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「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

六義園のライトアップ

2008年12月16日 00時34分15秒 | 日記
六義園のライトアップ
11月22日~12月14日、夜9時まで開園。

12月14日で終了したが、駒込の六義園の「紅葉と大名庭園のライトアップ」を見る機会を得た。洗練された照明技術により幽玄の世界に遊ぶことが出来た。係員に「環境・照明デザイナーの漆原美代子さんが演出したのか?」と訊いてみたら、漆原さんではないが、照明デザイナーの手による、との事だった。

入場する際警備員が注意しているが、通路は点々と樹木の上、或いは路傍から薄明かりが灯り、余ほど気を付けないと危ない。一部は立ち入りが禁止されている。
ほのかに浮かび上がる光景は、東京に居ることを忘れ、あたかも夜の京都の庭園に佇む感じである。

水戸でも桜の季節に、旧県庁舎のお壕の前がライトアップされる。強すぎる照明は桜の花の美しさを台無しにしてしまう。
街路灯のみで充分なのに。

仲春と仲冬を比較することに多少の無理はあろう。六義園のライトアップはしっとりとした秋から冬へ情緒を感る事が出来た。






袋田の瀧

2008年12月04日 21時10分17秒 | 日記
新しい瀧見台から眺めた、袋田の瀧。

小学校の遠足の定番の一つは、袋田の瀧。
今のような隧道は無かったので、滝川沿いの狭い道を歩いて瀧にたどり着く。
1979(昭和54)年12月、瀧に到る全長276メートルのトンネルが完成した。

竣工記念と安全を祈願して、僕の尊敬する後藤清一さん作の観音像が安置された。

袋田の瀧は日本の三名瀑の一つといわれる。
高さ120メートル・幅73メートル。水量の多い時期、落下する様は誠に見事だ。
紅葉の頃や、凍結した姿は、しばしば写真の被写体となっている。

そこに新たな瀧観台が出来たとの事で、袋田は大賑わいらしい。
水戸から袋田まで2時間、瀧観台に登るエレーベーターが1時間待ちだった。
と報道された。

今日は、紅葉の季節も終わった平日なので待つことなく、上まで行けた。
見る人によるだろうが、上から見ては迫力に劣る。
従来のところから、水しぶきを浴びながら眺めるほうが、僕は好きだ。

上には、観音堂も在り、男体山からのハイキング・登山道もある。
巨額の予算を投入してエレベーターを作るより、山道を整備して安全な登山路を作るべきだったのではと思った。

見た人たちのご意見を伺いたい。




仙台「かき徳」の牡蠣

2008年12月03日 21時39分36秒 | 日記
仙台「かき徳」の牡蠣

日の入が早くなった。
澄み切った空に陽が落ちる前後の空の色の変化は誠に美しい。
夕暮れ時、西日の美しそうな場所を探し自転車を走らせるのは楽しい。

今日は天気も良さそうだし、どの方面に出かけようか。と思案していると、電話が鳴った。
近所にお住まいのKさんの奥様からだ。「仙台の牡蠣が届きましたから、よろしかったら、どうぞ」とのこと。11月下旬から12月にかけての時期、仙台の「かき徳」の牡蠣を取り寄せ、我が家にも1樽分けて下さる。もう、そろそろかな?と心待ちしていたので、早速にお伺いした。
仙台「かき徳」の牡蠣は、男鹿半島周辺で養殖されたマガキ。《やや小ぶりで、みどりがっかた乳白色》《身が引き締まっている》《磯の香りの芳香とコクのある味》は日本一と思っている。戴いたその日は生で。翌日はカキフライ、バター焼、カキご飯、土手鍋などで味わうのが常だ。昨年は樽の蓋に「加熱用」のラベルが貼られ、生食はおやめ下さい。との感じだった。食品に対する問題が多くなり、老舗としては安全のため処置らしい。
今年は、生食OKかと期待したが、昨年同様のラベル。
多分生食しても大丈夫とは思ったが、万が一の時にご迷惑かけても、と思い。
先ずは、カキご飯にしてもらった。
醤油、酒、味醂、生姜(細かいみじん切り)で牡蠣をさっと煮る。身を取り出し,その汁はお米に入れて炊く。炊き上がったご飯に牡蠣を入れ5分ほど蒸らして出来上がり。
ふっくらした牡蠣の身は、噛むと磯の香りとコクのある味。牡蠣本来が上質なれば、どの様に調理しても旨いのは当然だ。
季節の味、ご馳走様でした。


