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「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

波乱万丈の氷川丸@山下公園地先

2015年10月03日 10時06分30秒 | 博物館
波乱万丈の氷川丸@山下公園地先





昭和34(1959)年、氷川丸に乗船しアメリカに留学するT君を見送りにご家族と一緒に横浜に来たのは、今から56年前のことだ。
氷川丸は翌年の1960(昭和35)年には引退しているから、ほぼ最後の航海に近い。
船の寿命は約20年といわれ、1930(昭和5)年に竣工し、すでに船齢30年を経て、スクラップにされても不思議ではなかった氷川丸だったが、横浜港開港100年という節目に合わせ、新たに建設されるマリンタワーと共に港町横浜のシンボルとして生き続けることになった。

氷川丸は山下公園のシンボルのようで、目にはするが、乗船して内部を見てみようとは思わなかった。







2008年「日本郵船氷川丸」博物館としてリニュアールオープンした。



受付の脇には、日比野克彦さん制作の「段ボールの氷川丸」がお迎え。

パネル等で歴史を紹介。

1930年、三菱重工業横浜製作所で生まれた氷川丸は、総トン数1万1622トン、全長163.3メートル、船幅20.12メートル、船速18.21ノットという、当時の造船技術の粋を集めた、最新鋭の貨客船だった。

*大洗~苫小牧の大型フェリーが大洗港に停泊しているのを見慣れた目では、随分小さな船、これで太平洋を航行するのはさぞ揺れたことだろう、等と思っていたが、乗船してみると大きく感じられた。

氷川丸は日本郵船の太平洋横断シアトル航路の貨客船として就航した。
太平洋戦争中は、日本海軍に徴用されて主に南方での病院船として用いられ、終戦後は復員輸送のための引き揚げ船の役目を担った。

1953(昭和28)年には11年ぶりにシアトル航路に復帰。
引退までに太平洋横断254回、船客数2万5千余名を越えた。







2008年のリニュアールにより一等食堂・一等社交室・一等客室などが当初の姿に復元された。



エンジンの音が聞こえてきそうな機関室。

現在の大型豪華客船とは比べようはないだろうが、材料の鉄はイギリスから、エンジンはデンマーク製、内装デザインはフランス製と贅を尽くした。
デザインやインテリアはアール・デコを基調とした。

海外留学が珍しい時代に高校生で留学し、東大を卒業後商社に勤務、ニューヨーク・モスクワに勤務したのち子会社に出向、出張先のロンドンで客死したT
君。「何れ一緒に旅しよう」と話したこともある。

波乱万丈の昭和を生き抜いた「氷川丸」に乗船し、亡きT君の思い出がよみがえった。

筆記用具の博物館

2015年10月02日 23時33分22秒 | 博物館


ペン ステーション ミュージアム@中央区京橋2-6-21




京橋の明治屋が新しいビルに生まれ変わった。
正面は往時の部分を一部保存した、最近の流れ。



明治屋の反対側にパイロットコーポレーション(万年筆・ボールペン)のビルがある。1階のカフェは、香り高い本格エスプレッソが自慢で、パンなども売っている。中央の階段を上った2階に「ペン ステーション ミュージアム」
ペンとステーショナリーのパイロットが蒐集した国内外の貴重な所蔵品・資料を展示する国内随一の筆記具ミュージアム。
入場無料なのが嬉しい。
東京にはこの様な無料の博物館が沢山ある。



紀元前4000年の昔に人類が考案した最初の筆記具から、近代の金属ペンまで、私たちの「知の営み」を支える筆記具の歩みを貴重な資料と共に見ることができる。



創業者の二人。

大正7年の初の純国産万年筆や、英国ダンヒル社との提携による蒔絵の万年筆「ダンヒル・ナミキ」等も展示されている。



① 蒔絵万年筆「荒磯」人間国宝・寺井直次 作品
② 蒔絵万年筆「鈴蘭」人間国宝・田口善国 作品
③ 蒔絵万年筆「舞楽」1998年・80周年記念万年筆

「パイロット」は今や世界ブランド。
ボールペン等の量産品を思い浮かべることが多いので、高級品ハ「ナミキ」のブランドを使用しているようだ。
「アクロボール」シリーズは大ヒット商品。

蒔絵万年筆の万年筆は現在も手作りされて人気があるとのこと。
お金に余裕が有れば、1本は所持してみたいとも思った。

春画展 SHUNGA@永青文庫

2015年10月01日 14時02分22秒 | 博物館
春画展 SHUNGA@永青文庫



2015年9月19日(土)~12月23日(水・祝)
前期:9月19日(土)~11月1日(日)
後期:11月3日(火・祝)~12月23日(水・祝)

2013年秋~2014年冬、ロンドンの大英博物館で『Shunga: Sex and Pleasure in Japanese Art』展(『春画―日本美術における性とたのしみ』が開催され、9万人が訪れるほど大盛況で、しかも、来場者の約6割が女性、大らかで開けっぴろげな「春画」のエロティシズムが大好評だったと報じられた。
本家の日本でも開催したいと願った関係者が、国内の美術館や博物館に開催を要請したが、受け入れる施設がなかった。

