桂小五郎と新撰組の足跡を尋ねる会
京都案内人中村正氏・島原司太夫・幾松久保専務の講演より
京都散策
【第1部「島原・輪違屋(司太夫)と八木邸」】講演
清話会安田
本日は「清話会主催・京都見学会」にご参加戴き有難う御座います
ご案内の通り「島原から八木邸、そして幾松」へと見学して参りますが
これからは「京都案内人の中村様」のご説明を聞きながら
巡ってまいりますので宜しくお願い致します。
中村氏
今日一日お付き合いをさせて戴きます中村です。
皆様は、大変ラッキーです。
今日、見学予定であった「島原・角屋」さんが生憎休館中で
外観だけは見ていただけますが中に入る事ができません。
ところが、現在京都に「3人」しかいない太夫のうちの一人
「司太夫」が島原を案内してくれて、
その上、入館禁止の「輪違屋」の中に皆様入館戴き
輪違屋の説明やお話をしてくれるとの事です。
滅多に入れない輪違屋ですので楽しみして下さいませ。
それでは「島原の大門」で「司太夫」が待っていますので参りましょう。
【移動】
●司太夫の話
今、京都には「花扇太夫」と「如月太夫」と私の3人しか「太夫」はおりません。
ここが「島原大門」で昔の「島原」の面影のある場所は、
この「大門」とこれから参ります「角屋」さんと「輪違屋」さんだけとなりました
もともとは甲子園球場「6個分」に敷地が有ったとの事です。
今は大半が民家になったり、駐車場になったりしています。
太閤秀吉が開いた「花町・二条万里」が江戸時代「この地朱雀野」へ
移転となりました1641年のことです。
その移転が京都中を巻き込んでの大騒ぎとなり、
その騒ぎと混乱が「島原の乱」みたいといわれ
此処の地名が「島原」となりました。
島原は通称であって正式住所は「京都市下京区花屋敷」で
ネットで「島原」で検索したら「九州の島原」が出て来ます(笑)
今日は東京からのお客様もいらしゃいますが、この「島原」は
江戸の「吉原」との根本的な違いが有ります。
島原は「芸」を売るところで「吉原」とは全く違うのです。
又、京都の祇園に比べて格式が高く公家の遊びでありましたので
公家の衰退と共にこの「島原」も衰退してきたのです。
島原には「置屋」と「揚屋」が御座いまして
「置屋」には「太夫」や「芸妓」がおり
「揚屋」からの注文に応じて「派遣」していました。
角屋さんが「揚屋」で「輪違屋」さんが「置屋」です。
角屋さんの歴史をみますと「西郷隆盛」や「久坂玄随」が出入りし
幕末から維新の先人達の行動の一端がわかります。
「輪違屋」さんは「芸妓」を育てるところでもあり「養花楼」ともいわれ
二つの名前を持っております。
置屋には「お客様」は上がってきません。「揚屋」である「お茶屋」さんへ
「芸妓」さんを送り出すところなのです。
この部屋は「私達太夫」が「太夫道中」をするときに使う
一番大事な「部屋」で「高の間」といいます。
「高」のマークが付いていますが「高島屋」ではありません(笑)
此処のお名前が「高橋さん」なのでこの「マーク」になったようです。
「輪違屋」のマークみたいな物でしょう。
このお部屋の特徴はその障子の小さな窓みたいなところを
開けてみてください、窓ではありません、
この中のに「ローソク」をたて、火をともして「障子」を
しめると部屋全体が明るくなる仕組みになっています。
「間接照明」ですね。
そしてそこの「床の間」を見てください「松竹梅」になっています
この太い柱が「松」でそこの「竹」とこの古木は梅の古木です。
お座敷は縁起を担ぐので意識して「松竹梅」にしたのでしょう。
そこの「掛け軸」は「桂小五郎」の書いた物です。
