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「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

カタコト交流クラブ。

2008年09月04日 15時56分36秒 | 日記
カタコト英語でお話し、しませんか。

毎週木曜日 6:30~7:70
@ 水戸市備前町「水戸市国際交流センター」2階ロビー

西の谷緑地公園の直近くに、水戸市国際交流センターが在る。国際交流に関する幅広い活動をしているにもかかわらず、一般的な認識は低いようだ。

交流センターの資料による施設や事業概要ば=海外諸都市との国際交流、市民の国際交流活動への支援、国際交流に関する講座の開催、市内在住外国人に対する支援、国際交流に関する情報の提供、国際交流展示室=ということだ。

活動のために、多目的大ホール・研修室が3室・和室・ロビー・図書室・インターネット・調理室・交流展示室などの施設が整っている。

交流センターの主催する事業の案内は水戸市の広報誌「広報・みと」に掲載されるので、注意深く読めば情報は分かる。
9月27日(土)1時から3時までは水戸市近郊に在住する外国人との交流の場として「お月見」が開催される。会費¥500。
10月1日(水)から「世界遺産と旅の連続講座」やさしく学ぶ世界遺産 フランス・イギリス編が開催される。定員は60名、全4回で会費は¥2000。

殆どの催事は往復はがきによる申し込み制になっている。僕もいくつかの企画に何度か参加した。それぞれに、楽しめた。
今回の世界遺産講座も申し込んだが、応募者が多い場合は抽選になる。当選することを期待している。

協会の主催以外に、ボランテア団体の語学講座等も開かれている。外国人に対する日本語講座も在る。どの様な講座が開かれているかは、センターに行って確かめるのが良い。

9月4日(木)から、新たな国際交流の会合が始まる。毎週木曜日の6:30から7:30まで2階のロビーで、元茨城県国際交流会の職員だったトッドさんを囲む交流会が開催される。「カタコト交流クラブ」という名前で発足する。主催者がいる集まりで無く、有志が集って英語で話し合いをしましょう。ということだが、日本語でもOK。気楽にお話しをしましょう、ということ。参加希望者は2階のロビーまでお出かけ下さい。
僕も参加するつもりです。

仲間が増えて、意義ある集いに成れば。と夢見ている。




どぜう丼 飯田屋

2008年09月03日 13時22分39秒 | 日記
どぜう丼 飯田屋

東京へ行くのは高速バスを利用している。乗り降りが楽だし、自宅から停留所まで5分足らず。しかも料金が安く往復で¥3500だ。最近、茨大ルートが増設されてさらに便利になった。時間帯によっては、10分、20分、30分おきのダイヤ。さらに、来年までの期間限定の運用試験中だが八潮サービスエリアで下車して¥100を払えばツクバエキスプレスに乗り換えが出来る。今回、試しに乗り換えてみた。
沿線の景色をゆっくり観る事も出来ない内に、浅草駅に到着した。終点は秋葉原で東京駅までは繋がっていない。

