怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

傾く冬の大三角

2007-03-13 23:14:08 | 戯言
中学生か高校生ぐらいだっただろうか、星にはまった時期がある。

星のガイド本と双眼鏡、そしてビニールシート。
冷たい地べたに寝転がって星の観望。

双眼鏡を三脚に固定する器具を購入して、アンドロメダ星雲、ガリレオ衛星などをよく観たものだ。

夏の流星雨の時期は蚊取り線香を側において、蚊に刺されながら眺めた事もある。

冬は夜道でにぎやかな空を見上げて歩き、電柱にぶつかったり、側溝に足を踏み入れてしまったりしたものだ。

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受験時期、眠れぬ夜を過ごして夜明け前に見た星は冬のレグルス。

実は春は夜空をちゃんと見ていないことを知った。

時期なのだろうな。

西に傾くオリオン。
その後方を上手にたどるときには、きっとレグルスを探すことができるに違いない。
獅子座は私の傍らにある星座の一つ。

勝手に星座を作ったものがいるのだから、勝手に運命を感じることができそうだ。

ありがとう

2007-03-13 20:34:33 | 教育
うちのクラスの子ども達は、
「ありがとう」
という言葉が好きなのだそうだ。

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相手がいないと言えないし、言っても言われても「いい感触」をもった言葉だと思う。

人間関係のぬくもりを感じる。

なぜ私が教師なのか

2007-03-13 20:31:10 | 教育
そんなものに答えはない。

また、なんで「先生」になったのかという問いも、あまりかわらなく聞こえる。

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私は私であると言うしかない。

何らかの「先生」という形を決めて、そこにはまっていくのは変だ。

あえていうなら「教育に興味があり、実践の立場にいる者」だろう。

「先生」というのは、周りの人がそう呼ぶためにあるのかもしれない。

スーホの白い馬その6

2007-03-13 20:13:07 | 教育
死の場面。
そしてそこから生まれた悲しみと苦しみ。
さらにそこから再起するために必要な死の受容。

ここにもって来るまでの前フリは、
A「スーホと白馬の絆」
B「生き生きとした二人(片方は馬だが)の活躍」
C「とのさまとの対比によるスーホの純粋な気持ちのクローズアップ」
D「白馬から引きはがされたスーホの断腸の想い」
E「如何に傷つこうと、走り、生きて再び会いたいと願う白馬の気持ち」
F「死が目前であるのに、痛みを除こうとして身を切られる想いで矢を抜くスーホの気持ち」
G「一晩の死の見取り」

A、BがDやEを生み、それが子どもたちの感情の背景となってFの痛みのリアルを伝える。
「痛み」を想像して、涙を浮かべる者、顔をあげられなくなる者、少し静まり返るクラス。

Gの時間の長さが、「心の痛み」の長さ、つらさに通じてよく分かるようだ。

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死別は「つらい」状況を想像させる。
その後「幾晩か寝ないスーホ」の「かなしさやくやしさ」は、死の継続であるし、大きなショックを表している。
その時間と対比する感情を考えさせる。

大切なものの「死」を「楽器」に向けて、「白馬」(の記憶)を一生背負うことで「生きる」ことを決心するスーホまであと少し。

立ち話

2007-03-13 07:19:21 | 教育
保護者の方と立ち話。
終わらないところ見ると、案外話したいという気持ちがあって話してくれているのだろう。
ありがたいと思うし、私もだんだん信頼して、こちらの事情も含めていろいろ話をふりたくなってくる。

保護者の方は気づいていないかもしれないけれど、私のような教員は少々話が助長気味でも全然かまわない。

職員室に戻って来ると、
「親がさぁ・・・。」
なんていいわけめく人は、実は多くない気がする。
(本当に多くの人をさばいている副校長くらいになると、仕方ないかなという時はある。それでも、そんなことはない気がsする。)

人相手の仕事だから、相手の気持ちがわかることは「いい情報」として受け止められていると思う。
クレーマーでさえ、(あまりひどくなければ)ちゃんと話題にのぼり、どうするのがいいのかが確認されたりする。

こちらも複数の人間の集団だから、共通理解がないとやっていられないからかもしれない。

ただ、話しにくいだろうなという話題もある。

どうしたって「学校」というのは「縛り」もあるし、「不合理」もある。
そういったことについて、そういう「仕方がない」とわかったいることを積極的に話題にしては教員に対して失礼ではないかというのも保護者側の想いにあるのではないだろうか。

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例えば、「少人数習熟度別」について、
「それは嫌なんです。」
と、吐露してくれるまでに時間がかかった方がいた。

我々が事務的に進めるような風潮になったころ、それでも児童は毎年入れ替わり、保護者と児童は今ある物を受け入れざるを得ない立場として学校に通って来る。

そんな想いを知ると悲しくなるが、ついでに、
「それは先生に言っても仕方がないことなのは知っています。」
と、付け加えられてしまうと返す言葉を失ってしまう。

おっしゃるようなデメリットもあるかもしれませんが、「少人数習熟度別」はこういうメリットがありますよ・・・なんて心にもないお役所的な説明をしてなんになるだろうか。

果ては「お子さんの姿をごらんください。」なんて説明は、子どもにそういう事態を強いている裏返しでしかなかったりする。

実は、教員も保護者も教育に関して手が届かないものがあることを知っているのかもしれない。

教育を保護者・地域と共同で進めるなんていうのは画餅なのかもしれない。

愚痴っぽくなったが、そんな想いを少し共有できた「立ち話」があった。
(それだけではあるのだが・・・。)