「春の」情景を見事に描き出している作品です。
そして、ここにあっても可笑しくないのです。
明治5年以降に「輪違屋」に多くの人が来たとの記録が残っているからです。
でもいつ来てもこの「小五郎の掛け軸」が見えるわけでは有りません
四季に応じて掛け軸を変えているので、今は「この掛け軸」なのです。
下の階に降りましょう「「紅葉の間」です、
この絵はあの有名な「八千代太夫」の絵姿ですね。
本当に優雅な落ち着いた創りとなっている事は
感じていただけることと思います。
これが「近藤勇」の書いた物ですが「近藤勇」はこの「輪違屋」には
来た事はありませんので「揚屋」で「近藤」に呼ばれた
「芸妓」が書いてもらって持ち帰ったのです。
この中には「芸妓」さんたちが残した「書き物」も多く残っていますが
年季が明けてから「遊び」に来て、昔を懐かしんだ物が多いのは
「島原」の特徴で「身体」を売る事が無く「芸」磨き売り物にした
「芸妓」さんの明るい当時の有り様が判りますね。
江戸の「吉原」では「年季明け」は本当に少なかったようですが
「島原」は大半が「年季明け」をし「女達」に住みやすい町であったようです。
この「近藤勇」の掛け軸では「吉原遊郭」の心算で「島原」にきた
「近藤勇」が「花魁」と異なる「芸妓」遊びで恥をかき
「カルチャーショック」を覚えた様子が面白いですね。
島原は遊郭ではなく、「芸」が売り物の町ですので、
琴・三味線・踊り・お茶などの多くの「師匠」や「裏方の女性」の
出入りもあり「自由」な町で有りました。
お客様も色々な方があり「久坂玄随」は「母親」とともに
遊びに来たとの記録も残っております。
輪違屋は昭和58年に重要文化財に認定されました。
現在、唯一つの「置屋」であり「揚屋」が無いので「お客」も頼めば
「此処で」遊ぶ事も出来ますが、因みに予算は一人数万円でしょう。
気が向いたら遊びに来てくださいませ。有難う御座いました
司太夫にお礼を言い「八木邸」へ移動
●八木邸案内人氏の説明
八木邸はは昭和58年に重要文化財に認定されました。
天井を見てください、とても低い所が有りますね
今の若い人は立ったままで通れない高さです
それはこの八木邸の中では「刀」を振り回してはダメ、
抜いてもダメですという事で、高さ制限が有りました
新撰組が京都にやってきたのは「147年」前の「1862年」でした。
その頃の京都は尊皇攘夷の嵐が吹き溢れ、治安が悪く
大変怖い不安定な都となっていました。
その治安維持の為に幕府は「守護職」を儲け会津藩主「容保公」が
担当致しますが、そこに「徳川14代将軍」が京都に来る事になりましたが
その時の「武士」はサラリーマン化して「刀」が使えません。
そこで「江戸」で集められた「腕自慢」の武士達が「234名」が
「中仙道」を通って「16日」かけて京都にやってきました。
引率は「清川 三郎」でした。着いたとこが此処です。壬生でした。
ところが幕府と清川の間で行き違いや思いの違いがあり、
すぐ江戸に帰る命令がきて「2日滞在」で江戸に引き返す事になりました。
しかし、江戸に帰らず「13名」が幕府の為に働きたいと
言って京都に残ったのです。
それが後の「新撰組」になるのですが、
当初は清川が江戸に帰った後ですので
食べて行けず「会津公」に嘆願し許可が出て、
この八木邸の前の「前川邸」に「松平家お預・新撰組」の
看板を立てたのです。新撰組のスタートでした。
そしてその後は、隊員募集し、そこに荒くれ者が入隊し人員が増えまして
問題が噴出しはじめたので「土方歳三」が「局中法度」なる規則をつくり
新撰組を管理いたしました。