先日、向島出身の鈍愚里さんから、泥鰌なべの店「飯田屋」の話を聞いた。駒形や伊瀬喜(本来は七を三つ、この辞書では出ない)は行ったが、飯田屋は未だ。泥鰌は夏が旬。今のうちに、と思い出かけた。
ツクバエクスプレスの浅草駅は国際通りの地下だ。地上に出てすぐ“かっぱ橋本通り”にでる。飯田屋までは歩いて1分の便利な所。開店は11:30、開店までの時間をすごそうと、反対側に在る「テプコ浅草館」に入った。ここも、以前から訪ねてみたかったところ。
東京電力が運営する広報施設だが、内容は盛りだくさん。一階の展示場では「三波伸介」の写真等を中心にした企画展。二階は凌雲閣、電気館、お化け煙突、浅草発電所、浅草公園、等浅草に関す写真やセット等による展示。浅草に関する本が収集されている図書室「浅草文庫」は閲覧が可能。1時間ほど見ていると、丁度11:30で飯田屋の開店時間。
しもた屋風一軒家。大きな白い暖簾をくぐると下足番がいる。いかにも江戸風か、東京風なのか、老舗の店の雰囲気。藤敷きの座敷に案内される。当然“どじょう鍋”と考えた。品書きに“どぜう丼”というのがあったので、それを頼んででみることにした。
老舗の店の店員さんは何処の店も客のあしらいが良い。「少々、時間が掛かります」とのことなので、菊正宗の樽酒を常温で1本お願いした。昼から樽酒をちびりちびり、いい気分だ。待つ事しばし、丼が運ばれてきた。蓋を開けるとこんがりと焼かれた、さきどじょうが6匹。かわいく、きれいに並んでいる。うなぎの代わりにどじょう、という感じなのだが、かりっと香ばしい食感はどじょうならでは。タレをご飯に混ぜ合わせ食べた。殆どの人は鍋、あれも良かったかな?追加で頼もうか?なんて思っているうちに、完食。ご馳走様でした。次回は鍋或いは冬場は“なまず鍋”もあるとのこと、それも魅力的。浅草には沢山の美味しい店が有るのが楽しみだ。

トルコ ギリシャの旅 10

2008年09月01日 17時42分19秒 | 日記
シルケジ駅を発ち、ギリシャのテサロニキへ。
アンカラに行った夜行寝台と同じようなトルコ国鉄の車両「フィリア・ドストリック」。『オリエント急行』のような列車は走っていないらしく、シルケジ発はギリシャ迄程度が長距離列車のようだ。両国の列車が交互に運行している。特別良い車両に思えないが、ギリシャのよりは良いとのことだ。
ギリシャはヨーロッパの中でかなり田舎というか、貧しい国のようだEUの加盟国。トルコはEUの加盟ではなが、実態はEUの経済圏に属している。
2度目の車中泊だが、今回は真夜中に国境を越える。出国(1時15分頃パスポートを集めに来て、2時10分出発)及び入国(深夜2時30分頃パスポート集めに来て、3時30分出発)の審査が行われた。トルコとギリシャの関係は歴史的に良好とは言えないようで審査に要する時間が掛かりすぎ、と思った。
国境を越える駅のホームに免税売店があり、列車到着時のみ電気を点けて営業するらしく、数名の旅客が利用しているのが見えた。

ギリシャへ。空中の修道院メテオラ。
 
トルコからの出国審査、ギリシャへの入国審査で2時間以上の時間を費やしているから、テッサロニキの到着は大幅に遅れて11時。
メテオラの麓カランバカへ(231キロ 3時間30分)。アテネのオリンピックに合わせて、ギリシャは大幅なインフラ整備をしたのだろう、この道路も高速道路並みに整備されている区間もあった。因みに、ガソリンは1㍑200円程度。トルコは300円位だった。まだ日本は安い。
                 
今回の旅では『深夜特急』のほかに『雨天炎天』ギリシャ・トルコ辺境紀行(村上春樹著・新潮文庫)を持参した。これは、たまたま出発前に手にした本であったが、今回の旅で“確かに”と思う点が多々有った。
ギリシャとトルコの辺境を旅した紀行文で、今回僕が行った所ではないのだが。一つはギリシャのアトス半島のギリシャ正教の聖地について『この土地はギリシャの国内にありながら、宗教的聖地として完全な自治を政府から認められているわけである。』『アトス半島には現在の所二十の修道院が存在し、約二千人の僧がそこで厳しい修業を積んでいる。彼らは修道院が創設されたビザンティン時代とほとんど変わらない質素な自給自足の生活をつづけながら、神に近づかんがために日夜祈りつづけている。彼らはとてもシリアスな人々である。彼らは宗教的真理と至福に到達すべく、人里を離れ、世俗的な欲望を断って修業を積んでいるのだ。』とある。

