怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

体育に関連して「感覚作りと技能」

2007-05-18 18:06:41 | 教育
「前転ができないんですよ。」
そういう話だった。
4年生である。

どういうことなのか聞いた。
「手がうまくつけない。支持ができない。だから頭をついてしまう。」
そういうことだった。

なるほど。ではどういう指導をしてみたのか?

「傾斜を作って転がしてみた。」

なるほど。そういう前転の常道的指導はある。
けれど、着手の常道かな?そう疑問に思った。
それは転がる勢いがない子への補助だろう・・・。
(基本的に体勢を崩す補助だと思うので、私はあまりしない。)

手をつくのは、体を支持する体制になったからするのだと思う。
それは感覚的なものだ。

屈曲して体を前に倒していくと自然に手を伸ばして支えることになるはずだ。

そこに前方への力が加わり、同時にへそを見るように首を曲げれば自然と後頭部位から落ちる。
そのまま足を投げ出せば、立てなくても前転の形にはなる。

もし前転に近づけるのならば、足を投げ出すと同時に縮め、抱え込む。
すると足の裏が体の回転後につくので、手でバランスをとって立てばよい。

「いや、手がつくと同時に曲がってしまったり、後方へ離れてしまうのだ。」という。

見てみないと正確にはわからない状況だが、着手して支持していないのだから、そういった感覚を身に着けることが大事ではないのだろうか?
たとえば「カエル倒立」「カエルの足打ち」「手押し車」、あるいは跳び箱型の運動をしてもいい。
そうアドバイスをした。

感覚作りから技能習得へつなげる指導の方針の一つだ。
(正直、それだけで自然にできるものではないと思うが・・・。)

で、ふと思い直した。
あれ?4年生だよなぁ。

今まで体育で何をやってきたのだろう?

別に「前転」ができなくても生きるのに困らない。
けれど体の調整能力的には感覚の発達が劣っているといわざるを得ないのだろうか?
いや、人間、体育なんぞの力をそういうものだけで判断はできないよ、というものなのだろうか?
それとも、そもそもこういう観点が間違っているのだろうか?

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