怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

秋山仁

2007-03-11 15:13:01 | 戯言
立花隆ゼミのインタビュー集を読んでいたら、秋山仁のものも出てきた。

この人には予備校時代に出会っている。
熱心な信者に連れられて講師室にまでおしかけたことがある。
(ちなみに私は駿台予備校は竹ちゃんの単科と土師さんの夏期講習しかとったことがなく、完全なモグリだった。)

そこで威圧感のある秋山仁に第一声言われて驚いたのが、
「お前、中国の大学に行かないか?」
だった。

この人は徹底的にアウトローな生き方をしてきたように感じ、若いのだからそんな生き方もアリかな、と本気でパスポートをとったことがある。

いろいろあって、そんなことはポシャったのだが、噂ではそんな勢いで外国へ旅立った若者がいるとのことだった。
これは噂の域をでないものだったが、とても真実味を共感をもって覚えたものだ。

この人から勝手に学んだ事は多い。
(大学受験的には多くないが・・・。)

若いうちは自分流でいいから正論を通して熱が出て倒れるまでやってみる。
行き詰まったら規制の枠組みの外から自分を眺める。

どちらもかなり力づくでしんどい話なのだが、ネガティブな発想からなんとか立ち上がるという理屈には弱い立場の自分を奮い立たせるもの充分あった。

若い頃アクティブでいられたのはもしかしたらそんな出会いのおかげだったかもしれない。

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この間初めて細木かずこの出ている番組を見た。
「言うわよ!」
ってのは本当に言っている台詞だったので、なぜか驚いた。
こんないい加減なやらせ番組が人気なのは理解できなかったが、一つだけ彼女から気になるアドバイスが出た。

「レベルが上の人と金を払ってでもひと月に一回話す機会をもちなさい。」

そうかもしれない。
そう思うと同時に、それは構造化されたものではないから、行き当たりばったりなので、吉とでるか凶とでるかはやはり運次第ということになる。

努力のように見えても運であるからこういう人が流行るのかもしれない。
そう漠然と感じた。

ただ、出会いというのはタイミングなのだ。
それに早い遅いをいうのは、そのときにはわからないということ。

出会いを昇華(消化?)してなお残る物があるといいなと思う。
そういう意味では、そういうことを感じる季節なのかもしれない。

ドリルの簡単な理屈

2007-03-11 10:55:19 | 教育
達成可能な目標を設定し、達成するために効果的なのがドリル。

達成可能であるかないかの設定評価が必要。

例えば算数のドリル学習を貫徹できる(た)ことは算数ができるようになることには繋がらない。
「算数ができる(ようになる)」という目標設定はドリル学習ではあり得ないからだ。

また、文字の意味を知らなくても機械的にできるのがドリル。

終える事は少々の喜びを生むかも知れないが、それはそこまでの話。
ドリル学習で学習障害などをかかえる人の学習の定着がはかれないのは、その学習に先への意味付けを感じ取れないからかもしれない。
(それはそれで鈍いようで鋭い指摘をしている気がする。)

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例えば漢字ドリルなどは野球でいう「素振り」のようなもの。
そこに精神の全てを集中しても、実際にゲームで球が打てる訳ではない。

では、バッティングセンターのようなドリル学習を設定すれば・・・?

いや、打ち方は身に付いてもゲームでできるとは限らない。

では、実践練習?

いや、「学ぶ」意欲と方法が分かっていなければ先は暗い。

ゲームだけに臨めばいいのか?

そこから学ぶものを生かす練習を考え、実行しなければ上手にはなれないだろう。

だから、そんな時の道筋を示してやる事を、私は考えたい。