「浮世絵」の一部である「春画」、日本文化の一面だが、男女の象徴を誇張し描かれていること、秘め事とする日本人の感性からから博物館等での公開は難しいと考えもあった。

この様な状況の下、「永青文庫」(旧熊本藩主細川家伝来の美術品、歴史資料や、16代当主細川護立の蒐集品などを収蔵し、展示、研究を行っている)理事長の18代当主の細川護煕・元首相が受け入れを表明し、今回の開催となった。

春画と云っても一枚刷り、巻物、判本など多くの種類があり、たまに骨董屋で見る機会はあるが、沢山出回るほどではない。
今回は一堂に会する稀な機会で全貌を確認と思って足を運んだ。

永青文庫は、東京都文京区目白台にある。
椿山荘の直ぐ脇だし、かつて松尾芭蕉が神田上水の改修工事に携わった際に住んでいた住居跡に造られた「関口芭蕉庵」も在る。
関口芭蕉庵の庭園などが公開されているというので、以前に訪ねたが入り口が分からず断念した。何れの機会に再訪したいと思っている。



林の中の永青文庫。
外観は3階建ての建物に見えるが、中に入ると4階建。
4階に上がって、下の階に降りてくるようになっている。

プロローグ。
愛を交わす春画だが、導入部として控え目に描かれたものが多い。
鈴木春信、鳥居清長、渓斎 英泉など。
鈴木春信「煙管」・中判錦絵

鈴木春信「綿摘女」 中判錦絵 江戸時代 (18 世紀 )
渓斎英泉「あぶな絵 源氏物語」 大判錦絵 (文政 5年頃 )

*渓斎英泉(1790年- 1848年)は幕末の絵師だけに近代的な感覚を持ち合わせている。浮世絵師として一番好きなので、機会をみて調べたいと思っている。

1 肉筆の名品。
版画が大多数を占める中で、絵師が描いた肉筆画は点数が少く貴重だ。
40点の「肉筆作品」が展示されている。
「小柴垣草紙」絵師不詳 鎌倉時代
「又兵衛様式春画巻」岩佐派 白澤庵
「四季画巻」月岡雪鼎筆 ミカエル・フォーニッツ コレクション
「耽溺図断簡」絵師不詳 ミカエル・フォーニッツ コレクション

*「ミカエル・フォーニッツ コレクション」の作品が目立った。版画は一度も所持したことがないので、まるで分らない。何処のコレクターなのか。

2 版画の傑作。
質量とも今回の展覧会のメイン。
なかでも、「袖の巻き」鳥居清長 天明5年(1875)頃(東洋文庫)は今期の展覧会の白眉。後期に対の「袖の巻き」(国際日本文化センター)が出品予定だ。

3 豆判の世界。
縦 9㎝ほど、横 13 ㎝の小さな「豆判」画。
携帯したり、見せ合ったりしたのではと思われる。

エピローグ
永青文庫所蔵の春画作品を展示。

もともと日本人は、エロティシズムに対してオープンなお国柄だったと言われる。春画は「笑い絵」と呼ばれたらしい。
いい意味でナンセンスな春画を、当時の人たちは大勢で「バカだねえ」と笑いながら眺めていたそうだ。
どの作品も猥褻さは感じられなく、文章の入ったものは落語のようですらある。

パソコンを開ければ何百万の春画を、修正や墨塗り無しで見られる時代となった。絵柄は見られるが、全貌は、実際に訪れて確認することだ。

とにかく、交通の便が良くない場所なのに入館者が行列を作っているのに驚いた。以前に何の展覧会か忘れたが、観覧者は数えるほど。
会場内は若い人から中高年まで、男女は半々、若干、女性が多かったかもしれない。カップルも多い。

これだけの盛況は「永青文庫」始まって以来ではないか。
細川護煕・理事長の「この展覧会を引き受けたのは義侠心」との発言も影響したのではと思う
12月末の会期中にはかなりの人数になるだろう。

今回の展覧会によって「永青文庫」を訪れる人が増え、古美術が身近になることを期待している。

彦根城博物館@彦根市金亀町

2015年09月25日 20時46分55秒 | 博物館
彦根城博物館@彦根市金亀町





天守閣から入場口に戻ると、その脇に「彦根城博物館」が在る。
彦根城と共通の入場券を買えば両方を観られる。

パンフレットに拠れば、博物館は江戸時代までに彦根藩の政庁を司っていた表御殿を再建し、彦根市の市政50周年を記念して1987年2月に開館した。
表御殿を復元するにあたっては、発掘調査、絵図、明治時代初期の写真を参考ににし博物館としての機能も加味しながら復元した、とある。