12月1日

2008年12月01日 21時05分26秒 | 日記
水戸芸術館のイルミネーション

40年前の12月、初めてヨーロパに旅した。
SASの北極経由ロンドン行き。アンカレジで給油のために着陸して、北極点通過証明をを機長のサインサイン入りで、後日に郵送してくれた。

列車でドーバーに行き、連絡船でカレーに。それから、また列車でパリに入った。
ホテルのエレベーターは、自分で停車位置を決める旧式な物で操作法に迷った。
パリ滞在の2日目辺りが大晦日でシャンゼリゼに繰り出した。
12時と同時に脇に居る誰にでもキスをしても良い、と聞いていたので、期待居に胸を躍らせ出かけた。12時になるやいなや、走る車が、一斉に、クラクションを鳴らす!!!
シャンゼリゼは大興奮。全てのキャフェは人人人。
通りは数え切れないほどのイルミネーション。
この光景は生涯忘れられないだろうと思った。

それから、何十年。
水戸芸術館の広場がイルミネーションで飾りたい。との提言をして数年後に実現した。
それから更に数年たち、LEDを使ったイルミネーションが主流になりカラフルに成った。

あまりの美しさに、写真を撮ったが、観たほどではない。
白熱電球の輝きが無いから、写真の感度も悪い。

今日は12月1日。結婚40週年おめでとう。
そして、縁ある皆様に有難う。


金龍山 浅草寺 本堂落慶50周年大開帳記念

2008年10月31日 20時30分39秒 | 日記

伝法院庭園

11月の連休を挟んで各地で催しが目白押し。何処に行こうと迷う。
浅草寺を中心とする浅草で、江戸の心・浅草大観光祭と銘うち「浅草今昔展」「江戸町浅草奥山風景」「平成中村座」などが開かれている。
金龍山 浅草寺 本堂落慶50周年大開帳記念『大絵馬寺宝展と庭園拝観』は通常は非公開の伝法院庭園と浅草寺に伝わる寺宝の数々を一般公開とのこと。
絵馬は想像以上の大きさと数の多さにビックリ。さすが浅草寺と感心した。

伝法院庭園の公開は16年ぶりとのことだ。人ごみ溢れる浅草寺の一角に、回遊式の静寂の庭園が在るとは、思いもしなかった。
庭越しに眺める五重塔はあたかも京都と感じる。

浅草寺の西側一帯は通称奥山と親しまれ、江戸時代から大道芸や見世物小屋が並び、盛り場浅草発祥の地だった。その場所に江戸時代さながらの街並みを再現し、江戸小物、版画、提灯、指物、手拭いなどの見世が60店位が並んでいる。江戸時代にタイムスリップした感じがした。
芝居町は江戸時代後期に日本橋から浅草に移され、現代に残る歌舞伎の発祥の地とも言える。浅草寺裏側に「平成中村座」の仮設劇場が建てられ中村勘三郎を座頭とした歌舞伎が2ヶ月間特別興行をする。演目は『法界坊』この演目は2000年が初演。昨年はニューヨークの公演も大成功。テレビでも放映された。席料は1万円からで、お大尽席は3万5千円と、高額だが毎回満席らしい。11月公演は11月1日から25日まで。

磐梯山ゴールドライン

2008年10月21日 10時35分31秒 | 日記
磐梯山ゴールドライン
大子の袋田の滝に新しい観曝台が出来た。今までより以上に眺めが良いと大賑わいとのニュースを聞いた。毎年、奥久慈の紅葉を眺めに行くのを楽しみにしている。
数年に一度だが、磐梯山周辺の紅葉狩りにも行く。