ギリシャ本土のほぼ中央、カラムバカの街のすぐ北側に、巨大な塔のような、或いは入道雲のような岩峰が群がり聳える地があって、メテオラと呼ばれている。メテオラは「空中にある」の意味。巨峰の周りは凄い絶壁で処によるとオーバーハングしている。
そういう絶壁で囲まれた岩峰のてっぺんに修道院がいくつも在ることだ。
11世紀頃、上記のアトスの修道士が移動して、岩山の下のほうの洞窟や小屋を修道の場所とした。14世紀頃より上へ上へと修道の場所を移し、ついには頂上に達した。全盛の16世紀には修道院の数は24に達したという。現在使用されて修道院は6っ箇所。
先ず、中腹のルサノウ修道院を見学し次にメガロ・メテオロン《大いなる空中の堂宇》を訪ねた。修道院として発足したのが1356年メテオラの修道院の第一号で、海抜613メートル、ふもとの平野からの比高200メートルという最高地点に建っている。メテオラの地名の由来はこの修道院によっている。
以前は梯子と巻き上げ機しか無かったというから、物理的、心理的にも「俗世から隔絶した」世界であった。修道士は下の畑を耕し、自給自足の生活を送っていた。厨房の脇の棚にはドクロが沢山並べてある。日本では飾る事はないが西洋ではカタコンベの壁面には無数に飾られていることも在る。人間誰しも同じ。身を捨てて。多くの意味を含むのだろう。

野ざらしを心に風しむ身かな  芭蕉

メテオラは『世界・不思議発見』等のTV番組で紹介された事もあり、何度か映像を見た記憶もあるが、巨岩が織り成す実景は感動的。
しかし、あくまでも厳しい修行の場であり宗教的施設であること。
山から下りてカランバカの町に。カランバカはメテオラ観光の拠点の町。
駅の裏側のレストランへ。観光客の増加で、ガイドマップでは畑だった所にレストランが出来ていた。ギリシャ風のムサカ(ひき肉・なす・ズッキーニ・ジャガイモのオーブン焼)を5時過ぎての昼食。
  
レストランから10分でホテル「ファミッシ」に着いたのが6:20。裏側からはメテオラの岩山を望む事ができる。昼食が遅かったので御腹はすかない。夕食はパスして町を散歩する。旧軽井沢の感じに近い街並みだ。土曜日で早仕舞いの店もあるが、レストランの舗道に面したテレビでサッカーEURO2008を中継中で盛り上がっていた。
小さな町で1時間も散歩すると一回りだ。酒屋でビールとウゾ(ギリシャ特産の焼酎)
とワインとケバブと土産のオリーブ石鹸やサッカーチームのタオル等を買いホテルに戻る。部屋の道路側にはテラスがある。暗くなってからテラスの椅子に座り、通りを眺めながらビールとケバブを楽しんだ。


ミソハギとガマとヤブミョウガ

2008年08月19日 09時52分21秒 | 日記
ミソハギとガマとヤブミョウガ

暑さも一段落し、雷を伴った雨も降って西の谷もいくらか潤った。
雑草の伸びに、草抜きが追いつかないから、遊歩道の道幅も狭まってくる。
とはいえ、自然の環境を生かした西の谷としては、雑草に覆われた遊歩道でいいのかもしてない。拡張された部分は誰も通らないまま、草ぼうぼうになりつつある。

西の谷にはそれぞれの季節に雑草のような野の花が顔を出す。
小さな沼の周囲に紫色のミソハギと茶色のソーセージのような蒲(ガマ)の穂が見ごろ。さらに備前町に抜ける木の階段の下にはヤマミョウガの白い花。

ミソハギ
禊萩(みそぎはぎ)溝萩(みぞはぎ)が語源とも言われる。山野の湿地に生える多年草で茎の断面は四角という変わり物だが、小さな紅紫の花は可憐だ。一昨年にこの花を知ったが、以来この時期が来るのが楽しみとなった。嬉しい事に今年は大分増えた。
ガマの穂
今がしっかりとした形で色も良い。間もなく穂綿の状況に成ると、やつれた感じになる。それも風情があるともいえるが、、、、
ヤブミョウガ
階段の下を埋め尽くすように咲いている。これまた可憐で白い花なので目立ちはしない。
これも随分増えた。花が散れば来月には、濃紺の小さな実を付ける。これまた、渋い味わいがある。