鉄筋部分と木造部分で構成されているが、築後30近くを経て江戸時代の建造物の様に馴染んでいる。







井伊家に伝わった歴代の甲冑、刀剣小道具、美術工芸品、能や茶器、古文書の展示等が展示されている。



国宝『彦根屏風』が有名だが、毎年春に展示されるとのことだ。

表御殿の中央に占める能舞台は当時の唯一の遺構で、別の場所に移築されていたものを開館に合わせ再移築された。






藩主が日常生活をいとなんだ「奥向き」は、御座の間や茶室・庭園が復元されていたが見事なものだ。

特に、彦根藩井伊家13代直弼(1815-60)は、江戸時代後期の代表的な大名茶人として知られている。彦根藩を率いる藩主として、幕政を統括する大老として政治の表舞台で活躍するとともに、茶の湯の研鑽に力を注ぎ、茶書の執筆や茶会の開催、弟子の育成、茶道具の制作などを精力的に行った。
直弼は、利休と石州をはじめとする先人の思想を丹念に紐解きながら、自らの茶の湯を育んだ茶人として知られ、所蔵品も多い。
『一期一会』は直弼の著書『茶湯一会集』巻頭に「一期一会」と表現したことにより、同じく茶道の重要な精神とされる「独座観念」とともに四字熟語の形で広まった。と云われる。

「彦根城博物館」の建物・庭・収蔵品等々、お城と一体となった展示内容など、水戸は多くを学ばなければと感じた。

白鳳展@奈良国立博物館

2015年09月16日 08時14分48秒 | 博物館
白鳳展@奈良国立博物館







奈良国立博物館・開館120年記念特別展 「白鳳―花ひらく仏教美術―」 -
平成27年7月18日(土)~9月23日(水・祝)まで開かれている。



「白鳳」と聞くだけで憧れを感じるがその実態は、よくわからない。
この展覧会は奈良国立博物館が開館120年を記念しての企画、見逃せない。

奈良博の紹介文に
『白鳳は7世紀の半ばから710年に平城京に遷都するまでの間の文化や時代を指す言葉として、美術史学を中心に用いられてきました。』
とあるように、「白鳳時代」を独自の文化として認めるのか、何時から何時までを指すのか、などについては論争が在った。
今回、奈良博としての見解を示した多様な品々が出陳されているから、「白鳳時代・白鳳仏」に対して理解が深まった。

更に、
『白鳳美術の魅力は金銅仏に代表される白鳳仏にあると言って良いでしょう。白鳳仏は若々しい感覚にあふれ、中には童子のような可憐な仏像も見ることができます。神秘性や厳しさを感じる飛鳥彫刻や、成熟した天平彫刻とはまた違う魅力です。一方、考古遺物に眼を向ければ、白鳳期の瓦の文様はわが国の瓦当文様の頂点と呼ぶにふさわしく、寺院址からは堂宇の壁面を飾っていたと思われる美しい塼仏が出土しています。』

とあるように、童子のような可憐な仏像から成熟した天平彫刻のようなものまで、如何にも「白鳳」と云うものばかりとは言えないものまでがある。
飛鳥時代と奈良時代の中間の多様な様式で幅が広い。

白鳳期の「瓦」や「塼仏」は他の時代の追従を許さない魅力がある。
西琳寺出土品。南志賀廃寺出土・方形瓦、

崇福寺跡出土・独尊塼仏。



崇福寺塔跡出土・舎利容器及び供養具。

河原寺裏山遺品出土品。
山田寺跡出土品。
河原寺裏山遺品や山田寺出土品は2013年12月に飛鳥巡りをした際、山田寺跡の直ぐ近く「奈良文化財研究所」の展示施設で多くを観たことを思い出した。



深大寺の迦如来倚像
龍角寺、鶴林寺、等の金銅仏。

薬師寺の月光菩薩立像・東院堂の聖観音菩薩立像などは人が作ったとは思えない程に、素晴らしい。

さらには、東塔の相輪水煙など塔の最上部で、普通は観られないものだ。

奈良・悟真寺の誕生釈迦立像など、小金銅仏にも素晴らしいものが沢山。

法隆寺の天蓋の飛天と鳳凰。

阿弥陀三尊像(伝橘夫人念持仏)

法輪寺の伝虚空蔵菩薩立像

岡寺の「天人文塼」と南法華寺の「鳳凰文塼」。
本来、同じところに在ったのであろうが、二つが並んで陳列されるのは稀だ。

まだまだ素晴らしいものが有った。
一日中かけても見飽きないが、ある程度の時間で気力もなくなる。
何日かに分けて観るのがベストだが、遠方ゆえそうも行かぬ。
一期一会、とにかく現物に接することが出来た体験を有難いと思う。

歴史館まつり@茨城県立歴史館

2015年08月22日 18時57分31秒 | 博物館
歴史館まつり@茨城県立歴史館 8月22日(土)・23日(日)