10月20日早朝7時に水戸を発った。那珂インターから常磐高速でいわき経由で磐越自動車道路の磐梯河東ICまで2時間の走行。磐梯山ゴールドラインの源橋料金所を通過すれば、錦秋の山が目前にせまってくる。奥久慈の紅葉も良いが、残念ながら磐梯山には敵わないかな。わずか20kmの観光有料道路だが絶景のポイント・展望台が沢山有る。正にゴールドライン、黄金色の山々だ。この風景は、今は亡き山上鎮夫さんが描いた水墨画に重なる部分もあり懐かしさも感じる。
檜原料金所を過ぎ右に曲がれば裏磐梯随一の名所の五色沼。延長4kmの自然探勝路の途中には数多くの沼が在り、天候や季節によって神秘的に色合いが変化するのは誰でも承知していることだ。初に訪ねた60年前、前日の夕方に到着、早朝に散策して見た沼の美しさは今でも思い出す。その後も何度か訪ねたが、最初の印象は強烈だ。
今回は左に折れ喜多方を目指す。その途中、くねくねとした峠道、旧米沢街道に在る『檜原歴史館』内に、山塩を使ったラーメンが有る。との情報を喜多方観光協会のIさんから教えて頂いた。山塩は温泉の源泉を干して作る幻の塩らしい。
この店に行くつもりが、曲がり道を見失って喜多方の街に入ってしまった。情報は次回の楽しみに保持することにした。
喜多方は蔵とラーメンの街として有名だ。市内のいたるところにラーメン店が在る。餃子の宇都宮と同様だ。
どの店もそれなりの味と、味平という店に入り、塩ラーメンと餃子を注文する。
太目の縮麺にさっぱりしたスープは素直な味だった。
隣接した部屋に古美術品が飾られていたのを拝見し、店を辞す。

今回は紅葉狩りが目的、蔵の街の蔵を見ないで、那須高原の紅葉を愛でる事に予定を変更する。那須インターまで120kmを走り那須高原に。大丸温泉付近は磐梯高原より標高が上なのか、一部は枯葉も落ちて裸木の状態。少し下は丁度見ごろだった。
那須高原も水戸からの日帰りコース。年に何度か行くが、紅葉の時期は今回が始めて。

少し欲張りすぎの日程だったが、磐梯高原、那須高原の錦秋の山々を愉しんできた。

世界文化遺産講座 フランス編

2008年10月19日 22時40分05秒 | 日記
ギメ美術館

水戸国際交流センターと水戸ユネスコ協会で共催する第10回『世界遺産講座』 フランス・イギリス編』行われている。
この講座は大人気で、80名募集の定員が満席だ。
第1回 10/1.   世界文化遺産からみる中世のフランス
第2回 10/8 .   世界文化遺産からみる近代のフランス
第3回 10/22 .  ブリテン島におローマ人が遺したもの
第4回 10/29.  キリスト教をめぐる権力者たちのドラマ
第1・2回の講師は、茨城大学準教授 藤原貞朗
第3・4回の講師は、茨城大学準教授 小林英美

現在登録されているフランスの世界遺産は33件。
ランス、シャルトル、リヨン、ナンシー等、中世のフランスの史的建造物と美術作品。パリを中心とした近代のフランスの建造物等をスライドを交え説明した。

講師の藤原さんは1997~2000年までの3年間、リヨン第2大学に留学し美術史を学んだとのこと。近・現代のフランス美術史と東洋考古学史の専門家。
留学中はパリの『ギメ美術館』に通い詰めで研究したという。うらやましい経歴の持ち主。ギメは東洋美術の宝庫で僕も一度は訪れてみたいと思っている。

ランスの大聖堂やレオノール・フジタが制作したフジタ礼拝堂の話し等。
現在開催中の『フジタとモンパルナスの仲間たち』(9・13-11・30)笠間日動美術館。や『レオノール・フジタ』展((9・14-11・9)宇都宮美術館を是非御覧下さい。
とのことだった。

フジタは僕の尊敬していた山上鎮夫さんの母方の従兄弟で、何度かフジタの話を聞いたりたり、フジタから来た手紙を何通かを見せていただいた。絵入りの手紙はさすが画家の物と感心した記憶がある。秋田市立の平野政吉美術館で観た、秋田の祭りの大作。あれだけの作品を僅かの15日で描いたのだから、大変な才能だと思った。
才能が有ったがゆえに、誹謗中傷されたのだろう。戦時中の戦争画も殆どの画家が従軍して描いているし、その時代の背景では描かざるを得なかったのだろう。それも上手過ぎたために、後に批判の対象になったのだと、思う。
時代は代わり、作品をきちんとと評価しようとの機運が高まってきた。今回のフジタの展覧会もその様な流れのひとつであろう。


「レオナール・フジタ展」  @宇都宮美術館

2008年10月16日 17時58分30秒 | 日記
「レオナール・フジタ展」  @宇都宮美術館
2008年9月14日(日)~11月9日(日)

