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「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

 昭和ラプソディ 一杯の珈琲を飲みながら

2022年10月24日 19時45分20秒 | 博物館
 昭和ラプソディ 一杯の珈琲を飲みながら
@水戸市立博物館 4階・3階展示室
10月22日(土)~11月27日(日)


本年は令和4年・平成34年・昭和97年。
昭和も100年に近いから「大正ロマン」と同様「昭和レトロ」は懐かしさの代名詞となった。





懐かしい昭和の文物を観ることが出来る「昭和ラプソディ 一杯の珈琲を飲みながら」展が10月22日から11月27日まで水戸市立博物館で開催されている。
昨年に開催された「昭和浪漫・思い出の宝石箱」展が好評だったので、続編として企画されたのだろう。







日本が高度経済成長期を迎えた昭和30年代以降、水戸市民の生活も活気づいた。
特に呉服店、紳士・婦人の洋服、洋品、靴など服飾関連の店が賑わい、ファッション化社会の到来を感じさせた。
花嫁衣装も現代のようにレンタルでなく自前でそろえたから、大きな売り上げになった。





水戸市内にもスーパーマーケットが誕生するなど、人々が利用するお店も多様になり、多くの人がまちなかを行き交うようになった。
南町や泉町の商店街が、肩と肩がぶつかるほどの雑踏と混雑で、今の時代からは想像もつかないほどの賑わいであった。





それに伴い「喫茶店」も続々と誕生した。
友人同士や恋人達の待ち合わせを含め、文化的な存在となった。
今と違ってタバコが自由に喫える時代、テーブルには灰皿とマッチは必需品。
各店舗は競って店名入りのマッチを作った。
デザインやアイデアに凝った“マッチ箱”が沢山あり、コレクターも多かった。
残念ながら、カフェは増えたが「喫茶店」はほとんど消滅した。



商店のセールやイベントの告知のチラシやポスターなど。







各店舗はお得意様に盆と暮れにご挨拶を兼ね、名入りの手ぬぐいや団扇を配った。



3Fの会場では「追憶の水戸街中アルバム・下市物語」として大森多喜男氏の撮影による下市商店街の各店舗の写真が展示されている。



昨年の展覧会に際して制作された『昭和浪漫思い出の宝石箱』『追憶の水戸街なかアルバム』の2冊セットが好評で完売だった。
今展においても『昭和ラプソディ』『追憶の水戸街なかアルバム』(改訂版)『追憶の水戸街なかアルバム』《下市物語》の3冊セットが製作されかいじょうで販売されている。


朱舜水木像(しゅしゅんすいもくだ)@水戸徳川ミュージアム・水戸市見川

2022年09月30日 11時10分28秒 | 博物館
朱舜水木像(しゅしゅんすいもくだ)@水戸徳川ミュージアム・水戸市見川







「水戸徳川ミュージアム」の本館第1展示室の中央に朱舜水の木彫座像(高さ176㎝)が安置されている。
道服をつけ紗帽を被り、当時の中国の貴人の習わしで手の爪を細長く伸ばしている。現代日本も若い女性の爪美容が盛んだが、これほどまでに伸ばした人はいない、異様な長さだ。
髭、肌 のシミまで写実的に表現されており、その風貌がよく伝わってくる。

解説には木像(もくだ)とある。
光圀の命で描がかれた「舜水画像」をもとに五代藩主・良公(宗翰)の頃、長崎の名工・前田藤内 によって作られた木像。

朱舜水 (1600-1682) は中国の逝江省余姚出身。
明王朝が滅亡し、日本に亡命し 長崎に住むようになった古学・ 詩書に秀でた儒学者で 寛文5(1665)年 水戸徳川家 2代光圀に招かれ 江戸に迎えられた。
以後、17年間に渡り光圀の学問の師として、光圀に大陸の進んだ知識や情報を授けた。
水戸藩邸の庭園(現・小石川後楽園)は初代藩主・徳川頼房が作庭家・徳大寺左兵衛に命じて築いた庭園を二代光圀が改修し、朱舜水の選名によって「後楽園」と命名して完成させた。
中国の文人たちが好んで歌った西湖や廬山も採り入れた中国的、儒教的な趣好が濃厚である。
没後、常陸太田市瑞龍町の水戸徳川家墓所に葬られたが、徳川家一族以外唯一の人物とされる。

