針として共感を呼び、講演の依頼もおおい。


 


 



言葉をまとめた本や短冊、講演のDVD等も販売。


 


会期中、15:00から10分間の講話も行われ、宗教人としての生き方を実践されている。




 


この展覧会に文字通り花を添えているのが、池田誠子(のぶこ)さんの花。


毎年、素晴らしい花を活ける方、と感心していたがお会いすることが出来た。


 


花と器が見事に融合している。


清水正章・清水なつ子 陶二人展@ 水戸京成百貨店・アートギャラリー

2015年01月08日 14時18分35秒 | 人と作品

清水正章・清水なつ子 陶二人展@ 水戸京成百貨店・アートギャラリー


1月8日(木)~14日(水)


 



 


清水正章さんは1945年旧七会村(現・城里町)に生まれ、笠間と岐阜県の多治見で修行を積み、1975年に地元に窯を築き独立した。


笠間の作家でも古参のキャリアだが、年々進化を遂げている。


2013年「常陽藝文ギャラリー」で東日本大震災への思いを託したオブジェ作品を発表した。陶土にもみ殻を混ぜたりした質感は新しい境地を拓いた。




今回の陶板作品はその流れを汲んでいる。


 


お嬢さんの、なつ子さんは東北芸術工科大学の漆芸科を卒業し、陶芸家を目指したとのこと。


 



今回はペルシャ陶器のような唐草文様の彩画と、白磁に文様を彫り出した作品。




ふた付きの小さい容器は香合・化粧品入れなどに用いられるが、女性らしい優しい作品だ。


 


 


息子さんは陶による彫刻を制作しているとのこと。


今年の干支の羊の陶作品が二体出品されていた。


 


奥様も陶芸家とのことで、全員が陶器に携わっている羨ましいご家族だ


 


ブラタモリ「京都」編 NHKテレビ

2015年01月07日 06時08分25秒 | 人と作品

ブラタモリ「京都」NHKテレビ


 


街歩きの達人・タモリが古地図を手にしてブラブラと歩きながら、知られざる街の歴史や人々の暮らしに迫る「ブラタモリ」。


不定期ながら楽しい番組で度々再放送もされた。


その「ブラタモリ」が3年ぶりに4月からレギュラー番組として復活するという。番組宣伝を兼ねた番組が1月6日(火)午後8時から8時43分まで放映された。


 


京都の「琵琶湖疏水」「御土居」「新京極通」という3つの「京都復活巨大プロジェクト」の痕跡をたどりながら、当時の人々の生活を垣間見る。


 


崖線や川の流れなどの高低差や、古地図や版画などをCGで組み合わせ、現代と江戸時代を重ねあわせ、地元の案内人の解説を聞き歴史の中を散歩する。


 


「琵琶湖疏水」は琵琶湖の水を導水し水運・発電・飲料などに利用した大事業位の認識はあった。特に、南禅寺境内の煉瓦の導水路やインクラインの線路の跡地の景観は思い出深い場所だ。


 



 



 



「御土居」は豊臣秀吉が天正19年(1591年)に京都に構築した土塁と掘割で、軍事的防衛や洪水対策とともに、洛中と洛外を明確に区別する役割があった。正に、洛中洛外図の基となっている。


土塁の幅は9m、高さは3mで総延長は約23kmと云う、大工事だったが、自然の地形を利用しながら、何か所からも着工して、3か月で完成した、ともいわれる。


 「新京極通」はお寺の参道を広げて見世物小屋や物売りや飲食の店等にした。


ちょっと前までは、見世物小屋が発展したであろう映画館が多かった痕跡は残されていた。


 


街は繁栄と衰退を繰り返すのが世の習い。


為政者は大まかな都市計画を考える整備すること。


各々については町民(市民)自然発生的なエネルギーによる。


 


この時期、雪化粧した伽藍や庭、文化財の特別公開、更には京料理など。


冬の京都は魅力的で『そうだ、京都行こう』は永遠だ。


 


*「ブラタモリ」は京都の続編に次いで、全国を巡る企画となるらしく、これまた期待は多きい。


伊豆山善太郎著『水戸茶道史考』

2015年01月06日 21時53分58秒 | 人と作品

伊豆山善太郎著『水戸茶道史考』(新いばらきタイムス社 1988.)