「レオノール・フジタ展」が宇都宮美術館で開催されている。
「宇都宮美術館」及びその周辺の公園施設「うつのみや文化の森」は、宇都宮市制100周年を記念して平成9年3月にオープンした施設。宇都宮市中心部より北に約5㎞に位置し、里山の姿を残す緑豊かな自然環境の中で、市民の憩いの場、芸術文化活動の拠点施設として開設された。水戸芸術館の郊外版とも言える。
宇都宮美術館で開催されている。

2005年9月、宇都宮美術館で「構造社 昭和初期彫刻の鬼才たち」展が開かれた。
構造社は、1920-30年代の彫刻を中心とした美術団体で、彫刻のほかにも絵画、綜合試2作(大型の建造物を設計し、そこに各々の彫刻作品を配置する表現方法)、モニュメントやメダルやレリーフなど幅広い作品を制作する人が集った彫刻団体だ。
僕の尊敬する彫刻家・後藤清一さんの作品がたくさん展示された

日本人の絵描きで海外で通用する作家の第一人者は、レオノール・フジタ(藤田嗣治)だろう。フジタの展覧会が笠間日動美術館でも開催されている。「フジタとモンパルナスの仲間たち」展、フジタの他にエコールドパリとの呼ばれた時代のパブロ・ピカソ、モーリス・ユトリロ、アメデオ・モディリアーニー、シャイム・スーチンや同時代の日本人画家の作品も展示されている。こちらの会期は9月13日から11月30日。

今回のフジタ展には、1992年パリ郊外の倉庫で発見されるまで、長らく行方がわからず「幻の作品」とされていた縦横3mにもおよぶ裸体群像4点は初公開された。
フジタが自分のスタイルを探し求めた1910年代後半の作品から、フジタの代名詞ともいえる「美しい乳白色」の下地を完成させた20年代の裸婦や自画像や猫などの動物画も展示されている。
裸体群像4点のために描かれた、デッサンも多数展示されていて、制作の過程がうかがうことが出来る。
晩年のキリスト教を主題とした宗教画や、自ら構想し、その身を削って完成させたランスの「平和の聖母礼拝堂」内部のフレスコ画とステンドグラスの下絵も公開され、同時に再制作されたステンドグラスも展示されている。
最晩年を過ごしたフランス・エソンヌ県の小村ヴィリエ・ル・バクルにある「ラ・メゾン-アトリエ・フジタ」(住居兼アトリエ)の一部が再現されている。
そこには残されたフジタ手づくりの愛らしい小物や生活資料なども展示されている。

フジタは僕の尊敬していた山上鎮夫さんの母方の従兄弟で、山上さんから、何度か話をお伺いしたり、フジタから来た手紙を何通か見せていただいた。絵入りの手紙はさすが画家の物と感心した記憶がある。
秋田市立・平野政吉美術館で観た、秋田の祭りの大作。あれだけの作品を僅か15日で描いたのだから、大変な才能だと思った。
才能が有ったがゆえに、誹謗中傷されたのだろう。戦時中の戦争画も殆どの画家が従軍して描いているし、その時代の背景では描かざるを得なかったのだろう。上手過ぎたために、後に批判の対象になったのだと思う。

時代は代わり、作品をきちんとと評価しようとの機運が高まってきた。今回のフジタの展覧会もその様な流れのひとつであろう。

僕は、昭和23年に世界の文化社から発行された『顔』叢書第3号、藤田嗣治画伯「巴里の晝と夜」は藤田嗣治、岡鹿之助ら4人の対談集。古き良き時代の巴里、藤田たちの生き様が分かる楽しい本だ。土門拳撮影の写真も挿入されている。
さらに、藤田の製作による、コラージュのページもある。僕は貴重な本と思って愛読していたが、今回の展覧会をさらに楽しむことが出来た。

オールドノリタケ展のコレクター

2008年10月14日 23時17分12秒 | 日記
茨城県陶芸美術館で11月16日まで開催されている「オールドノリタケと懐かしの洋食器」は巡回展で4月17日から6月15日までは東京都庭園美術館で開催された。庭園美術館は旧朝香宮邸1933(昭和8)年に建てられた建物を、そのまま美術館として1983(昭和58)年に公開された。アールデコ様式に日本独自の感性が付け加えられている。邸宅をそのまま展示室としているから、かなりの部分は自然光が入る。

オールドノリタケの展覧会を庭園美術館で見ることが出来なかったのは残念だ。
庭園美術館は僕の大好きな美術館だ。8月に観た、船越桂の展覧会もアールデコの室内空間と船越の作品が見事にお似合いだった。