西の谷には、それなりの風情のある野の花が見られる。名も無き野草というが、どの様な雑草にも名前は有るし、薬効等もある。植物図鑑を片手に散策するのも楽しいものだ。野趣にあふれた都市公園、が西の谷の特色といえるのかも。

それにしても、犬の散歩とご自分の散歩の方は見受けるが、新たなゴミ拾い・草抜きの方は現れないようです。
自分の庭と思って楽しみながらゴミ拾い・草抜きしませんか。


トルコギリシャの旅7

2008年08月18日 14時31分14秒 | 日記
パムッカレの石灰棚、ネクロポリス、ヒエラポリス。               
7:30 ホテルで朝食後、パムレッカへ(410キロ・5時間30分)
平原が延々と続く、小麦等の穀倉地帯。自給率100パーセントが肯ける。
途中にサクランボの栽培で有名場所が有る、其処のドライブインで休憩。250グラム程度を買って味見をした。アメリカンチェリーのような赤黒で甘みも薄い。日本の“佐藤錦”とは比べ物にならないが、どちらにしても日本の果物は手間をかけすぎ。
ここは、トルコ版『一休さん』物語のような『ホジャおじさん』の地、幾つかの頓知話をガイドさんが話してくれた。
次の休憩は蜂蜜ヨーグルトの有名なデナール。食べてみたがホテルの朝食に出るヨーグルトに蜂蜜を加えた物となんら変わらず。トルコの朝食のブッフェには大体蜂蜜があるが香りも味も良い。

パムレッカ
石灰棚を見上げるギリシャ風なレストラン・ホテルでブッフェスタイルの昼食。トルコ料理は冷めたい前菜が美味しい!いろいろと試してみた。
名前は分からないが、基本的にはオリーブ、トマト、ナス、ピーマン。
パムレッカの石灰棚は世界遺産に登録されていが、隣接するヒエラポリス遺跡、ネクロポリス遺跡の三つが丘陵地帯に連なって構成されている。
先ず、ネクロポリス遺跡に。ネクロポリスとは「死者の町」でお墓のこと。数キロメートルに渡って、大小様々なお墓が続く。ヘレニズム時代から初期キリスト教時代にかけての墓の多さはこの都市の人口の多さと繁栄を物語る。温泉があるために沢山の人たちが療養を兼ねて滞在し、人口10万人を数えたという。
坂道を上り詰めるとヒエラポリス遺跡に続く。ヘレニズムからローマ時代にかけての混合遺跡でローマ門、アルカディア通りの商店街、神殿、浴場、アゴラ、劇場など広範囲に遺跡がある。14世紀の地震で崩壊し徐々に埋没し、20世紀になって発掘された。現在でも全ての遺跡は発掘されて無い。
石灰棚。段々畑のように連なる白い石灰華の岩棚。数千年に渡り流れ続けた鉱泉が作り出した。鍾乳洞等と同じ自然が造った芸術品。パムッカレとは「綿の城」という意味。

乾季ためか水量が少なく、棚の四分の一程度しか水が満ちていない。水が有れば青白く美しく見えるが、無い所は石灰の灰色だ。深さ10センチ足らずだが、リュウマチ・神経痛・美肌に効果があるとかで、水着で沐浴する人も多い。勿論外国人の観光客のみ。
僕も靴下を脱いでで足を着けたが、単なるぬるま湯。