茨城県立歴史館で8月22日(土)・23日(日)の2日間「歴史館まつり」が開催された。
プログラムの一部は異なるようだ。









庭園では体験広場・フードコーナー・生産物販売・雑貨マーケットなどのテントによる屋台での販売など。



歴史館名物のイチョウ並木、黄葉にはまだ早い。





立木にロープを張って、モンキーブリッジ(原始体験。
ボーイスカウトによる運営。

常磐線沿いの蓮池。



縄文蓮と云われる、大賀蓮が盛り。

館内の展示は

入り口には、「茨城県自然博物館」の出張展示、というかPRブース。



「恐竜の糞の化石〉や「アンモナイトの化石」
「蝶の標本」など

「茨城の科学技術の歴史-科学万博-つくば’85開催30周年」

茨城では江戸時代中期頃より,蘭学から得た自然科学の知識を生かし,河口信任や原南陽,本間玄調などが,医療,医学教育の分野で活躍した。
日本最初の経緯線が記された日本地図をつくった長久保赤水。
和時計を発明した飯塚伊賀七,傘式地球儀を製作した沼尻墨僊など,科学技術の先駆者たちも輩出された。

*館内は全て撮影禁止だが、多くの博物館などでは個人所有を除き、フラッシュを使用しなければ撮影可の場所が増えている。未だにNGはどうなのか。
早いもので「科学万博-つくば’85」から30年。
開催に関する行政資料や万博キャラクター,記念品を展示。
開催当時の様子を紹介されている。
想い出せば懐かしいが、遠い過去のように思えた。

「一橋徳川家記念室」は陶磁器と硝子。
さすが、大名家の生活用具と思える陶磁器やガラス製品。
何度か展示されたのかもしれないが、僕は初めての物ばかりだった。

かもす-茨城の酒-@茨城県立歴史館

2015年05月28日 17時34分38秒 | 博物館
かもす-茨城の酒-@茨城県立歴史館
5月23日(土)~6月28日(日)



新緑の歴史館、散歩コースとしても最適。



「楽しい雰囲気を醸しだす」など、『醸』は素晴らしい言葉だ。



茨城県酒造協会加盟の品の展示も。

酒の上での失敗談は数えきれないほどあって、何度も止めたいと思った。
酒の咎に非ず、自分の心を制御する自分自身の問題と分かってはいるのだが。
酒の良い点は沢山あるのに、失敗談や人生を棒に振った例も多い。

古来、酒は神事の捧げもので、冠婚葬祭などの「ハレ」の場の特別な飲み物だったが、大量に製造できる時代となって、日常の空間でも飲める身近な存在となった。



豊かな水源をたたえ、米づくりの盛んな茨城では、古くから酒造りが行われてきた。奈良時代の初期に編纂(へんさん)された『常陸国風土記』には、人々が酒を醸(かも)し、飲み楽しむ様子が記されている。
近世には、水戸藩領内だけでも、2000軒近くの造り酒屋が軒を連ねた。
現在でも、茨城県内には関東地方でもっとも多い、46軒の造り酒屋があり、酒造りの技が受け継がれている。とのことで茨城は酒の名産地であることを再確認。特に、石岡は「関東の灘」と称され、豪商がいたとは知らなかった。

今回の展示は、文書史料から茨城の酒造りの歴史を紐解き、日本酒が醸されてから飲まれるまでの、人々と酒の関わりを、昭和の初期まで実際に使用されていた醸造道具の数々や、多種多様な酒器などの資料が紹介されていた。



中庭の池、7月頃からの蓮の花が美しい。
常磐線の際の蓮池の「大賀蓮」が咲き始めるのが待ち遠しい。

「徳川慶喜」展@茨城県立歴史館

2015年03月01日 17時18分25秒 | 博物館
「徳川慶喜」展@茨城県立歴史館
2月7日~3月22日



今日から3月に入った。水戸の梅祭りは〔第2観梅デー〕として野点茶会〈石州流〉なども用意されていたが、あいにくの雨。
梅の季節は季節の変わり目、雨も嵐もある。

満開の花もあれば、蕾もある。
桜と違って、春の魁。
天候や咲き具合、それぞれに応じて愉しむのが梅に対する感じ方と思う。

3月22日まで茨城県立歴史館で「徳川慶喜」展が開催されている。


サブタイトルに、
『正統なる英傑(カリスマ)か。偉才の異端児(アウトサイダー)か。』
とあるように、家康以来の資質、教養に関して言えば家康、吉宗を遥かに凌ぐと言われた徳川15代将軍、慶喜 《1837(天保8)年~1913(大正2)年 77歳》。