その法度違反がもとで皆様ご承知の「芹沢 鴨」事件が起こるわけですが
芹沢・新見などのグループはこの部屋に「6人」で住まいしておりまして
近藤・土方のグループはあそこに見える離れの部屋に寝食したのです。
1863年(文久3年)9月18日の、まだ夏の暑さが残る雨の夜に
「芹沢鴨」が酒を飲まされて殺害されたのは「この部屋」で
そこの壁までが「血」で真っ赤になっていて、
壁の塗り替えや修理が大変だったそうです。
「新撰組」がこの「八木邸」に住まいしていた
「2年半」が一番輝いていた時代でした。
「禁門の変」を含めて長州・薩摩・あるいは土佐など、
尊皇攘夷派の武士との熾烈な戦いはこの「八木邸」の
「この部屋」から「近藤も土方も沖田」も出陣して行きました。
その後、新撰組は「八木邸」から「西本願寺」へと本体を移しました。
ところが「お寺」と「新撰組」は上手く行かず
「お寺」がお金をだして「不動村」という場所に
屯所を移転するわけですが、
すぐ戊辰戦争が始まり戦いに敗れた「新撰組」は
東へ東へと敗退し後退していき、幕末から明治へと
時代は移り変わっていきました。
中村氏
次は「幾松」に移動いたします。
●京都散策講演 第2部「桂小五郎と幾松」は
講師「幾松・久保専務」は次回投稿致します。
次回は4月5日に投稿予定です
安田紘一郎雑記帳
島原は「花街」であるが「遊郭」ではなく、
「江戸の吉原」とは全く形態の異なる、江戸時代の
「歓楽街」であった事を「司太夫」の話で知り
まさに「目から鱗」の感じである。
「吉原」の心算で遊びにきて、恥をかき、恐縮している「近藤勇」の
姿が目に浮かぶのは何故だろう。
「近藤勇」も幕末を生き、形こそ変われど「日本」の夜明けの
「一役」を担った立派な「武士道精神」を持った
「武士」であったからでしょうか。
京都案内人中村正氏・島原司太夫・幾松久保専務の講演より
京都散策
【第1部「島原・輪違屋(司太夫)と八木邸」】講演
清話会安田
本日は「清話会主催・京都見学会」にご参加戴き有難う御座います
ご案内の通り「島原から八木邸、そして幾松」へと見学して参りますが
これからは「京都案内人の中村様」のご説明を聞きながら
巡ってまいりますので宜しくお願い致します。
中村氏
今日一日お付き合いをさせて戴きます中村です。
皆様は、大変ラッキーです。
今日、見学予定であった「島原・角屋」さんが生憎休館中で
外観だけは見ていただけますが中に入る事ができません。
ところが、現在京都に「3人」しかいない太夫のうちの一人
「司太夫」が島原を案内してくれて、
その上、入館禁止の「輪違屋」の中に皆様入館戴き
輪違屋の説明やお話をしてくれるとの事です。
滅多に入れない輪違屋ですので楽しみして下さいませ。
それでは「島原の大門」で「司太夫」が待っていますので参りましょう。
【移動】
●司太夫の話
今、京都には「花扇太夫」と「如月太夫」と私の3人しか「太夫」はおりません。
ここが「島原大門」で昔の「島原」の面影のある場所は、
この「大門」とこれから参ります「角屋」さんと「輪違屋」さんだけとなりました
もともとは甲子園球場「6個分」に敷地が有ったとの事です。
今は大半が民家になったり、駐車場になったりしています。
太閤秀吉が開いた「花町・二条万里」が江戸時代「この地朱雀野」へ
移転となりました1641年のことです。
その移転が京都中を巻き込んでの大騒ぎとなり、
その騒ぎと混乱が「島原の乱」みたいといわれ
此処の地名が「島原」となりました。
島原は通称であって正式住所は「京都市下京区花屋敷」で
ネットで「島原」で検索したら「九州の島原」が出て来ます(笑)