トルコ・ギリシャの旅 6

2008年08月17日 20時26分52秒 | 日記
アンカラ~カッパドキア

朝食は食堂車で干からびた野菜サラダとチーズとパン。
アンカラはトルコの首都でトルコ第二の都市。バスでカッパドキアに向かう。(270キロ・3時間30分)
カッパドキアは南北約50キロメータのエリアに散在している。キノコ岩や何層ものカカラフルな岩肌の地形は火山と風雨によって生まれた。今まで何度かテレビの画面や写真で見たことがあるが、珍しい風景だ。 
先ずは、山の頂上に作られた洞窟レストランで昼食。観光用に凝灰岩を掘りぬいてレストランにした店。世界遺産に指定されると観光客が増え、それに対応するために出来たのだろう。料理は近くの川で養殖しているであろうマス料理。
先ず最初にゼルヴェの谷に。きのこの形をした岩、凝灰岩の岩地は白っぽく強烈な光で眩しい。1950年代までこの辺りの岩の住居は実際に住まいとして使用されていたとのこと。しかも、キリスト教徒とイスラム教徒が共存していたという。キリスト教徒は徐々にギリシャに移住。
はとの谷。岩穴に鳩に巣を作らせ、その糞を畑の肥料にしたとのことだが、現在は使用していない。
この辺りの産業は、レンガ工場と陶器、絨毯、トルコ石など。
トルコ石の販売店に立ち寄る。土産物屋のような所に何箇所か行くのはツアーのお約束。無駄な時間とも思えるが、旅行業者の都合もあるのだろう。買う気はないが、見たり聞いたりも面白いものだ。一般的に思うトルコ石とは違うのも有り、ナルホドと感心することもあった。

ギヨレメ野外博物館。カッパドキア一帯4世紀頃から多くのキリスト教徒が集団生活を営んでいたが、ギヨレメはその中心となった地。イスラム教徒の圧迫を逃れた信者たちは9世紀頃から岩窟教会や修道院等を造り始め、10世紀のビサンチン時代初期には400以上の教会があったという。現在約30が集るギヨレメの谷を博物館として保存公開している。何れの岩窟も大きくはないが、フレスコ画で装飾されている。原始キリスト教がどのようなものであったかを偲ぶ事ができる。

18:00 ホテル着。ネベッシュヒル地区のリゾート デデマン カッパドキア。
郊外の道路沿いに建っているリゾートホテル。夕食後、時間は有っても行く所がないから部屋でのんびり、早めに寝る。

カッパドキア~コンヤ。
カイマクル地下都市の観光。キリスト教徒がアラブ人の迫害を逃れるために作った地下都市。かっては、カッパドキアに3000以上あったといわれる。カイマクルの地下都市もそのひとつ。数千人が住めると言うが、常時すんでたわけではなく、避難所という感じだったらしい。それにしても地下8階の深さまで掘り下げてある。から凝灰岩で軟らかいとは言っても、大変な労力だ。
トルコ絨毯工場を見学に。実際に織っているところを見せてくれるが、基本的には販売。流暢な日本語で、日本人以上の語り口で説明するには驚き。絨毯の品質や価値の違いを少し、理解できたが我が家には1枚の絨毯もないが。
キャラバンサライ(隊商宿)に立ち寄って見学して小休止。外観も内部も中央アジアのキャラバンサライと同じ。昨年2月のウズベキスタンの旅を思い出した。
昼食はドルマ《ピーマン等の野菜に肉詰めした冷菜》トルコの料理では冷たい前菜が美味しかった。                 
15:30 コンヤ着。11~13世紀、セルジュク朝の首都が置かれたで古都の雰囲気がある。宗教色の強い町とのことで、女性の姿もイスラム色が強い。
メヴラーナ博物館。イスラム教はシーア派とスンニ派に大別される。この違いも説明を受けたが、よく判らない。そのほか幾つかの少数派もあり、その中の一つが独特な旋回舞踊で有名なメヴァラーナ教団。日本でも、同じような踊る宗教というのがあった。元はモスクの博物館は、教祖初め歴代高僧の霊廟や旋回舞踊に使用した衣装、コーランに関する資料等が展示されている。
インジェミナ―レ神学校(現在は彫刻博物館となっている)表から見たのみだ。偶像崇拝の禁じられているイスラム教は文字や文様が発展した。主にタイルや柱・扉など木に彫刻を施した。これまた、ウズベキスタンでたくさん見た。その様な物を展示している博物館らしい。
17:00 コンヤの新市街地の「ホテル・オズカイマク」に到着。
目の前に超高層のビルがドーンと建っている。普通の建物は5~8階建て程度なのに、異様な光景。1階はショピングセンターとのこと。部屋割りの後、行ったが確かに大きい。内原のイオンモール以上の規模。それ以外は、殆どはオフィスなのか?それにしても大きいし高い。
ホテル最上階《8階》のレストランで夕食。窓から見える夕景色が素晴しかった。