将軍に就任し、果断に幕政改革を進めたが,将軍在位1年で江戸開城への道を開き,水戸ついで静岡で謹慎し、後半生は政治的沈黙を貫いた。


江戸の無血開城がなければ、内乱は避けられなかったろうし、列強の植民地になる危険性もあった。



背広の上下を、勤王の志士風に着こなした姿は、将軍とは思えない。
幕府と朝廷との板挟みに会いながら、京都を舞台にして苦闘を続けた。


ヨーロッパの先進性を十分に承知し、時代を読む眼力に富んだ傑物であったのは間違いない。



フランス軍の軍服を着用し、自らがフランス料理を振る舞い、各国公使との交流に取り組むなど、 伝統的な将軍のあり方を打破した。

1867年の「パリ万博」に弟昭武を将軍の代わりに派遣した。
昭武と共に渡欧した渋沢栄一ら、当時最高の知的エリートの人々は、ヨーロッパの最新の知識を持ち帰り、明治維新後の近代化に大きな足跡を残すことになる。
渋沢栄一は、後に日本の実業界の父と言えるほど数多くの会社を設立した。
今でもかなりの会社が当時のまま、または合併などで名称を変えつつ大企業として存続している。
「私利を追わず公益を図る」との考えを、生涯に亘って貫き通し、財閥を形成しなかったことも渋沢の見識だ。
徳川慶喜は間接的に今の日本企業社会を作らせたことになる。
渋沢栄一も、何かと面倒を見てもらった慶喜に深く感謝し、後年、慶喜に対する悪い評論を払拭すべく、『徳川慶喜公伝』(全7巻)を刊行した。
*現在・常陽史料館で展示中。


徳川慶喜は、江戸の火消しの親分である新門辰五郎と仲がよかった。
辰五郎の娘・お芳が慶喜の側室だった。ともいわれ、慶喜が最後に京都に出向いた際は、高齢である辰五郎も部下を率いて警護役として従っている。


徳川慶喜は評価が難しいとされてきた人物。
慶喜という人物を再評価してみる必要があるのではないか。
評価というものは、時とともに変わるものだ。

「みちのくの仏像」展@東京国立博物館

2015年02月27日 22時32分44秒 | 博物館
「みちのくの仏像」展@東京国立博物館
2015年1月14日 ~ 4月5日



まもなく、東日本大震災から4年を迎える。
仏像をとおして東北の魅力にふれ、復興の一助になればとの願いで「みちのくの仏像」が開催されている。

東北の仏像を観る機会は少ないが、東北の三大薬師と称される、黒石寺(岩手県)、勝常寺(福島県)、双林寺(宮城県)の薬師如来像をはじめ、岩手・天台寺の鉈彫りの聖観音、成島毘沙門堂の伝吉祥天像、山形・吉祥院の千手観音、本山慈恩寺の慶派作の十二神将、宮城・給分浜観音堂の十一面観音、秋田や青森の円空作の菩薩、如来など。
東北6県を代表する仏像が26点出品された。
出展数として、多くはないが一堂に拝見することが出来た。



国宝・薬師如来坐像 平安時代・9世紀 福島・勝常寺蔵

胸板が厚く、大腿部の量感を強調し、額が狭く、厳しい表情の面相などに平安初期彫刻特有の様式が現れている。
杉材を矧ぎ合わせ、浮き彫りで唐草文様を表した光背も当初のもの。

●何年か前に、磐梯山の麓の、慧日寺跡(磐梯町)と勝常寺(湯川村)訪ねた
どちらも、法相宗の碩学「徳一上人」の創建といわれる。

慧日寺は会津盆地東側の山中で、自然豊かで仏道修行に適した土地であったろう。(広大な寺跡は昭和45年に国の史跡に指定され、復元整備が進められている。)
勝常寺は会津盆地の中央に位置し、仏教的権威を民衆に示すために薬師如来像をはじめとした諸仏像を安置したと考えられる。
*創建時は七堂伽藍が備わり、盛時には大寺院であったと伝えられているが、現在残されている建物は薬師堂(元講堂)のみだが、平安初期の仏像が多く伝えられている。今回は木造薬師如来と両脇侍像が出展された。



重要文化財・ 聖観音菩薩立像 平安時代・11世紀 岩手・天台寺蔵

●天台寺は古刹ながら荒れ果てていたが、瀬戸内寂聴が住持するようになり隆盛になった。僕は、安比高原の「シェジャニー」を訪ねた際に足を伸ばして参詣したが、寂聴尼は後進に道を譲られたのち。
この「聖観音菩薩立像」(表面に荒々しいノミ目をあえて残すことで、樹木の霊性をあらわした鉈彫像。)は何処に安置されていたのか、本堂と収蔵庫で観た記憶はない。或いは観たのに覚えていないのか?
記憶など当てにならないし、己が観る眼を開かねば見えない。


 
重要文化財 十二神将立像 (左から、丑神、寅神、卯神、酉神)
鎌倉時代・13世紀 山形・本山慈恩寺蔵

十二神将は薬師如来をお守りする役目。
鎌倉時代特有の力強さを有しながら、ユーモラスで可愛さを感じる。

「あこがれの空へ―民間パイロットの先駆け 武石浩玻―」@水戸市立博物館

2015年02月19日 00時09分29秒 | 博物館
「あこがれの空へ―民間パイロットの先駆け 武石浩玻―」@水戸市立博物館
2015年2月14日(土)~3月22日(日)