今日は東京からのお客様もいらしゃいますが、この「島原」は
江戸の「吉原」との根本的な違いが有ります。
島原は「芸」を売るところで「吉原」とは全く違うのです。
又、京都の祇園に比べて格式が高く公家の遊びでありましたので
公家の衰退と共にこの「島原」も衰退してきたのです。
島原には「置屋」と「揚屋」が御座いまして
「置屋」には「太夫」や「芸妓」がおり
「揚屋」からの注文に応じて「派遣」していました。
角屋さんが「揚屋」で「輪違屋」さんが「置屋」です。
角屋さんの歴史をみますと「西郷隆盛」や「久坂玄随」が出入りし
幕末から維新の先人達の行動の一端がわかります。
「輪違屋」さんは「芸妓」を育てるところでもあり「養花楼」ともいわれ
二つの名前を持っております。
置屋には「お客様」は上がってきません。「揚屋」である「お茶屋」さんへ
「芸妓」さんを送り出すところなのです。
この部屋は「私達太夫」が「太夫道中」をするときに使う
一番大事な「部屋」で「高の間」といいます。
「高」のマークが付いていますが「高島屋」ではありません(笑)
此処のお名前が「高橋さん」なのでこの「マーク」になったようです。
「輪違屋」のマークみたいな物でしょう。
このお部屋の特徴はその障子の小さな窓みたいなところを
開けてみてください、窓ではありません、
この中のに「ローソク」をたて、火をともして「障子」を
しめると部屋全体が明るくなる仕組みになっています。
「間接照明」ですね。
そしてそこの「床の間」を見てください「松竹梅」になっています
この太い柱が「松」でそこの「竹」とこの古木は梅の古木です。
お座敷は縁起を担ぐので意識して「松竹梅」にしたのでしょう。
そこの「掛け軸」は「桂小五郎」の書いた物です。
「春の」情景を見事に描き出している作品です。
そして、ここにあっても可笑しくないのです。
明治5年以降に「輪違屋」に多くの人が来たとの記録が残っているからです。
でもいつ来てもこの「小五郎の掛け軸」が見えるわけでは有りません
四季に応じて掛け軸を変えているので、今は「この掛け軸」なのです。
下の階に降りましょう「「紅葉の間」です、
この絵はあの有名な「八千代太夫」の絵姿ですね。
本当に優雅な落ち着いた創りとなっている事は
感じていただけることと思います。
これが「近藤勇」の書いた物ですが「近藤勇」はこの「輪違屋」には
来た事はありませんので「揚屋」で「近藤」に呼ばれた
「芸妓」が書いてもらって持ち帰ったのです。
この中には「芸妓」さんたちが残した「書き物」も多く残っていますが
年季が明けてから「遊び」に来て、昔を懐かしんだ物が多いのは
「島原」の特徴で「身体」を売る事が無く「芸」磨き売り物にした
「芸妓」さんの明るい当時の有り様が判りますね。
江戸の「吉原」では「年季明け」は本当に少なかったようですが
「島原」は大半が「年季明け」をし「女達」に住みやすい町であったようです。
この「近藤勇」の掛け軸では「吉原遊郭」の心算で「島原」にきた
「近藤勇」が「花魁」と異なる「芸妓」遊びで恥をかき
「カルチャーショック」を覚えた様子が面白いですね。
島原は遊郭ではなく、「芸」が売り物の町ですので、
琴・三味線・踊り・お茶などの多くの「師匠」や「裏方の女性」の
出入りもあり「自由」な町で有りました。
お客様も色々な方があり「久坂玄随」は「母親」とともに
遊びに来たとの記録も残っております。
輪違屋は昭和58年に重要文化財に認定されました。
現在、唯一つの「置屋」であり「揚屋」が無いので「お客」も頼めば
