『そぞろ歩き韓国』から『四季折々』に 

東京近郊を散歩した折々の写真とたまに俳句。

翻訳 宇宙の橋を渡って9

2011-11-10 18:59:37 | 翻訳

 

1級正教師資格研修を真面目に受ければ教頭校長への昇進が速くなるという話を数えきれないほど聞きながらも僕の心はその時既に別の時空をさまよっていた。今、何か選択しなければならない、今、選択しなければ永遠に1級正教師として生きなければならないという内面の強迫観念が津波のように襲ってきて、結局資格研修を1週間残して、学校に休職届を提出してしまった。なぜそんな無茶をしたのか、誰かがたずねたとしてもそれに対して理性的に説明をする自信がない。そのままそれをするよりほかに仕方がないことが世の中には多少あるのだ。<o:p></o:p>

 

その時僕は29歳でどこへでも人生のさいころを投げざるを得なかったから。<o:p></o:p>

 

 学校を休職して1年間京義線の列車が通る線路沿いの白馬という田舎の村で小説を書いた。そして1年間書いた小説を文芸誌に応募して学校に復職した。その時の気持ちは本当に惨めでひどく追いつめられていた。形式的な手続きで復職はしたけれど、その時既に僕の心は学校を離れていた。子供たちのためにも教師生活をこれ以上続けてはいけないという結論を出した後だったので、今や僕の人生に残された最後の出口はただひたすら小説を書くこと以外になかった。応募した小説が当選しなければ、これ以上生きる価値も名分もないと結論を下していたのだ。<o:p></o:p>

 

 毎年当選者を発表している時期がはるかに過ぎたが、当選通知が来なかった。すべてが終わったな、学校の運動場の周りに植えてあるプラタナスを眺めながら気持ちの整理を始めた。30歳、もうすでにこれ以上生き続ける名分がないと考えた。今回落選したら、自分の才能を恨みながら文学に対するすべての未練を断ち切ってしまおう、もうずいぶん前から決めていた。振り返ってみても残酷に感じるけれども、その時僕は限りなく冷笑的な心情で自殺を夢見ていた。小説を書こうと、3年間のつもりで入って行った高山地帯で過ごした時間がいつのまにか4年8か月が過ぎていた。そして海抜650メートルの高山地帯にはいつのまにかわびしくうすら寒い秋の風景が感じられた。退屈な青春、今やこれ以上地球に留まっていなければならない大義名分は何だというのか。<o:p></o:p>

 

 2時間目の授業が進行中の教室の窓際に立ってそんな考えに捕われていた。その時、がらんとした学校の運動場に朱肉色の1台のオートバイ入ってきた。郵便局か電信電話局の職員が乗ってきた小型のオートバイ、それを見て苦笑せざるを得なかった。そのオートバイが当選通知書を持ってきたお祝いのメッセンジャーだったら、どんなに良いかという熱望と恥辱感。<o:p></o:p>

 

 それは夢でもなく、また幻でもなかった。その日2時間目の授業中に見た朱肉色のオートバイ、それが実際に僕の当選通知書を届けに来たからだった。2時間目の授業が終わった直後に祝電を受け取って、それがまた別の人生に向かわせる激励の切符だと何度も反芻せざるを得なかった。19881026日暗殺された朴正煕元大統領の命日だった。<o:p></o:p>

 

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