トルコ・ギリシャの旅 5

2008年08月17日 00時23分27秒 | 日記

夕食はマルマラ海沿いの漁師町、魚屋が軒を並べ新鮮な魚を売っている。その新鮮な食材を使ったレストランも多い。鯖サンドやムール貝を売っている店もある。体調がよければムール貝も食べてみたいところだった。
海岸から少し入ると、シーフードレストランが軒を並べる一画がある。その中の一軒でイカのリング揚げと魚のトマト煮を食べた。反対側の路地でトルコ名物“伸びるアイスクリーム”の実演販売をしているオジサンがいて大人気。パフォーマンスを楽しむ。


アンカラエクスプレス
アジア側の鉄道の起点ハイジャラパシャ駅に到着。1903年ドイツ人建築家によって建てられた駅舎はネオ・ゴシック様式の堂々たる建造物。駅舎内は重厚な感じだが、旅客は殆ど見かけず駅としての喧騒は全く感じられない。今やトルコの主な交通機関はバスのようだ。
出発まで時間が有りすぎ。狭いエリアの中で時間をつぶすのは難しいし、もったいない。駅舎の前のマルマラ海、ボスポラス海峡を行き交う船やヨーロッパサイドの旧市内風景を眺めてすごす。以前に読んだ、藤原新也の『全東洋街道』の写真を思い浮かべる。ここから彼の旅は始まった。すごく、幻想的な写真であった気がする。機会を見て再度読んでみたい。

ホームに4軒のキオスクが有った。ビール・ケバブ・ミネラルウォーターを購入して乗車する。22:30定刻にアンカラエクスプレスは出発(567㌔9時間30分の予定)
1等寝台とは言っても豪華なわけではなく、2段ベットと洗面台と小さな冷蔵庫が付いているのみ。冷蔵庫の中に無料の紙パックのジュース・一口サイズのミネラルウオーター・チョコバー・クラッカーなど総額300円見当が入っている。発車と同時に車掌がベットを作りに来る。チップとして1人あたり1US㌦を払う。というより、払わないと出てゆかない。
通常でも睡眠は浅いく2~3時間寝ると目覚める。ましてや夜行寝台、レールの状況やベッド・空調などから寝られるかを心配したが、思ったより良く寝ることができた。
4時か5時頃だったろうか、窓のカーテンを開けると早朝のアナトリア高原は日の出の時間。遠くの山々や延々と続くの平原。刻々と変化する日の出の光景は印象的だった。暫くの間は中央アナトリア高原の穀倉地帯の風景を眺めていた。トルコは食料の自給率100%だそうだが、何処まで続く耕地は砂色で豊かな土には見えない。しかも降水率は低く乾いた大地だ。畑にはホースやスプリンクラー等の潅水設備を多く見かけた。
農家を見かけるのは稀で、かなり大規模経営なのか?