ライト兄弟が有人動力飛行に世界で初めて成功したのが1903年、今からわずか112年前のことだ。ライト兄弟以後、飛行機はより速くより高くより遠くへ飛べるよう改良が続けられた。

茨城県那珂郡勝田村勝倉(現・ひたちなか市勝倉)出身の武石浩玻(1884年- 1913年)は1902年(明治35年)、茨城県尋常中学校(現・茨城県立水戸第一高等学校)卒業後、渡米。
職業を転々としながら放浪を続け、イェール大学に入学するも中退。
1910年(明治43年)、ユタ州ソルトレイクシティで『ロッキー時報』という邦字新聞の主筆を務めながらユタ大学に通学していたが、この時、フランスの飛行家ルイ・ポーランの姿に感動し、飛行家を志す。
当初はライト飛行学校に入学したが、1912年(明治45年)2月にカーチス飛行学校に転じ、同年5月、飛行免状獲得。1月に合格した滋野清武、4月に合格した近藤元久に次ぐ、日本の民間人として三番目の飛行家となった。

1913年(大正2年)4月、日本に帰国。同年5月4日、大阪・京都間の都市間連絡飛行に挑んだ際、京都深草練兵場への着陸に失敗し墜落死。28歳。
民間飛行家として最初に日本の空を飛んだ人物であり、民間飛行家の最初の犠牲者でもある。(Wikipedia)



操縦席に座る武石浩玻



墜落した武石浩玻の飛行機

今回の展覧会は、当時の写真や墜落した機体の操縦輪や車輪なども展示されている。
時速70キロ位だったが、目視による飛行なので、事前にルートを歩いて景色や建物などを確認する必要があった。

操縦席は、木の梯子状の所に座るだけで、身体を覆う設備も付いてない。
安全性は殆ど無いような乗り物だった。
それでも、空を飛ぶと云うことだけで大勢の観客が押し寄せた。

衝撃的な武石の最期に日本中が騒然とし、盛大な葬儀が営まれた。
それらは、日本の飛行機に対する熱を一層高めるものとなった。

墜落死から間もなく、郷里の水戸では記念像の建立が計画された。
募金運動が始まり、事故から半年後の12月には茨城県尋常中学校の 西端、旧水戸城址の土塁の上に銅像と碑文が建立された。

第二次大戦中、鍋釜から梵鐘まで多くの貴重な品々が供出させられたが、「飛行家」の像と云うことで免れた。
アメリカ軍の占領下でも、民間パイロットの像なので何のお咎めも無く存続した。
2011年の東日本大震災で台座が崩落したが、同年11月に場所を移して再建された。

100数十年で飛行機は大進化を遂げ、誰もが気楽に乗れる時代となった。
ここに至るまでの礎となった、武石浩玻の存在はあまり知られていない

少ない資料で、短い生涯を遂げた武石の業績を辿る企画は難しかったであろう。

武石浩玻展「憧れの空に」@水戸市立博物館

2015年01月29日 22時57分11秒 | 博物館
武石浩玻展「憧れの空に」@水戸市立博物館
2月14日(日)~3月22日(日)



明日は、関東地方の平野部でも雪が降るかも、との天気予報。
春に向けて天候が不安定な時期、先駆けの梅の花がほころび始める。
梅祭りにお出で下さる皆様に、歓迎のイベントが組まれる。

水戸市立博物館では「あこがれの空へ 民間パイロットの先駆け・武石浩玻」展が開催される。
今から102年前、空を飛ぶことへの憧れを実践した武石浩玻(1884-1913)もその一人。

水戸中学校(現・水戸一高)を卒業後1903年に渡米。
カーチス飛行学校で操縦技術を学び、わずか3か月で卒業。
在留邦人の援助を得て飛行機を購入して帰国。
日本の航空界の黎明期に民間パイロットとして名をあげた。



しかし、1913年5月飛行会最終日「都市連絡飛行」において、着陸寸前に墜落28歳の生涯を閉じた。
1903年にライト兄弟が飛行機を発明してから10年後の出来事だった。

没後間もなく、水戸中学校長・菊地謙二郎らが発起人となって記念碑建設募金活動が行われた。7月に建碑費二千円が集まり、12月には水戸中学の西端、旧水戸城址・月見櫓跡の土塁の上に飛行服姿の銅像が建立された。

第二次大戦中は多くの銅像や梵鐘など金属製品の回収が行われたにも拘らず供出を免れた。飛行操縦士の像と云うことなのだろうが、まれな例だ。

水戸中学・水戸一高生に親しまれた「武石浩玻像」


この像を見れば、卒業生の多くは何らかの思いが連想される。



100年以上も同じ場所に立ち続けたが、2011年3月11日の東日本大震災の際に倒壊した.今では跡地に立ち入る人は少ない。





2011年10月、校舎前に移築された。

2月14日(日)から水戸市立博物館開催される「あこがれの空へ 民間パイロットの先駆け・武石浩玻」展。
どの様な展示内容になるか、心待ちにしている。

「クラゲファンタジーホール」@新江ノ島水族館

2015年01月12日 23時04分19秒 | 博物館

「クラゲファンタジーホール」@新江ノ島水族館


 