物語『水戸黄門』に登場する渥美格之進のモデルといわれる安積 澹泊(あさか たんぱく・通称は覚兵衛)は3年の短い間だったが朱舜水の門下生だった。
澹泊は江戸駒込邸(現・東大農学部の敷地)に建てた「朱舜水祠堂」が火災に遭ったまま復旧していないのを残念がり、再建を願い出た。
10年後に願いが叶い水戸の八幡小路、今の北見町に建てられた堂内に安置された。



朱舜水祠堂・絵図



祠堂守を学者一族の青山氏が務めたが、明治維新で退廃の憂き目にあい、常陸太田瑞龍山の水戸家墓所に移され、現在は水戸徳川ミュージアムへと安住の地を得た。

日本の仏像展 ―模刻・修復作品より― @常陽史料館(水戸市備前町)

2022年09月28日 18時02分20秒 | 博物館
日本の仏像展 ―模刻・修復作品より― @常陽史料館(水戸市備前町)
9月27日~11月13日






「日本の仏像展 ―模刻・修復作品より― 」9月27日~11月13日

「東京藝術大学大学院文化財保存学専攻保存修復彫刻研究室」の協力を得て、の日本の伝統的な木造彫刻の模刻・修復作品を紹介する稀な展覧会。
「模刻」と言っても、原寸大で現物と同様の彩色がなされているから素人目では見分けがつかない。







聖林寺十一面観音菩薩立像(模刻)
模刻とはいえ、国宝を目の当たりできる。



東京国立博物館日光菩薩像(模刻)



東京藝術大学月光菩薩像(模刻)



木造阿弥陀如来坐像(平安時代)



東大寺中性院弥勒菩薩立像(模刻)



平成25年に同研究室で修復を行った「神崎寺木造不動明王立像」(ケヤキ・平安時代)拝見は出来るが写真は不可なのでチラシを複写。



「東京藝術大学大学院文化財保存学専攻保存修復彫刻研究室・年報」や東大寺中性院弥勒菩薩立像(縮尺構造模型)、などの資料も展示されている。



常陽芸文学苑制作の2020年開催「常陸太田市文化財曝涼」、2021年開催「笠間市文化財曝涼」のVTRの放映もされており、県内の仏像についてより広く知ることが出来る。
*2022年の「常陸太田市文化財曝涼」は10月15日(土)・16日(日)
10時から15時まで(一部の公開場所は16時まで)

*関連講座として後藤道雄(茨城大学五浦美術文化研究所客員所員)氏による講座が開催される。
1「神崎寺の木造不動明王立像について」
日時:2022年10月16日㈰ 13:30~14:30
2「聖林寺十一面観音菩薩立像の光背について」
日時:2022年11月3日㈭ 13:30~14:30
(事前の申し込みが必要)

彫刻家・木内克のまなざし展@水戸市立博物館

2022年07月28日 14時24分22秒 | 博物館
彫刻家・木内克のまなざし展@水戸市立博物館
7月23日(土)~8月28日(日)





水戸出身の彫刻家・木内克(1892―1977)の展覧会。
館所蔵の木内克のテラコッタ(粘土の素焼き)やブロンズを中心に幅広く展示。





「夏休み子供ミュージアム いのちのかたち」と副題がるが、大人子供に関係なしに楽しめる展示だ。

人体や猫などの姿が生き生きと表現された作品群を4F・3Fの二つの会場に展示。







特に猫が大好きで、テラコッタやブロンズで繰り返し制作している。





モデルの松平須美子の大胆で奔放なポーズによる作品は圧巻。
木内作品において、松平の専属モデルとして存在は大きい。



アマゾーヌ(ギリシャ神話に登場する女性だけの部族)をテーマとした作品も多い。



制作の様子を撮影した、何本かのVTRも上映されている。







3階の第2会場には1974年9月(昭和49年・82歳)第49回茨城国体モニュメントとして笠松運動公園建立された「女神像」の制作過程、コロナ像・マリア像など大作に取り組んだ様子が紹介されている。



制作にかかる前に、鼻歌交じりに数十点の小品を手びねりやデッサンを描くなど、80歳を過ぎても制作の意欲は旺盛だった。


「宗敬・幹子の見た20世紀の海外」@一橋徳川家記念室

2022年02月22日 18時49分50秒 | 博物館
「宗敬・幹子の見た20世紀の海外」@一橋徳川家記念室
2022年1月29日(土)~3月13日(日)