 


郷土史家・網代茂(1926-2010)の水戸に関する著作『水府巷談』(1986.)『水府異聞』(1989.)『水府綺談』(1992.)》は水戸の歴史を知る手がかりのひとつ。


更に、日本の芸術に造詣が深かった伊豆山善太郎(1898~1989)の禅・茶・墨跡に関する著作の編集者として功績も大きい。


 


伊豆山善太郎(1898~1989)は東京に生まれ旧制一高、東大文学部社会学科を1922年に卒業。1924年旧制水戸中学(現・水戸一高)、旧制東京府立五女で教えた後、1929年旧制姫路工高教授、1938年旧制水戸高等学校に赴任、引き続き茨城大学で教育学部・文学部教授として教鞭をとった。


居士号・格堂、雅号・木人。


 


論文に茶道全集(創元社)の「禅と茶」「墨跡」、禅ブックス(平川出版社)第五巻「禅と日本文化」収載の「心学と禅」などがある。


 


1976年5月の茨城県歴史館茶室竣工を記念して発行された「水戸茶道史考」は論文で、部数も少なく一部の人達に知られるのみであった。


茶道関係者からの再版を望む声が多かったことに答えて、元の原稿に注釈や解説を加え、多くの写真や図版を多用し、新たに随想や交流のあった人たちの手紙なども加えられた著作で共著ともいえる。


 


その中に「吉田松陰の茶道感を変える」の一章で、吉田松陰が水戸を訪れた、嘉永4年(1851年)12月19日から翌年1月20日にかけて滞在中のことにふれている。


 


『ここに一つ吾人の注目をひく事件は吉田松陰が烈公の茶説などを読んで感心し、大いに子弟に進むべき道なりとして、兄杉学圃に書簡をしたため、それが学圃の随筆に出てそれはいるということである。これは東京裏千家山村宗匠から教えを受けた。』とある。


 


水戸は茶道を含め文化的でなかったと云われる。


禄高が少ないが御三家としての体面もあるし、大日本史の編纂などの経費がかさみ倹約を旨としたことによる。


 


偕楽園は水戸藩第9代藩主徳川斉昭(烈公)により1833年(天保4年)千波湖に臨む七面山を切り開き、回遊式庭園として造られたが、大名庭園ではなく


藩内の人達がともに楽しむところ、いわば公園の先駆け。


 


物見やぐらを兼ねた、好文亭の何陋庵露地にある腰掛待合の「茶説」と「茶對」額は二つとも烈公が係り、公の茶道観を窺える。


額のみならず、勿論、に本文があるが、茶礼の重要性をこまごまと述べ、ありふれた道具を使うのを恥じてはいけない。懐石も質素なのがいい。


と云う事が述べられているらしい。


この本文の拓本は弘道館の中の売店で買うことが出来る。


 


残念ながら、生前の伊豆山善太郎さんにお会いする機会はなかったが、手紙や原稿用紙は拝見する機会が有った。


 


一字一句をおろそかにしない楷書である。


多くは毛筆でペン字もある。


書は人なりと云うが、格調ある人柄が伺える。


「宝くじは買わない」忌野清志郎

2015年01月04日 22時46分43秒 | 人と作品

「宝くじは買わない」忌野清志郎


 


まとまった金を合法的に手にするには「宝くじ」を買うことしか無いから、年に何度か買ってきた。


当選金が入ったら何に使うか考える楽しみ、要は夢を買うのだ。


1枚でもいいから、買わなければ始まらない。


何百枚買ったか分からないが、金一万円也を手にしたことが一度だけ。


購入金額の一割は戻るが、かなりの金を納税したことになる。


 


昨年、何かのはずみで忌野清志郎のデビュー曲が「宝くじは買わない」であったことを知った。


 