陶磁器も自然光で見たほうが良い場合が多いが、現在の美術館は殆どがライテングによる。最近、照明技術の発達にともない、展示技術が大幅によくなった美術館も多くなってきたのは嬉しいが。
7月6日から9月15日までは信楽の里の滋賀県立陶芸の森「陶芸館」で同展が開催された。次が今回の笠間で、次に広島、高松と巡回する予定になっているらしい。

美術展覧会の企画から開催に到る過程は長期にわたる。テーマに基づいた作品を選定し、借り入れ交渉、契約、そして集荷して展示する。展示品の図録の作成までを含めお金と日時を要する。その結果3~5の美術館が協同で企画し各館を巡回する展覧会が多くなった。その点では見逃した展覧会を、別な館で観る事も出来る。現在、宇都宮美術館で開催されている「レオナール・フジタ」展も巡回だった。

前書きが長くなった。今回のノリタケの展覧会、多くの鑑賞者が疑問に思ったのは、この展覧会の殆どが“守屋コレクション”の所蔵になるものだ。これだけの点数を蒐集したコレクター守屋知子とは如何なる人なのだろうか?
詳しい事は分からないが、つくば市在住の主婦らしい。学生時代にペルシャの陶器を研究した。子育てが一段落した事をきっかけに大学で再び研究を始めた。今度は日本のラスター彩(ペルシャ陶器を源流とする技法で、金属光沢のある釉薬を用いたもの)をテーマとした。その研究資料としてコレクションを始めたとのこと。
ご家族の理解と財力が有ったのだろう。今回展示されているのは、コレクションのほんの1割程度というから驚きだ。
2008年4月には『オールドノリタケと懐かしの洋食器』東方出版から刊行している。
大実業家でもない主婦が、執念を持って素晴しいコレクションを創りあげたことに尊敬の念を感じる。

僕も、いくらか古美術の世界に遊んだが、なんらのコレクションも出来なかった。


「オールドノリタケと懐かしの洋食器」展

2008年10月12日 18時40分43秒 | 日記
「オールドノリタケと懐かしの洋食器」展
@茨城県陶芸美術館  2008.9.27~11.16

お稲荷さんと陶器の町笠間に「伝統工芸と新しい造形美術」を テーマに茨城県陶芸美術館が笠間芸術の森公園内に開館したのは平成12年4月。近・現代に優れた業績を残した文化勲章受章者及び重要無形文化財保持者等の作品を常設展示するほか、本県ゆかりの文化勲章受章者板谷波山、重要無形文化財保持者松井康成の作品を常設展示している。さらにに、数ヶ月に一度は企画展が開催される。
展覧会を観た後に、笠間市内で饅頭・奈良漬け・稲荷ずし・焼き鳥などを買い、蕎麦屋・フレンチ・和食・喫茶などの飲食店で腹ごしらえをする。
眼と腹を満足させてくれる街だ。水戸から1時間弱の行程だ。
街の何処からでも山を眺める事が出来るのも、笠間の魅力である。

笠間芸術の森公園の中には、茨城県陶芸美術館の他、様々な野外イベント会場となる野外コンサート広場や、陶炎祭などが行われるイベント広場がある。恒例となった「陶炎祭」は開始以来、毎年行っている。当初は、芸術村の山の上で開かれていた。
17のモニュメントが点在する陶の杜や水辺の広場などもある。
また、隣接して笠間工芸の丘クラフトヒルズKASAMAや茨城県窯業指導所 「匠工房・笠間」があり、今や笠間の中心地区に発展した。周辺の道路沿いは、毎月のように、新しい店が誕生している。
今まで笠間の町に観光客を呼んだお稲荷さんや笠間日動美術館の周辺から、観光客が移ってしまった。芸術村も忘れ去られた存在になりつつある。
この30年を振り返って、大きく変貌したな、と思う。

今回は「オールドノリタケと懐かしの洋食器」展。ポスターを見る限り、明治から昭和初期にかけて製作された高級輸出用陶磁器「オールドノリタケ」など、僕の生活からは縁がない。と思ったが、意外に楽しめた。