「此処で」遊ぶ事も出来ますが、因みに予算は一人数万円でしょう。
気が向いたら遊びに来てくださいませ。有難う御座いました
司太夫にお礼を言い「八木邸」へ移動
●八木邸案内人氏の説明
八木邸はは昭和58年に重要文化財に認定されました。
天井を見てください、とても低い所が有りますね
今の若い人は立ったままで通れない高さです
それはこの八木邸の中では「刀」を振り回してはダメ、
抜いてもダメですという事で、高さ制限が有りました
新撰組が京都にやってきたのは「147年」前の「1862年」でした。
その頃の京都は尊皇攘夷の嵐が吹き溢れ、治安が悪く
大変怖い不安定な都となっていました。
その治安維持の為に幕府は「守護職」を儲け会津藩主「容保公」が
担当致しますが、そこに「徳川14代将軍」が京都に来る事になりましたが
その時の「武士」はサラリーマン化して「刀」が使えません。
そこで「江戸」で集められた「腕自慢」の武士達が「234名」が
「中仙道」を通って「16日」かけて京都にやってきました。
引率は「清川 三郎」でした。着いたとこが此処です。壬生でした。
ところが幕府と清川の間で行き違いや思いの違いがあり、
すぐ江戸に帰る命令がきて「2日滞在」で江戸に引き返す事になりました。
しかし、江戸に帰らず「13名」が幕府の為に働きたいと
言って京都に残ったのです。
それが後の「新撰組」になるのですが、
当初は清川が江戸に帰った後ですので
食べて行けず「会津公」に嘆願し許可が出て、
この八木邸の前の「前川邸」に「松平家お預・新撰組」の
看板を立てたのです。新撰組のスタートでした。
そしてその後は、隊員募集し、そこに荒くれ者が入隊し人員が増えまして
問題が噴出しはじめたので「土方歳三」が「局中法度」なる規則をつくり
新撰組を管理いたしました。
その法度違反がもとで皆様ご承知の「芹沢 鴨」事件が起こるわけですが
芹沢・新見などのグループはこの部屋に「6人」で住まいしておりまして
近藤・土方のグループはあそこに見える離れの部屋に寝食したのです。
1863年(文久3年)9月18日の、まだ夏の暑さが残る雨の夜に
「芹沢鴨」が酒を飲まされて殺害されたのは「この部屋」で
そこの壁までが「血」で真っ赤になっていて、
壁の塗り替えや修理が大変だったそうです。
「新撰組」がこの「八木邸」に住まいしていた
「2年半」が一番輝いていた時代でした。
「禁門の変」を含めて長州・薩摩・あるいは土佐など、
尊皇攘夷派の武士との熾烈な戦いはこの「八木邸」の
「この部屋」から「近藤も土方も沖田」も出陣して行きました。
その後、新撰組は「八木邸」から「西本願寺」へと本体を移しました。
ところが「お寺」と「新撰組」は上手く行かず
「お寺」がお金をだして「不動村」という場所に
屯所を移転するわけですが、
すぐ戊辰戦争が始まり戦いに敗れた「新撰組」は
東へ東へと敗退し後退していき、幕末から明治へと
時代は移り変わっていきました。
中村氏
次は「幾松」に移動いたします。
●京都散策講演 第2部「桂小五郎と幾松」は
講師「幾松・久保専務」は次回投稿致します。
次回は4月5日に投稿予定です
安田紘一郎雑記帳
島原は「花街」であるが「遊郭」ではなく、
「江戸の吉原」とは全く形態の異なる、江戸時代の
「歓楽街」であった事を「司太夫」の話で知り
まさに「目から鱗」の感じである。
「吉原」の心算で遊びにきて、恥をかき、恐縮している「近藤勇」の
姿が目に浮かぶのは何故だろう。
「近藤勇」も幕末を生き、形こそ変われど「日本」の夜明けの
「一役」を担った立派な「武士道精神」を持った
「武士」であったからでしょうか。