宝くじは買わない


だって僕はお金なんていらないんだ


どんなにお金があったって


今より幸せになれるはずがない


宝くじは買わない


だって僕はお金で買えないものをもらったんだ


お金で買えない君の愛をもらったのさ。


 


ビートルズの“Can't buy me love”が基と思うが、まさにその通り。


モノやカネの豊かさとシアワセは反比例に思える。


 


清志郎は更に「東海地震もそこまで来てる だけどもまだまだ増えていく 原子力発電所が建っていく」「寒い冬がそこまで来てる あんたもこのごろ抜け毛が多い」「原子力は要らねぇ 危ねぇ」との曲も作っている。


 


場所は異なったが、地震による原発事故は起こった。


絵画や音楽に携わる芸術家は時代を先取りしていることが多い。


ロックミュージシャンも同様だ。


 


清志郎が健在だったら、どんな発言をし、どんな曲を作っただろうか。


 


網代茂忌

2015年01月03日 20時49分19秒 | 人と作品

網代茂忌



(1988年/昭和63 尋ねあてた中村彝のデスマスクを手に)


ここ数年、東京で暮れ正月を過ごした。
今年は、水戸で暮れ正月を送ったので、芸術館広場でのカウントダウンライブを聞き、信願寺に除夜の鐘を撞きに行き、雷神さんにお詣りした。
先を考えず、川の流れの如く生きてきたから、整合性はない。


今年、還暦を過ぎ干支を一回りし、二巡目に入った。
生まれたからにば何かは成し遂げたい。
と人並みの気持ちだけはある。


今日(3日)は、郷土史家として大きな足跡を残した網代茂さんの命日なので、菩提寺の善重寺(酒門町2096-2)にお詣りした。


善重寺は浄土真宗親鸞聖人ゆかりの24輩第12番の寺で、太子堂には鎌倉時代末期の木造聖徳太子立像(国指定文化財)が安置されている。
太子堂の脇には、私の尊敬する彫刻家の後藤清一さんの墓所もある。
若き頃、後藤さんが庵を結んだ竹林は駐車場となっている。
何やかにやと善重寺には月に一度以上は訪れている。



網代茂(1926-2010)は
大正15年6月25日、水戸城二の丸、三層櫓下の水戸市柵町に生まれた。
逓信講習所を卒業後水戸郵便局電信課に勤務。
昭和20年、相模原の第一陸軍通信連隊無線通信隊に最後の現役兵として入隊。
敗戦を迎え復員。
昭和28年、新いばらきタイムスの記者として入社。
編集局長・営業局長・副社長を歴任した。
その間、郷土に連なる国内外の旅の会を企画し添乗並びに解説は好評を博した。
横山大観、常陸山、中村彝の顕彰事業や記念碑の樹立にも携わった。


特に『水府巷談』(1986.)『水府異聞』(1989.)水府綺談 (1992.)何れも「新いばらきタイムス社」刊の三部作は、水戸の歴史を語る絶好の書として多くの書物に引用されることが多い。
記者の傍ら、現場に足を運んだ検証の記録は、歴史の専門家とは異なる。


更には、『水戸茶道史考』(伊豆山善太郎著)を多く図版や解説を挿入、分かりやすい読み物として編集し刊行に漕ぎつけた。業績も大きい。


没後、はや五年が経った。
後継する「街の歴史家」の現れることを念じ。


合掌


関頑亭の 仁王像 @東金砂神社

2014年11月03日 11時23分12秒 | 人と作品

東金砂神社の 仁王像 @常陸太田市天下野町9740

 

今日(11月3日)は文化の日、この日は雨の降らない特異日と言われる。

ここ数日、定まらない天候だが、昨夜の雨も上がって、晴れた空に秋の雲。

11月1日からの3連休も今日でおしまい。

毎日が休日の徘徊老人にとって、あえて混雑に出かけることは控えようとしていたが、外出の心は治まらず。

 

1日はケーズデンキスタジアムでの横浜FCを迎えての水戸ホーリーホックの応援に。雨とあって、屋根付のメインスタンドに席をとったが、応援の子供達がいっぱい目についた。ホーリーホックが着実に市民の間に根付きつつあることを実感する。