守屋コレクション(どの様なコレクションなのか、分からない)を中心に200点余りの華麗なる和製テーブルウェアの変遷を観る事が出来た。鹿鳴館以前の迎賓館である「延遼館(えんりょうかん)」において政府の主催する宴席で使われた大皿や、幻の洋風陶磁器メーカーと言われる「精磁会社」(ノリタケ以前、有田に20年間だけ存在し、製品は鹿鳴館の晩餐会でも使用されて非常に高い評価を受けていた。)の食器も展示されていた。精磁会社から分離したのが香蘭社と深川製磁。

1876年に創立された貿易商社森村組がいくつかの製陶所や絵付け所の協力を得て、大規模に工業化した輸出陶磁器を手がけるようになった。
1904年には日本陶器会社となり、現在はノリタケカンパニーとして日本を代表するブランドだ。1917年に東洋陶器が分離し、現在は建築関連の陶器会社。1919年には大倉陶園が分離して高級ブランドだ。
各社は日本の輸出産業の大きな担い手だった。
明治時代から大正ロマン、昭和の初期にかけてのモダンデザイン、アールデコ様式を取り入れた洋風陶磁器も含めた、洋食器をオールドノリタケとして展観している。
今や、洋風な食器は当たり前に使われているが、その歴史を知る事は興味深かった。

秋日和

2008年10月06日 20時01分23秒 | 日記
一里塚の箒木(ハハキギ)

10月に入って、快晴の日が続いた。
空気は澄み渡り天高く覚え、外出心を誘われる。
3日はエビネンコ氏と宇都宮美術館の「レオナール・フジタ展」に行き、大谷石の地下石切り場まで足を伸ばした。大谷石は火山灰が降り積もり海底に長らくある間に凝縮して硬くなった凝灰岩。
以前は露天掘りされていたので、中国の山水画のような奇岩が、何処かしこに見られる。宇都宮の市内ながら、大谷石の里の景色は一見に値する。
耐火性があり、柔らかで加工しやすい性質なので、多くの建造物の素材として使用されてきた。石倉・門柱・塀・床材など広範囲に使われるが、大正時代にフランク・ロイド・ライトが旧帝国ホテルに使用してから、一躍有名になった。
宇都宮は餃子・ラーメン・焼ソバの街としても有名。餃子2店、ラーメン1店、焼ソバ1店を食べ歩く。翌日1キログラム以上の体重増加。

4日は水戸国際交流会館で開かれた「~英語では・な・そ~の会」に出席。
オランダ出身のボーダ・ユルンさん。オーストラリア出身のマデリン・ミッチェルさん。日本人の野上周さん。の3方を講師に英語を話しながらの、文化交流会。
この件については、機会があればもう少し詳しい報告をしたい。

秋のめぐみ。
会から戻ると、水戸市岩根にお住まいのSさんからの連絡「野菜が沢山有るから、取りに来ませんか」とのお誘い。
大量の枝豆、ナス、食用菊を頂いた。さらに、ホースラディシュを一緒に掘り上げた。夕餉は枝豆、菊膾。ホースラデッシュを摺り下ろし、暖かい新米のご飯にのせ醤油をかけて食べ、秋を堪能した。

5日は自転車で、元吉田方面にサイクリング。
工芸品「桃花堂」
暫くぶりに水城高校脇の工芸品店「桃花堂」に立ち寄り、御茶を一服いただく。ここは質の高い工芸品《陶器・漆器等》を展示販売する、僕のお気に入りの店。
店頭や室内にに飾られている季節の花や、庭の佇まいは誠に心を和ませてくれる。
店主の品格を感じさせる店だ。この店に関しては後ほど書くつもりだ。

箒木(ハハキギ)
元吉田の史跡「一里塚」に箒木(ハハキギ)が植えてあるのを見つけた。7月句会の兼題に出たので、図鑑を見ていたから分かったが、実物を見たのは初めてだ。少し赤く成りだしたところだ。実はトンブリと呼ばれ、畑のキャビアとも言われるが、はたしてそれくらいまで大きくなるのか疑問だ。自転車での散歩はたくさんの発見が有って楽しい。

西の谷を見回って、ゴミを少し拾う。
「茶房・梵」に立ち寄ると、明日から1ヶ月のフィリピン旅行に出発するエビネンコ氏に出会う。現地からもブログを更新するとのことで、楽しみだ。美味しいコーヒーを一杯飲んで帰宅。