明治~大正~昭和20年代頃まで海外に赴くことが出来たのは、ほんの一握りの
人々だけだった。
一橋徳川家第12代当主の徳川宗敬と、妻の幹子は、大正・昭和初期の頃から海外に赴いた。当時の日本人としては稀有な体験で、見聞を広め見識を新たにし、さらに、対外的には世界における日本の立場の構築にも、大きく寄与した。
宗敬自身が撮影した写真、あるいは幹子が海外にて入手した品々を通じて、宗敬・幹子夫妻がみた、激動の20世紀前半の海外事情を紹介する。





ライプチヒ、ミラノ、ベルリン、ロンドンなどでの写真など。







サンフランシスコ講和会議・条約。
1951年9月に第二次世界大戦・太平洋戦争後に関連して連合国諸国と日本との間で講和会議が開かれ平和条約が締結された。



第4回世界農村婦人協議会大会でのスピーチ(1959年・スコットランド)

徳川 宗敬(とくがわ むねよし・1897(明治30)年 - 1989(平成元)年
水戸徳川家第12代当主・徳川篤敬の次男として生まれ、一橋徳川家の養子となった。大正9年に江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の孫に当たる幹子と結婚した。
東大農学部林学科を卒業した宗敬は、幹子を連れて欧州へ留学する。
2人は2年半の洋行で先進国の文化に触れる一方、第一次世界大戦の敗戦国となったドイツやオーストリアでは地位や財産を失った貴族の没落ぶりも目の当たりにした。
第二次世界大戦後、最後の貴族院副議長となった宗敬は、昭和26年のサンフランシスコ講和会議の全権委員、伊勢神宮大宮司などを務める。
全国の植林運動にも尽力し、「緑化の父」とたたえられた。

幹子は21年に現在の水戸市見川付近の開拓地に一農民として入植し酪農に従事する。全国開拓者連盟婦人部の初代部長を務め、46年には茨城県婦人会館を設立して初代理事長に就くなど、水戸・茨城の女性の地位の向上のため大きな力となった。

余禄
講和会議はサンフランシスコのオペラハウス(ウォーメモリアル・オペラ・ハウス)で1951年に開催された。これに依って主権を回復した記念日だから、子供心にも忘れられない。
1991年に初めてサンフランシスコに行き、オペラハウス記念館を訪ねた時、この場所だったのか!と感慨もひとしおだった。

華麗なる明治-宮廷文化のエッセンス-@茨城県立歴史館

2022年02月21日 22時13分39秒 | 博物館
華麗なる明治-宮廷文化のエッセンス-@茨城県立歴史館
2022年2月19日(土)~4月10日(日)








「降る雪や明治は遠くなりにけり」と中村草田男が詠んだのは昭和6(1931)年、今を去ること89年前のことだが、今年(2022年)は明治 155 年 にあたる。
「現代」の礎が築かれた時代で、生活に欧米諸国の文化が浸透し、衣食住の洋風化が進んだ。今展は明治時代の皇室の活動を中心に、宮廷を彩った華やかな文化、皇室に近侍した人々、本県各地への行幸啓などについて紹介している。



明治天皇と昭憲皇太后



明治美術の煌めき



正餐用食器・銀器 有栖川宮家所用





本県に関連した美術工芸家など。
彫金家・海野勝珉、洋画家・二世五姓田芳柳。



大礼服・昭憲皇太后着用







皇室を支えた茨城県ゆかりの宮廷人として、皇后側近の第一人者である香川敬三(現・常陸大宮市出身)と、皇后のスタイリストを務めた娘の志保子の事跡についてもふれている。



本県各地への行幸啓





小梅徳川邸行幸

「水戸徳川家名宝展-魁」@徳川ミュージアム

2022年01月14日 17時30分12秒 | 博物館
「水戸徳川家名宝展-魁」@徳川ミュージアム
2022年1月4日(火)より展示品が入れ替え。






徳川斉昭(烈公)お手植えの「烈公梅」

新型コロナウイルスの世界的な感染が始まって約2年、収束の気配もなくオミクロン株が猛威を振るいだした。
更に、今年の冬は例年以上に寒い日々が続いている。
この様な状況の下だが2月11日から「水戸の梅まつり」が始まる。

本年は偕楽園開園180年記念した、第126回の「梅まつり」となる。
咲き初めるのはまだ先と言わず「探梅」という言葉もあるように、一輪の花を探すところに良さがある。
祭りの喧騒に先駆け、梅花を楽しみたい。