クラゲは人類が誕生するよりもはるか昔に地球上に現れたらしい。


 


新江ノ島水族館の「クラゲファンタジーホール」には大小さまざまなクラゲがふらりと優雅に漂い、浮かび、泳いでいた。


 




色もさまざまで、透明なもの赤いもの、青いもの。


 


日本最古の書物「古事記」にも登場しているとのこと。


祖先もその姿や形に心を惹かれたのであろう、海月・水母・久羅下などの字をあてている。


 


正に、悠久なる宇宙を感じさせる。


 


さらに、成長にしたがって大きさが変わるだけでなく、模様や色、姿・形も変わってゆくのだそうだ。


有人潜水調査船「しんかい2000」@新江ノ島水族館

2015年01月12日 21時59分11秒 | 博物館

有人潜水調査船「しんかい2000」@新江ノ島水族館


 


 



成人の日と云えば1月15日だったが、2000年から1月第2月曜日、つまり、その年の1月8日から14日までのうち月曜日に該当する日に変更された。


奈良時代以降の日本に於いて、おおよそ数え年で12 - 16歳の男子が、氏神の社前で大人の服に改め、「みずら」と呼ばれる子供の髪型を改めて大人の髪を結い、冠をつけた儀式「元服の儀」に由来すると思われるから、何時と云う決まりないのだろうが。


 


ともかく、11日(日)に新江ノ島水族館に行った。


水族館に行くのは久し振りで、大震災前の「アクアワールド茨城県大洗水族館」に行って以来のこと。


 




初めての「新江ノ島水族館」、見所は沢山あったが、有人潜水調査船「しんかい2000」はここでしか見られない。


海洋科学技術センター(現: 海洋研究開発機構)が所有運用していた有人潜水調査船。三菱重工神戸造船所で製作、1981年に完成して、2004年3月まで運用された実物。


深海の高圧に耐える船内のスペースは宇宙船とは比較にならない程に狭い。


開発当初は、江の島沖で潜水実験を繰り返し、日本全土に及び、大きな成果を上げた。


 


現在は6500mの深海まで潜水できる「しんかい6500」が運用され、生物よりは海底鉱物資源の調査:石油、天然ガス、マンガンノジュール、燐灰土、鉱床等の調査が主な任務となっている。


 


今年度の予算編成が進んでいる。


この様な科学技術の向上に対しては、大きな予算を計上すべきではと思った。




「里山-人と自然がつながる未来へ-」@水戸市立博物館

2014年11月09日 21時13分49秒 | 博物館

「里山-人と自然がつながる未来へ-」@水戸市立博物館

11月16日(日)迄

 

昨日訪れた「常陸秋そばフェスティバル里山フェア」の会場、常陸太田市の「ヤマブキ運動公園」の里山の紅葉が綺麗だった。

 

西の谷のイチョウやモミジも色づき始めた。

住まいに近い場所の紅葉は人と樹木の繋がりを感じる機会だ。

 

水戸市立博物館の「里山-人と自然がつながる未来へ-」が11月16日まで開催されている。

博物館は水戸市立中央図書館の2階と云う事もあって、覗く機会は多い。

展示室が2・3・4階に分かれていることや、展示空間の照明などに問題があるが、予算の都合で改善されないは、残念だ。

図書館と共有の建物と云うのも問題で、独立館として検討された時期も在ったが、立ち消えとなってしばらく経つ。

少子高齢化の時代の財政は難しいだろうが、大型の市民会館建設などに多額の費用が必要なのかと、疑問を感じる。

 

 

「里山-人と自然がつながる未来へ-」の会場は、

里山に生きる動植物を通して里山の森林保全の大切さを訴えている。

 

 

模型の展示であったが、管理の行き届かない里山は荒廃し災害を引き起こすようになる。その様な状況の場所を身近に見かける機会は多い。

 

 

筑波山麓(桜川市眞壁町)で1931年に開かれた「第1回植樹祭」が植樹祭の始まりのようだ。

 

 

間伐材や製材の端を利用した「木質ペレット」は、環境やエネルギーに効果が大きそうだ。

 

木質ペレットを利用したストーブも展示されていた。

暖房ばかりでなく、調理などにも使える利点がある。

余裕が有れば(スペースや購入費)使いたい。

 

この展覧会でふれてはいないが、茨城県は、県北地域や筑波山周辺などの森林や霞ヶ浦を始めとする湖沼・河川などの自然環境を、良好な状態で次世代に引き継ぐために、平成20年度から平成29年度までを課税期間とする「森林湖沼環境税」を導入され、県民1人が年間1000円を支払っている事実を認識している人は少ないようだ。

 

森林は全ての環境問題の原点。

多くの方たちが展示を観て、それぞれに感じてほしい。


多賀城の瓦 @東北歴史博物館

2014年11月06日 21時56分39秒 | 博物館

多賀城の瓦 @東北歴史博物館

 