今回、新潮文庫『深夜特急⑤』トルコ・ギリシャ・地中海編 を持参し、時間が有れば拾い読みした。勿論、ガイドブックとして旅の参考になる。と思ったわけではなく、作者が言うところの『旅とは何か?』を考えるヒントに成ればとの思いだ。
よく言われることだが、《自分探しや自分を振り返って見つめる》の要素は大いに有る。
更に日本は日本人は?を考える場でもある。

終戦の日「私は戦争を忘れない」

2008年08月15日 20時44分38秒 | 日記
終戦の日「私は戦争を忘れない」
    @水戸博物館2階展示場  8月15日 

8月6日に広島に原爆が投下され、9日には長崎にも原爆が投下された。
今日、8月15日は63回目の終戦の日。
戦没者を追悼し平和を祈念する日である。

月遅れのお盆と重なるので、先祖を追悼すると同時に戦没者の慰霊が行われてきた。
しかし、年と共にその記憶は風化し、当時を記憶している人達も急激に減少している。僕は1941(昭和16)年の生まれで、辛うじて幾つかの記憶がある程度だ。
 
「私は戦争を忘れない」と題する会が、8月15日午前10時30分から水戸市立博物館2階の展示室で開かれた。

体験談を話したのは次の3名の方々。
酒泉松枝さん85歳。戦争中は小学校の先生をしていた。水戸空襲で亡くならのれた方の調査をされ、300人以上の方が犠牲になったことを明らかにした。空襲体験や戦時中の暮らしを、子供たちや学生に語り伝えている。

市原毅さん82歳。先日8月2日に博物館で水戸空襲の体験を話された。戦後63年、やっと今になって、人前で当時の話をする気持ちになられた。

佐藤隆夫さん80歳。やはり2日に空襲体験を話された。3年前にも博物館の戦争体験の話しをして頂いた。

話しをなさった3名は何れも80歳を過ぎている方々。其の年代の人達が体験者の中での最年少に属する世代となってしまった。発表者の後ろの壁面には、焦土と化した水戸の街の写真や掘り出された焼夷弾の現物も展示されている展示室。僕も子供の頃、焼夷弾が燃えて空になったのは手にしているが、36本が束ねられている姿は始めてみた。
展示ケースの中は防空頭巾や焼け焦げたズボン等、当時を偲ばせる遺品類。
其の前で聞く人達の半数以上は、戦後生まれの人達と見受けた。当然、戦争の体験はないだろう。中には幼児を連れての参加の人達もいた。参加者は今日の話をどの様に受け止めたのだろうか。
このような機会を設けた、博物館の関係者の皆様有難う御座いました。

戦後まもなくのことを考えたら、不況だ、格差だというが、今はなんと幸せなことだ。
と実感する。日常の生活を改めて見直したい気持ちになる。

水戸の空襲について幾つかの纏められた本などもあるが、ネット上で見ることが出来るものの1つとして『我が家の戦災記録、昭和20年8月2日、水戸空襲』をお勧めする。
アドレスは http://www.castanea.jp です。


トルコ・ギリシャの旅 4

2008年08月14日 09時23分15秒 | 日記
ドルマバフチェ宮殿
                     
朝食後は自由行動(9:00~12:30)だ。3時間という時間を考慮して、トプカプ宮殿との違いはどの様なものかを知りたく、ドルマバフチェ宮殿に行くことにした。
やっと探した地下鉄シシリ駅からでタクシム駅に。乗り換えてカバタン駅に、ここは1区間のみの登山電車の様なケーブルカー。駅から歩いて10分足らずドルマバフチェ宮殿に到着。トプカピ宮殿に代わる近代的な宮殿として1843年から16年の歳月を費やしに建設された。
日本でも赤坂離宮が造営されたように、近代国家を意識してフランス風な宮殿を建設したのだろう。オスマン帝国時代が終わった1923年から共和国政府の施設となる。初代大統領アタチェルクもイスタンブールではここ執務し、終焉の地でもあった。現在も政府主催の重要なレセプション等に利用されている。
入場料(20YTL)とカメラの撮影代(6YTL)まで払ったが、見学は時間指定のガイドつきのツアーのみで勝手に自分一人で観て回ることは出来ない。入場までかなりの時間が掛かるので、本館を飛ばしてハーレムのみを見ることにした。それでも20分くらいは待たされて入場して、見学は30分間くらい。完全な洋風建築で庭園も西洋風だ。丁度バラが満開だった。高さ5メーターは有りそうな塀で囲まれている王宮は正に別世界である。
タクシム駅に戻り、広場を見渡す公園に行く。広場は円形のロータリーで中央に独立記念碑が建っている。アタチュルク(トルコの父の意味・1881-1938、本名はタファ・ケマル・パジャ)の銅像だ。近代トルコを築き、全ての紙幣に肖像が印刷され、何処行ってもポスターが飾られている国民的な英雄だ。
同様に国旗もあちこちに掲揚されていた。多民族国家を統合するにはシンボルが必要なのだろう。トルコ人のほとんどはイスラム教徒だが、アタチェルクが作った憲法の政教分離の共和制を維持されている。しかし、政教を一致させたいイスラム原理主義を抑えるには強力な軍事力・警察力が必要とされるようだ。12時にホテルに戻る。