「偕楽園」や「弘道館公園」が見どころの代表だが、偕楽園お近くの「徳川ミュージアム」は穴場の観光スポットだ。
水戸市内在住の方でも訪れたことがない方もいるようだ。
水戸徳川家伝来の什宝約3万点に加え、彰考館史料を展示しているが、1月4日から展示内容が変わった。



鎌倉時代中期の刀工「光忠」作の太刀



同じく「光忠」作の「燭台切・光忠」もオンラインゲームで有名になった。



徳川 慶喜(1837年- 1913年)江戸幕府第15代征夷大将軍・7歳の書。



家康より拝領の具足、甲冑鎧などの武具。



光圀の書幅



中村彝(1887 - 1924年)の自画像
明治の終わりに彗星のように画壇に現れ、大正期にかけて活躍し、37 歳で夭折した、近代日本を代表する洋画家。
右上は堀進二作「中村彝君像」(1967)



展示室は1~3室。
回廊を繋ぐ壁面に多数のパネルが展示されている。
係累図や古地図など多岐にわたるが、子細に読み解くと納得できることが多い。

しかしながら、展示物品に対する説明文が少ないと感じた。
「物に対峙して無心に眺めること」が大切なことと承知しているが、より詳しい解説が有るに越したことはない。

「一橋徳川家のダンディズム」展@茨城県立歴史館・一橋徳川家記念室

2021年12月22日 10時50分57秒 | 博物館
「一橋徳川家のダンディズム」展@茨城県立歴史館・一橋徳川家記念室
11月27日(土)~2022年1月10日






一橋徳川家は、田安・清水両家と共に「御三卿」と言われ、御三家と並び称される格式を持ち、将軍家と最も近しい関係にあった。
「ダンディズム」とは18世紀末のイギリスで誕生し、複雑な変化を遂げてきた概念だ。欧米化に伴い日本の男達にとっても服装や振る舞いが洗練されている「ダンディーなスタイル」は憧れでもある。
《一橋徳川家コレクション=ダンディ》と結び付けた意図に若干の疑問が在るが、企画者はダンディを「俗世間に流されない、洗練されたこだわりをもつ人びと」と捉えたという。

一橋徳川家伝来の装身具、武具、調度品から、日本風ダンディズムの在り方を探る展観。

















《一橋徳川家伝来の装身具・武具・調度品から、日本風ダンディズムの在り方を探る》などと言わなくとも将軍家に準じた格式の品々は十二分に見ごたえがある。

ふぇいす-掘り出された顔かたち- @茨城県立歴史館

2021年10月06日 18時24分04秒 | 博物館
ふぇいす-掘り出された顔かたち- @茨城県立歴史館
2021年10月2日(土)~11月23日(火・祝)






縄文時代の土偶・弥生時代の顔のある壺・古墳時代の人物埴輪など、古(いにしえ)から人々は顔のついた土器や人形などを作ってきた。
発掘調査などによって出土した品々は、考古学の資料として当時を知る手掛かりだが《原始美術》として美術の領域でも評価が高くなっている。
今回は、茨城県内で発掘された品から「顔」(ふぇいす)に焦点を当てたユニークな展覧会だ。
骨董・古美術の世界に魅了されてから約50年、入門当初から土偶や埴輪の美しさが魅せられてきた。従って今回の展覧会はとても嬉しい。
展示品の幾つかは旧蔵者の自宅で拝見したものもあり、懐かしさも感じた。

第1章 縄文の顔
 




第2章 弥生の顔  







第3章 古墳の顔  









第4章 古代の顔



(人面墨書土器)



(磚仏)

番外編



縄文時代の土偶の逸品を所持していたことが有る。
砲弾型のオッパイを有する土偶(那珂市木の倉出土)は縄文時代の逞しい女性像。
愛好家が大切に眺め楽しんでいることだろう。
手放す前にポラロイドで撮影した写真で、明瞭でないのが残念。