 

雨にもかかわらず観衆は4,121 人、横浜のサポーターはごくわずかだったから、天候でも良ければ6000人は集まっただろう。

前半28分にCKから新里が先制点を奪ったが、42分には小池に同点弾を許してしまう。後半42分にはCKから鈴木雄が勝ち越し点を奪うものの、45分に寺田に得点を許してしまい、2-2の引き分けに。

 

二度のリードを守り切れずの引き分けは負けに等しい。

前節の讃岐戦は、見せ場も無くてスコアレスドロー。

最近のホームゲームしまらない試合が多い。

とは言え、勝ち点1を得て、14位になったから健闘と云うべきか。

J2からの降格は脱し、15日(土)の栃木との最終戦を心置きなく戦うのを応援したい。

 

2日は、雨も上がって暖かとなったので、予ねて考えていた「東金砂神社」に行くことに。東金砂神社は山田川の谷を挟んで西金砂神社と対をなしている。

しかし、両社の間隔はかなりある。

 

西金砂神社は道路が整備されているので何度か行ったが、東金砂神社までの山道はかなり狭いらしく、行ったことが無かった。

 

金砂神社は延暦25(806)年創建の古刹で、2003年(平成15年)に開催された第17回「金砂神社磯出大祭礼」で広く知られるようになった。

渡御行列が神輿を担いで、西金砂神社・東金砂神社と水木浜の間を延べ10日で往復する神事で、行列は500mに及ぶ。

72年に一回という長いスパンで開かれるから、2度見るという人は稀だろう。

 

幕末の天狗党の乱や明治政府による廃仏毀釈などの混乱でなくなっていた東金砂神社の山門に仁王像が本年2月に安置された。

 

東京国立市の仏像彫刻家・関頑亭(がんてい)さん(94)が制作した約2メートルの阿形(あぎょう)と吽形(うんぎょう)の二像。

漆を何度も塗り重ねる「脱活乾漆」と言われる技法で、制作に約5年を要したという。


仁王像の制作を関頑亭さんに依頼し寄進したのは、近くでそば店「慈久庵」を経営する小川宣夫さん。小川さんはこの地(現・常陸太田市、旧・水府村)の生まれで、都内でそば店を開き水府産の蕎麦粉を使用し評判の店だった。

蕎麦による地元の発展を願い、帰郷して龍神ダムの近くに「慈久庵」を開店した。自らも蕎麦畑を切り拓き、栽培し、製粉する。自家製の蕎麦を使用し、全てを自分一人で調理しサービスする。

開店と同時に満席となる評判の店で、全国からお客さんが来る。

 

 

東金砂神社までの登山道は車一台がやっとの林道で対向車が来たらどうしようと思うような道で勾配もきつい。

 

社務所の脇のモチノ木、樹齢約500年とか。

 

仁王門までの階段はかなりの角度。

 

 

「阿形像」は怒りの表情を顕わに。

 

「吽形像」は怒りを内に 秘めた表情に。

 

 

更に、「田楽堂」までの階段も急だ。

 

本殿

田楽堂からさらに、急な階段を上ると本殿。

西金砂神社のような見晴らしではなかった。

 

多くの寺社仏閣で感じることだが、急な山の傾斜地などに、人力しかない古の人々が堂宇を築いた信仰心にはただ圧倒される。

 

下山し、龍神峡に向かう県道は車の列。

これらの車の、何分の一でも東金砂神社を訪れても良いのではとも思ったが、対面交通のできない山道では、どうしようもない。

何れは整備されるだろうが、この清閑な環境を守れるか、難しい問題だ。

 *関頑亭さんは私が骨董に入門した当時(約40年前)、古美術の愛好家として度々紹介された著名人で、現在もご活躍とは存じ上げなかった。東金砂神社の宮司さんの話によると、開眼会にもお見えになったとのこと。
94歳にしてお元気らしい。彫刻家は長寿の方が多いように思う。