12:45発で昼食に、昼食はシンタクマ広場近くのレストランでドネルケバブを食べる。
羊の薄切りを鉄の芯に何重にも巻きつけ、円筒形にしたもの火の傍で炙ったもの。それを包丁でそぐように切って、パンの間に野菜と一緒に挟む。もっとも、ここはレストランだからサンドのようにパンには挟んでこないが、団体さんだから数を整えるため、事前にきってあるから、肉はぱさぱさ。ツアーの際の料理は先ず期待しないのが鉄則。

ケバブを最初に食べたのはロンドンのペチコートレーンでの朝市。それ以来イギリスに行く度に食べた。本来回教国の食べ物で中近東が本場だが、イギリスは移住者が多いから一般的な食べ物と成っている。最近は水戸でも外国人が営業する屋台で売っているが、鶏肉なのが残念。

ブルーモスク
アヤソフィヤと対峙するように立つイスタンブールを代表する巨大モスクのスルタンアフメット・ジャミー(ブルーモスクの名で知られる)は世界唯一の6本のミナレット《塔》をもつオスマン様式の壮大なモスク。アフメット1世が1609年に建造を命じ、7年の歳月を経て完成した。モスクの内部を飾るイズニック・タイルの美しさからブルー・モスクと呼ばれる。トルコはイスラム教徒の国で1日5回の礼拝や有名寺院に詣でる事は日常の事らしい。小・中学生の団体や、グループらしき人たちも多い。
白い上下の服を着た星の王子様みたいな衣装を着けた少年を何人も見かけた。ガイドさんに訊くと「割礼のセレモニー」とのことだ。そのような風習が生きているようである。
中央の大ドームは高さ43㍍直径24㍍、直径5㍍もある大きな柱で支えられている。
とにかく大きなモスクだ、信仰の場だから、礼拝の時間帯は見学者は入場できないので時間が限られて見学は3時以降。大きなドームの下でしばしの間過ごした。

アヤソフィア
反対側に聳えるアヤソフィアに行く。アヤソフィヤの建物は縦77㍍横71㍍、大ドームの高さ56㍍。ビザンチン時代にキリスト教の聖堂として建てられ《537年完成》東ローマ帝国最大の記念物でビザンチン建築の最高傑作といわれる。その後、震災や数々の災難に見舞われ1,453年コンスタンチノープルを征服したオスマントルコのメフィット2世はモスクに改め、モザイクを漆喰で塗り込めてしまった。
1934年トルコ共和国となって、アタチュルクはアヤソフィアを博物館として開放。漆喰が取り除かれモザイクが甦った。欠損している部分も多いが漆喰の下で保存されていた事もあり見事な輝きを見せている。
2階のテラス部分はスロープ状の折り返しを登って到達するが、床から15㍍はありそう。モザイクは2階が間近に見ることができる。
上からの眺めも圧巻。東洋と西洋を結ぶ大ドームとモザイクは今回の旅のハイライトの一つだろう。
正面入り口の前には、テオドシウス帝が建てた最初の聖堂《415年》の遺跡を見ることが出来るが。現在よりも3m位地盤は低い所だ。その後、ローマ時代の遺跡を発掘している現場を何度か見たが、随分下に埋もれている。2000年の歳月はかなり地盤が上がるのを実感した。