埴輪(武人) 高さ23.8㎝ (那賀郡静村出土・Y氏旧蔵)
日本で一番、とも言える東海村の埴輪窯で作られた。


徳川ミュージアム(其の1)@水戸市見川1丁目

2021年09月30日 04時55分21秒 | 博物館
徳川ミュージアム(其の1)@水戸市見川1丁目



徳川家康公の遺品(駿府御分物-すんぷおわけもの-)を中心に家康公の子である初代頼房公、2代光圀公ら歴代藩主や、その家族の遺愛の什宝・書籍など約3万点の歴史的資料を整理保存し一般公開している「公益財団法人・徳川ミュージアム」は大日本史編さんの史局「彰考館」の事業を受け継ぎ、13代当主徳川圀順が寄贈して設立した(旧 財団法人水府明徳会)として、昭和52年(1977)に開館した。



「高枕亭跡」碑
この辺りは寛文5年(1665)に光圀が別邸を設け「高枕亭」名付けた。
亭をめぐる松林は君子林と名づけられ、鶴や鹿が姿を見せることもあったと言われるほどに自然が豊かであったらしい。





本館と新館を繋ぐ回廊に沿って3部屋の展示室が在る。



前庭には芝生がひろがる。
ベンチには家康と水戸黄門が座し、ツーショットの写真撮影も出来る。



開館当時のプレートは時代を感じる趣がある。



旧大手橋の擬宝珠はかなり大きい。
現在より大きな橋が架かっていたのだろう。



烈公揮毫の「尊攘」の書と「弘道館記」の拓本。



朱舜水の木像
朱舜水(1600-1682)は、中国・明の高名な儒学者。
明朝滅亡のため日本に亡命し、長崎に住むようになったが、寛文5年(1665)光圀に招かれて江戸に迎えられる。
以後17年間、光圀の学問上の師となり、光圀に大陸の進んだ知識や情報を授けた。
水戸藩上屋敷の庭園・後楽園(現在の小石川後楽園)の改築なども手がけた。
貴人の習わしである長く伸ばした爪や手入れのゆき届いた髭、肌のシミまで写実的に表現されている。

絵図・地図・アーカイブ図-描かれた茨城の都市と村-

2021年07月18日 19時36分50秒 | 博物館
絵図・地図・アーカイブ図-描かれた茨城の都市と村-
@茨城県立歴史館
2021年7月15日(木)~9月5日(日)








江戸から明治期にかけて描かれた県内の絵図や地図(原本や複製など66点)を集めた企画展「絵図・地図・アーカイブ図−描かれた茨城の都市と村−」が15日から水戸市緑町の県立歴史館で始まった。

絵図とは、江戸以前に作られた地図類の総称で、西欧の測量技術が流入した明治以降の正確な地図に対し、絵画的要素を含むのが絵図の特徴。









茨城県域では間宮林蔵、長久保赤水、飯塚伊賀七といった地理学者や測量家が活躍した。
当時の測量は全てが足で歩き、縄を使っての手仕事。





城下絵図
水戸、笠間、古河、下館などの絵図も展示されている。

水戸城下絵図・正保元年(1644)原寸2500×4190 国立公文書館







水戸城下絵図・正保元年はネットでも見られるがこの複製図では鮮明に見ることが出来た。







「水戸市鳥観図」昭和初期 540×2370 歴史館蔵
絵師・吉田初三郎作製と考えられる鳥観図。
戦前の水戸が柔らかいタッチで詳細に描かれてある。ネットでは観たことあるが現物は初めて。

一度に全部は見きれない、会期中に再訪の予定。

夏休み子どもミュージアム 妖怪参上!@水戸市立博物館

2021年07月02日 21時49分06秒 | 博物館
夏休み子どもミュージアム 妖怪参上!@水戸市立博物館
7月21日(水)~8月26日(木)




この夏、水戸市立博物館にたくさんの妖怪が大集結!
古道具の妖怪「つくも神」
旧暦7月1日は那珂川に住んでいた河童たちが大杉山の坂を上がって水戸城に参上する日で「河童の御登城日」と呼ばれていた。
江戸時代後期、鹿島灘の海岸に不思議な物体が流れ着いた。
円形で上部には3個のガラス窓が付いていたと言われ「うつろ船」と呼ばれた。
等々、妖怪とその仲間たちが大勢展示室に登場するらしい。



関連イベントが多数用意されており入場は無料(事前の申し込みが必要)。

○森の妖怪出現![7月24日(土)、8月22日(日)]
○ゴム銃で妖怪をねらえ![7月25日(日)、8月7日(土)]
○仰天!!天狗になった少年寅吉のお話とアニメーション[7月31日(土)、8月14日(土)]
○貝殻水族館[8月1日(日)、8月21日(土)]
○ワッショイ!夏の妖怪まつりだよ![8月8日(日)]
その他のイベントやワークショップもある。