 

平安朝の貴族や文人の奥州(みちのおく・陸奥)に対する憧れは現代人とは比較にならない程に強かったらしい。

「宮城野」「信夫」などの地名が歌人たちに歌い継がれて「歌枕」として独立したものになっていった。と云う様な事を司馬遼太郎の『街道をゆく』を読んでわかった。

芭蕉の『奥のほそみち』もそれらを辿る旅でもあった。

 

文学的なことより古瓦の名品である「山田寺の瓦」、に劣らぬ魅力をもつ「多賀城出土の瓦」は洗練されてはいないが、力強さを感じ、「多賀城」の地に対し漠然とした思いを抱いていた。

 

仙台市博物館で開催された「室生寺展」(7月4日から8月24日)を観た翌日、松島に行き帰途に塩釜経由で多賀城跡を訪れることが出来た。

 

多賀城は、神亀(じんき)元年(724年)、仙台平野を一望できる松島丘陵の先端に築かれ、規模は約900メートル四方におよび、ほぼ中央には重要な儀式を行う政庁があった。

陸奥国を治める国府として、また陸奥・出羽両国を統轄し、さらに、東北地方北部の「蝦夷(えみし)の地」を国内に取り込む役割も担った多賀城は、奈良時代には鎮守府も併せ置かれるなど、東北地方の政治・軍事の中心だった。

 

とは言え、奈良や京都の様に歴史的な場所が沢山有る訳ではない。

仙台の郊外と云う感じの地方都市の風景。

 

東北本線の「国府多賀城」駅は遺跡の端になるが、隣接して「東北歴史博物館」がある。

宮城県立の博物館だが、多賀城ばかりでなく、東北の歴史資料が展示されている。

昨今、どこも現物ばかりでなく複製資料も多い。

現品の重要性を考えれば、仕方ないとは思うが、品物に重さを感じることが出来ない。

 

 

お目当ての多賀城遺跡出土の瓦。

「宮城県多賀城跡調査研究所」の度重なる発掘調査などで、何期にも渡る建築や瓦の年代なども分かってきた。

これは、創生期に近いのでは。

 

距離的にも近い、陸奥国分寺・陸奥国分尼寺との関連性もあるようだ。

陸奥国分寺の瓦(仙台市博物館)かなり似てます。

 

●水戸に戻って調べて分かったが、発掘調査による研究報告『多賀城様式瓦の成立とその意義』(須田勉)には「台渡里遺跡長者山地区との関連」と題し、台渡里遺跡長者山地区の造営に携わった工人たちが多賀城に移ったのであろう。という推論が示されている。

水戸と多賀城が密接な関係にあったと云う事は、嬉しい発見だった。

 

 

多賀城南門付近にある高さ2mの石碑は日本三古碑の一であると云われる「多賀城碑」歌枕で有名な「壷碑」とも呼ばれている。

 

碑面 には、多賀城の位置、神亀元年(724)に多賀城が大野東人によって創建されたこと、762(天平宝字6)年に修復されたことなどが彫り込まれている。

 

●時間の関係で現物を見ることは叶わなかったが、複製が展示されている。

 

碑の拓本。

碑面の一部には「去常陸國界四百十二里」と刻されており、常陸の國との繋がりも強く感じられる。

 

多賀城廃寺跡

 

東北歴史博物館の後ろの丘に徒歩10分足らずの所に、多賀城と同じ時期に建てられ、塔・金堂・講堂・経蔵・鐘楼・僧坊などからなる寺院跡。

主要な建物配置が大宰府の付属寺院の観世音寺と同じで、これを手本にして建てられたと考えられている。

昨年、大宰府を訪ねた時を思い起こした。

 

*『奥のほそみち』には、多賀城:元禄二年五月八日)

 

かの画図(ゑづ)に任(まか)せてたどり行(ゆけ)ば、おくの細道の山際(やまぎは)に十符(とふ)の菅(すげ)有(あり)。今も年々十符(とふ)の菅菰(すがごも)を調(ととのへ)て国守(こくしゆ)に献(けん)ずと云(いへ)り。

 壺碑(つぼのいしぶみ)市川村多賀城に有(あり)。

 

むかしよりよみ置(おけ)る歌枕(うたまくら)、多(おほ)く語伝(かたりつた)ふといへども、山崩(くづれ)川流(ながら)て道改(あらた)まり、石は埋(うづもれ)て土にかくれ、木は老(おひ)て若木(わかき)にかはれば、時移り代(よ)変じて、其跡(そのあと)たしかならぬ事のみを、爰(ここ)に至りて疑(うたがひ)なき千歳(ちとせ)の記念(かたみ)、今眼前に古人の心を閲(けみ)す。行脚(あんぎや)の一徳(いつとく)存命(ぞんめい)の悦び、羇旅(きりよ)の労を忘れて泪(なみだ)も落つるばかり也(なり)。

 

古人の旅の心に比べ、我々の安易なる心を反省せざるを得ない。