爽やかな秋の日を愉しんだ3日間であった。






上田薫さん、葉子さんのTV番組。

2008年10月02日 10時53分44秒 | 日記
光と風がさわやかな鎌倉の家

たまたま、NHKの教育テレビを見たら上田葉子さんが映っていた。葉子さんはキルト作家として活躍中で、NHKの手芸の番組で常連のように出演している。今までも何度か偶然に拝見した。
今回は「おしゃれ工房」という番組の「ようこそ我が家へ」という30分のコーナー。
昨年、鎌倉に土地を求め、新築した住まい兼アトリエを紹介した。タイトルは『光と風がさわやかな鎌倉の家』。
鎌倉八幡宮を眼下に見下ろす高台、アトリエを兼ねた住まいは明るい日差しが家中に差し込み、緑があふれている。海岸までもさほどの時間でなさそうで、海辺を散歩するシーンもあった。
ご夫妻ともに創作活動をしているので、光が作品の仕上がりを左右するので一番大切。光を生かす壁は天然素材の漆喰を使用したとのこと。アトリエは共有している部分もあるので、移動可能なアイデアルな工夫がなされていた。
台所、リビング、浴室などの生活空間も紹介された。以前水戸にお住まいの頃、常澄のご自宅にお邪魔した事があるが、其処もかなりセンスの良いお住まいであった。
今回の鎌倉の緑あふれる空間は、さらにすばらしかった。
お二人の最近の作品も紹介された。

鎌倉への転居通知を昨年戴き、一度はおたずねしたいと思っていたが、居ながらにして、お二人の元気な様子・自宅・作品を拝見できた。
ご主人の上田薫さんは洋画家で、1985年から1992年の7年間は茨城大学教授を務めた。当時のお二人は水戸にお住まいで、奥様の葉子さんはキルト作家としてデビューする前だった。
上田薫さんの略歴は1928年東京に生まれる。1954年東京芸術大学油画科 を卒業。
1956年にアメリカのMGM社ポスターコンクールでグランプリを獲得。
その後の約10年間はデザイン会社を設立し、グラフィックデザイナーとして活躍した。
1970年に描いた「貝殻」をきっかけに、スーパーリアリズムと呼ばれる、写真と見まごう様な細密描写の作品で知られるようになる。
落下する生玉子やガラス、金属質なものや液体など、物体そのものだけが描かれたリアルな作品が生み出されてきた。
90年代はきらめく水面、2000年になってからは空、さらに植物へと題材は変化した。

何故、鎌倉に移り住んだか、について上田薫さんは“戦後の一時期、稲村ガ崎で過ごした楽しい想い出が鮮明に残っていたし、親戚が近くに住んでいるという安心感もあった。
同級生もいるし、久し振りに会ったが温かく受け入れてくれた。コーラスにも誘われて一緒にやったり、住みたかった鎌倉での生活を愉しんでいます。“と番組で話しておられた。鎌倉での生活は、お二人にとても似合っていた。

僕も住んでみたいと思った事があるが、残念ながら実現はしなかった。
鎌倉は海も山も在る、歴史も有る、気候も温暖、神社・仏閣、文化の香りがする。
我が愛する水戸の街も、少しは鎌倉と共通する点も有る?
他所の方々が、"水戸に住みたい“と思える街にしたいものだ。






「ひめくり」 俳句会

2008年09月11日 09時21分26秒 | 日記
偕楽園の萩

毎月第二日曜日、午後1時から午後5時まで「日めくり 俳句会」が開かれる。
今月は9月14日。会場は水戸市備前町の「水戸市国際交流センター」3階の和室。

この俳句会の特色は、主宰或いは宗匠のような特定の人が存在しない。ということだ。
毎月開催される句会は輪番制。其の順番も決まっていなく、都合の良い人が当番を務める。会場も、現在のところ上記の交流センターが主だが、公民館であったり或いは個人の自宅であるとか、まちまちだ。

今月の当番はNさん。当番は会場を予約し、幾つかの「お題」を考え、会員に発送する。
お題は①月(14日は中秋の名月ということで、月に関することなら何でも)②秋海棠(しゅうかいどう・秋の草花)③テーマとしての“道”(道路、人生、修行の道など)この3つのお題に対して数点の俳句を作り、当番さんに出句する。今月の返信の締め切りは12日(金)なので、会員である僕も、無理やり3句づつ作って、Nさんに本日返信した。

当番は句会迄に、それぞれのお題ごとに会員の作った句を連記しておく。作者名は分からないように伏せられている。
句会当日、それらを読んで、各自が好みの句に投票する。投票による高得点句がその日の優秀句で、優勝者となる。
句会によって句座の進行の方法は異なるだろうが、共通するところもあるだろう。僕は、残念ながら、他の句会に出た事が無いから分からない。