*子供向けの企画展だが、民話や妖怪話には生活に役立つ知恵が含まれている。

佐竹義宣と武将たち「中世佐竹氏の世界-千秋文庫所蔵文書から-」@茨城県立歴史館

2021年05月03日 11時45分36秒 | 博物館
佐竹義宣と武将たち「中世佐竹氏の世界-千秋文庫所蔵文書から-」@茨城県立歴史館
4月29日~6月13日








佐竹氏は平安時代後期から常陸国久慈郡佐竹郷(現在の茨城県常陸太田市稲木町周辺・旧佐竹村)を本拠とし、室町時代以来から常陸守護の家柄であった。
第19代当主の佐竹義宣は関ヶ原の戦いにおける挙動を咎められて秋田へ移封され、秋田藩初代藩主となった。
従って、佐竹=秋田と思いうかべるだろうが、発祥の地・常陸においては、今もって「佐竹は常陸」で「五本骨扇に月丸」の佐竹の家紋を掲げる神社・仏閣が多く、愛着が根付いている。




今回の展覧会は、佐竹氏に伝わった史料を収蔵・展示する「千秋文庫」のなかで、東京大学史料編纂所が近年に修理した「佐竹義宣に関連する古文書」等を中心に展観している。


*千秋文庫(東京都千代田区九段南2-1―32)
佐竹宗家に伝わった古文書・古記録・模写絵・古地図・古戦場絵図・城絵図・維新開国資料などの他、藩主所用の花押・印章類など約2300点が収蔵する。
佐竹家34代・佐竹義春の家令職を勤めた小林昌治氏は、当主より譲渡された資料を空襲の危機や戦後の混乱を乗り越え守り続けた。
後世に伝えようとの念で昭和56年(1981)に千秋文庫を設立した。




佐竹義宣の生涯
常陸・佐竹氏19代義宣は元亀元年(1570)佐竹郷に生まれた。
天正17年(1589)に父義重より家督を相続し、石田三成を介して豊臣秀吉との絆を強め、常陸国全域の支配を認められる。
天正18年(1590)江戸氏の水戸城を攻め落とし、府中(後の石岡)の大掾氏を滅亡させ、拠点を水戸に移した。
文禄3年(1594)の太閤検地に際し54万5800石の知行を安堵された。
秀吉没後の関ケ原の合戦《慶長5年(1600)》では、表面上は中立の立場を取ったが、その態度を良しとしない家康により、慶長7年(1602)5月秋田に移封を命じられた。同年7月に現地に赴くと、翌年から久保田城と城下の整備にかかる。家臣団も新進気鋭の者たちを要職に要職を任せるなど再編成。
検地や新田開発に取り組む一方、林業、鉱業も興すなど諸産業を育成に励む。
寛永10年、江戸において病没した。享年64歳。

天下統一の激変期から太平の世を迎え頃、義宣と武将の交流を書状などを通してうかがえる。



豊臣秀吉朱印状




豊臣秀頼黒印状/石田三成書状




徳川家康書状




徳川家光御内書/伊達政宗書状




黒田長政書状/藤堂高虎書状

(⁂何れも自筆で義宣宛)

御内書/将軍(大御所)が国持ち大名クラスに出す私信で、高級和紙である檀紙(大判)をもちいる。原則として書き止めが「候也」
朱印状/印判状(花押を用いない文書)のうち、朱印を押捺したもの。書き止めが「候也」となるなど、上意下達、かつ権威的である。
黒印状/印判状(花押を用いない文書)のうち、黒印を押捺したもの。書き止めを「謹言」とする場合もあり、上意下達だが、朱印状より権威的ではないとされる。
書 状/身分的にはほぼ同格の者同士で交わされた私信。書き止めは「「恐惶謹言」「恐々謹言」。


本展は文書が主体の地味な展覧会で、文書類を読解するのは難しいが、添えられた読み下し文で歴史上の人物に接することが出来るのは素晴らしいことだ。

江戸時代までは文書による情報の伝達こそが唯一の生命線。
インターネットで世界中と簡単に交流が可能な現代とは大違いであることを改めて考えるいい機会だ。



鋼と色金-茨城の刀剣と刀装- @茨城県立歴史館

2021年02月24日 00時49分16秒 | 博物館
鋼と色金-茨城の刀剣と刀装- @茨城県立歴史館
2021年2月20日(土)~4月11日(日)







