紘一郎雑記帳

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3部・龍馬活躍す   赤尾氏講演録 紘一郎雑記張

2010-07-21 05:14:29 | Weblog
第3部
【龍馬活躍す!!】講演会より

   講師ー赤尾 博章氏
  「NPO法人京都龍馬会・理事長」

京都に入った「龍馬」は「福井藩の松平春獄」と遭いますが
このところが良く理解できません

「ただの脱藩浪人」が、なぜ「春獄」に遭えたのか、
「龍馬」が行方不明の文久2年に秘密があるのでしょうが
何も判っておりません

その上「春獄」は「龍馬」を気に入るのですね
そして、勝海舟」を紹介し「龍馬」は「勝海舟」に
会いに行きます

そこで「勝海舟」の話に引き込まれて「勝海舟」の
門下生となるのです。

文久3年の2月25日に「龍馬」は「脱藩」の罪が許されますが
恐らく「勝海舟」から「土佐藩」への働きかけがあったのでしょう

京都の蛸薬師に「土佐藩邸」が有りましたが「龍馬」は
「脱藩」の「罪」を許される代わりに「謹慎」の
処分を受けています。

それからの「龍馬」は勝海舟の「海軍総練場」に
関わることになったといわれますが、資料はありません

「龍馬」と「お龍さん」との出会いをお話ししますと
七条新地の旅館で「お龍さん」が働いているところに
「龍馬」が「岡田以蔵」を探しに来ましたが、
その時が始めての出会いでその晩、宿泊した「龍馬」が夜中に
「お龍さん」が売られて行く「妹」を助けに行くのに
「龍馬」が「手伝い」をしたと
「大河ドラマ」で流していましたが、本当は違いますね。

「龍馬」と初めて会ったのは「お龍のお母さん」で
「扇岩」という旅館で、住み込みで働いていました。

その「お母さん」のところに、遊びにいった「お龍さん」と
初めて「龍馬」が遭ったのが真相です。

「元治元年」は京都は「大変不安定」で危ない街でした
その年の6月2日に「勝海舟」と共に「龍馬」は江戸に行きます。

6月5日に「池田屋事件」がありました。
龍馬をこの事件を江戸で聞いています

この6月5日は「池田屋」だけが新撰組に
襲われたわけでは有りません。

この日は「京都市中」に「一斉手入れ探索」が行われたのでして
「池田屋」だけが「狙い撃ち」されたのでありません

たまたま「新撰組」の「探索」とぶつかったのです。

「龍馬」たちの「土佐」の隠れ家も「探索」されましたが
その時、誰もいないので助かりました。

このような「ニュース」を龍馬は「江戸で」聞いていました。
「龍馬」が「勝海舟」と共に、舟で「神戸」に
戻ってきたのが「7月末」でした

そして「8月1日」に「京都」にきた「龍馬」は「お龍」をつれて
「東山」の「青蓮院」に行きその中の「金蔵寺」の
「住職」の世話で、「結婚式」を挙げました。

これは「お龍さん」の証言に書かれていますので
間違いありません

「龍馬」は「勝海舟」の門下生で、日本中を歩き回りますので
「お龍」を「寺田屋」に預けます。

「寺田屋」は「伏見」にありますが、当時は「京都」と
「伏見」は、全く異なる街であり、京都に入る「最後の宿場町」
で、当時は西国から京都に来る場合、淀川から舟で
「伏見」に着き、京都に向かったのです。

「龍馬」は「京都」が情勢が悪いので「伏見」に預けたのですね
「寺田屋」は「薩摩藩」の使う旅館でした。

「龍馬」と「お龍さん」が結婚していたのは「3年」ほどですね
「1864年8月1日」から「1867年11月15日」の間です。

「お龍さん」は「龍馬」の死後「西村松衛兵」という人と
「再婚」し「西村つる」と名前を変え「66歳」まで
連れ添うわけですが「30年」です

「龍馬と3年」「再婚して30年」ですが、「お龍さん」は
横須賀で亡くなりますが、お墓は「坂本龍馬の妻・龍」と
なっております。「西村松衛兵」が気の毒ですね。

「龍馬」に話を戻しましょう
「龍馬」が京都に現れたのが慶応2年1月(1866年)の
「薩長同盟」が締結されますが「龍馬」は「薩摩」の
エージェントとして活躍したとされていますが
「龍馬」の活躍は不明です。

続き第4回に投稿します、


紘一郎雑記張

一般的に「龍馬・お龍」の結婚式は「寺田屋騒動」の
あと「薩摩」で「西郷隆盛」や「中岡慎太郎」の
媒酌で行われたという説もありますが、
どうも、違うようですね

そして、横須賀にいた「お龍さん」は不幸で
「酒びたり」の生活であったようです。

再婚した「西村・・」と「お龍の妹」との「3人暮らし」でしたが
その旦那と「妹」が、仲良くなりすぎて「お龍さん」は面白くなく
酒びたりになったのが真相のようです











































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