入会以来20数年、その間の殆んどの年月は、俳句を作らず(作れず)出席もまばら、にも係わらず在籍させてもらった。リタイア後、なんとか句を作り、句会にも出席するようになった。
“ひめくり”は毎日一枚づつ、めくる暦。一日の出来事を、一句の俳句にまとめよう。というのが、句会の名前の由来でもあるようだ。その様な気持ち、無いではないが、実行するのは難しいものだ。

宗匠のいない「ひめくり俳句会」は"俳句そのものより俳句を通して、半日を楽しむ"という会と僕は思っている。全員が平等で、自由に発言する。自分が選んだ俳句に対して、好きな点や、良いところを発表するのだが、其のコメントを聞くのが楽しみだ。「なるほど」と、感心することが多い。
自由な会なので、会員の出入りも多い。現在は10数名だが、多いときは20名近い数だったこともある。其の内出席するのは平均して6人くらいか。少しさびしい人数だ。
宗匠がいないから、指導・添削等ないので、上達しない。ともいえるが、“俳句と遊ぶ“ のは楽しいことだ。

もう少し、人数がいたほうが、なを楽しい。
何方か、今回から参加される方、いませんか?



Music Fes. in GOKOKU

2008年09月08日 21時28分38秒 | 日記
Music Fes. in GOKOKU
2008年9月6日  @ 茨城県護国神社境内(水戸市桜山)

水戸市の千波湖を中心にした、偕楽園・西の谷緑地・逆川緑地等の公園地帯はニューヨークのセントラルパークに次ぐ広さと言う話もある。真偽の程はともかく、豊かな緑地は水戸市民の誇りであり、大切にしたい。
其の一角を占める桜の名所に茨城県護国神社が在る。護国神社は徳川幕府の政治体制から、近代国家体制へと大きく生まれ変わろうとする時、国のために殉じた水戸藩関係の烈士等1,800余柱の御霊を御祭神として、明治11年に水戸市常磐神社の境内地に、社名を「鎮霊社」として創祀された。
昭和14年4月、国の方針により各県下に英霊を奉斎する護国神社創建が決定し、これにより水戸桜山の現在地に建設が決定された。
和16年11月、常磐神社境内の鎮霊社から「茨城県護国神社」と改称、盛大な遷座祭を斎行した。
終戦後の昭和22年8月鎮座地の地名を採って「桜山神社」と改称したが、日本の独立により、昭和29年10月「茨城県護国神社」と復称、現在にいたる。

以上のような歴史をたどり今年は創祀130年。其の記念行事の一つとして、今回のコンサートが企画された。午後4時半から9時まで5つのグループが競演する長丁場。

久し振りの桜山。護国神社の境内を散策してみた。沢山の慰霊碑や慰霊塔が有る。主には第二次大戦戦没者の慰霊のためのもの。戦争体験のある人達も少なくなってきた。たまにはこのような所に来て、過去を振り返ってみる必要がある。

神社の拝殿の前の石畳が特設ステージ。
「笠間コブラ会」の演奏からスタート。次に「Do Doittsu」というバンドは黒人音楽をルーツにしながら日本土着のリズムを感じさせる、摩訶不思議な演奏。
ベリーダンスも登場し、ポイという小道具を使って護国の御霊に献火のファイヤーダンスを奉納。
今回のコンサートをプロヂュースした、KENZOがボーカルを務める「Blue Inner Child」がブルースロックを熱演。演奏の合間に今回のコンサートに到る経過を“今から30年くらい前には水戸でも沢山のコンサートが開かれていた。特に、千波湖畔の野外コンサートは印象的。若者に其の魂を伝えたい。”と述べた。

境内には飲食の屋台も並び、飲んだり食べたりしながらの気楽な雰囲気。
参加者も老若男女で幅広く、外国人も多かった。
神社宮司もご挨拶「是非、慰霊の気持ちでご参拝下さい」とお願い。

とりは「City of Angels」の登場。ギターの金子正史をリーダーに結成された凄腕プロ集団。東京で活躍する水戸出身のプロミュージシャンが半数以上。
のりのりのダンシングミュージックも演奏されて会場は大盛り上がり。月夜の神社境内でのコンサート熱き余韻を残し終了した。

萩の花も咲き出した護国神社。秋を探しに出かけて見ませんか。