「鋼」とは鉄と炭素を主とする合金で、語源は「刃金」、文字通り刃物の原料。
「色金」は馴染みのない言葉だが赤銅や真鍮など多種の金属の総称。金属ながら
深い黒色や黄土色、朱色など多彩な色合いを呈する。
中世以降に色金の利用が活発化して、日本の金属工芸における色彩表現の幅が大きく広がった。

刀剣と刀装の歴史は、古くは大和(奈良)、山城(京都)、備前(岡山)相模(神奈川)、美濃(岐阜)周辺が名産地で、近世以降は江戸・大坂なども有名になった。
近世以降、これら以外の茨城も優れた刀工・金工師が活躍する。









今回の企画展では国宝の鹿島神宮の直刀(奈良~平安時代)をはじめ、大正時代までに作られた216点の刀剣・刀装・刀装具を展示。





一橋徳川家記念室では「一橋徳川家の名品Ⅳ」として、同家に伝来した刀剣類を、その伝来とともに展示している。


骨董・古美術の世界に足を踏み入れて約50年。
入門時は土器や陶器や民芸品だったが、後に仏教美術などにも関心が広まった。
奈良や京都に通い、更には中国やアジアにも目が行くようになった。
歴史にも興味を持つようになって、多くを知りえたことは生涯の宝とも言える。

水戸の金工師がかなりの水準であったのを聞いてはいたが刀剣・刀装・刀装具などには縁がなかった。
今回は作刀や金工の歴史を知り、茨城県にゆかりのある刀剣類を見ることが出来、勉強の種がまた一つ増えた。



-縄文の美と技、成熟する社会-@茨城県立歴史館

2020年10月23日 11時57分26秒 | 博物館
-縄文の美と技、成熟する社会-@茨城県立歴史館
10月10日(土)~11月29日(日)






草創期は1万年以上前で、世界でも最古の文化とも言われる「縄文時代」。
近年の研究では、縄文社会は狩猟・採集の生活を基盤としながらも自然資源を巧みに利用し広域のネットワークを有し、豊かな精神文化を持つ社会であることが分かってきた。





●縄文時代は、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に分けられる。
草創期(約1万6,000 - 1万2,000年前)、早期(約1万2,000 - 7,000年前)、前期(約7,000 - 5,500年前)、中期(約5,500 - 4,500年前)、後期(約4,500 - 3,300年前)、晩期(約3,300 - 2,800年前)となる。
*約6000年前には海面が現在より4m〜5m高く、縄文海進と呼ばれる。

茨城県内のほか、関東地方やその周辺の遺跡から出土した土器や土偶や装身具。
国宝の火焔土器や重要文化財も含まれているのは凄いことだ。
美しい造形で技術的にも卓越した優品150点余りが展示されている。

第1章「造形美と匠の技」





新潟・山梨・群馬などから出土した火焔型土器、水煙型土器、王冠型土器。
国宝2件、重文10件、を含む。
県内出土の「阿玉台式土器・加曾利E式土器」
美浦村「陸平貝塚」出土土器。
何れも縄文時代中期の優品。



装身具も多く展示されている。
土製の耳飾り、耳環など精緻の極み。

今回の展示品は考古学の資料展示と言うより、美術品としての価値の高い品が各地から集められた。
久し振りに充実感の在る展示だった。

第2章「豊かな精神文化」

土偶や石棒や石剣・石刀。
用途がはっきりとは解明されてはいないが,何れにしても祭祀に使われたのであろう。



県内最大の石棒。



ハート形土偶・みみずく土偶・遮光器土偶など多岐に渡る。

第3章「広がるネットワーク」
硬玉製大珠・ヒスイ原石・運ばれてきた新潟の土器・黒曜石など。
特定された原産地からはるばると運ばれたものも多い。
広域のネットワークがすでに出来上がっていた証拠と考える時、農耕・牧畜の定住生活が継続して営まれていたのだ。



第4章「特化されるモノ作り」
土器・漁具など、特化したモノ作りが行われていた。

第5章「縄文文化の到達点」
単なる実用品のみならず祭祀を含めた精神文化や、美的感性は「原始時代」という感じよりかなり現代人と共通するものを感じた。

縄文の土器の美しさには以前から興味を持っていたが、縄文人の豊かな感性と生活を見直す良い展覧会だ。
会期中に再度足を運びたいと思っている。