紘一郎雑記帳

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暗殺前夜!龍馬はなぜ京都にいたのか 赤尾氏講演会

2010-07-26 04:55:13 | Weblog
暗殺前夜!龍馬はなぜ・京都に赤尾氏講演録

 講師ー赤尾 博章氏
  「NPO法人京都龍馬会・理事長」

第5部   続き・・赤間氏

10月14日の大政奉還の後の「10月16日」に「岩倉具視」が
「大久保利通」にあてた手紙によると
「新政府・薩摩・長州・土佐」などの要人を「幕府側」が
襲う計画があると警告します。

「西郷・大久保」ら新政府の関係者は「京都」を離れますが
なぜか「龍馬」は「新政府」の為に走り回っており「情報」は
当然、知っていましたが「京都」を離れておりません。

14日に決まった「大政奉還」ですが、完全に「新政府」が
機能するまでは「旧幕府体制」が「治安」にあたることは
「違法」でもなんでもなりません

「会津藩京都守護職」が、その間は「その職」につき、
その配下にある「京都見回り組」がその任にあたる事は
当たり前のことなんです。

後世、多くの識者や歴史家の中で「龍馬暗殺秘話」や
「龍馬暗殺の事実」なる話があり多くあり
「文献」にもなり「マスコミ」にも取り上げられています。

しかし「龍馬暗殺」の「犯人」は「見回り組み」以外は
考えられず、逆にいえば「見回り組み」からすれば
「当然」の仕事でありましてや、「仲間」を二人「ピストル」で
撃ち殺した「憎き犯人」でもありました。

見回り組み「佐々木只三郎」など「7人」が「龍馬捕縛」に
「近江屋」に向かうわけですが、絶えず隙を窺がっていたのです。

「近江屋」は「土佐屋敷」の近くにありました。

10月14日の「龍馬」の手紙によりますと「土佐屋敷」にいる
「持月清衛兵」宛に「龍馬」もこの頃は「身の危険」を感じており
「土佐屋敷」に入れるように依頼しております

「龍馬」は「土佐藩」で「2度」脱藩などの「罪」があり
手続きに手間取り、すぐ「土佐屋敷」には入れません。

「薩摩」からは「薩摩屋敷」に誘われていましたが
「土佐藩」に復帰したので「薩摩屋敷」に匿って貰う事を
「龍馬」は嫌っていた、そんな時でした

そして「土佐藩」は安全な住家で「酢屋」と「近江屋」を
紹介しまして、より土佐藩邸に近い「近江屋」に入りました

今の河原町と違い「細い通り」の河原町を隔てた場所でした

ですから「10月13日」の「大政奉還」のニュースを「龍馬」は
「近江屋」で聞いたのです。

それから「龍馬」は福井に行っています。
詳細は判りませんが、この時期ですから「大政奉還」後の
「政治体制」について「福井の春獄公」に意見具申したのでしょう

そして「11月の初め」に京都に帰ってきました。

「近江屋」は「龍馬」を預かっていましたが、
「龍馬」を守る対策を考え、襲われたら「安全」に逃げるように
裏の墓場に通じる、奥の土蔵に梯子も用意していました

「14日」から「龍馬」は福井で「風邪」をひいて「京都」に
帰ってきましたので「寒くて」「便所」も「暖」もない
「土蔵」から「表」の部屋に移動してきました。

その日「中岡慎太郎」と共に「軍鶏」で食べるか、と思い
「みね吉」という「身の回りの世話かかり」に買いに行かせます。

当時は「冷蔵庫」がありませんので、店で待って
「軍鶏」を潰して「竹の皮」に包んで、もって帰りました。

「みね吉」が「近江屋」に帰りますと「刀」を手にした
「武士」が立っていました

「みね吉」が「おそる、おそる」二階に上がってみますと
2階の入り口に「とう吉」という「龍馬」の用心棒が
倒れており、その向こうに「「龍馬」が壁に寄りかかって倒れていて
「中岡慎太郎」は物干しで血まみれになって倒れていました

「中岡慎太郎」はそれから「2日間」生きていました
その時の「近江屋」の状況・・・続く


安田紘一郎雑記帳

「龍馬」と「中岡」が殺害されたと聞き「12月7日夜」
油小路花屋街の天満屋にいた「紀州藩士・三浦休太郎」と
その「護衛」をしていた「新撰組」を襲撃しました。

三浦休太郎は負傷しましたが、辛うじて「虎口」を脱しました

その「三浦休太郎」は」維新後「貴族議員」となり
東京知事も務め「明治43年」86歳でなくなりました

この時代、色々な人が様々な立場で「国家建設」に
携わっていたかが良くわかります。




















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