国学院・日本大学の祖
山田顕義の残したもの 5部
紘一郎雑記長
一坂太郎氏「作家」1966年芦屋市生まれ
元・東行記念館学芸員、 萩博物館資料室長
山口福祉文化大学特任教授 著書多数
山田顕義の志が後世に花開いたのはそれから後のことである
辞職した山田は明治24年(1891年)松方正義内閣の司法大臣として復帰したが、来日していたロシア皇太子の襲撃事件の犯人の量刑で明治天皇の意に添えず、その責任をとり大臣を辞任したのです
山田はすべての職から退き、長州藩主毛利敬親公の銅像をつくる名目で山口へ帰郷したのです。
そして明示25年(1992年)再び上京する途中に、またいとこの河上弥市の眠る生野にいき、ついでに「生野銀山」を視察中に坑道で倒れそのまま息を引き取ったのです。
享年49歳でした
死因に関しては様々な憶測を呼びましたが、当時の生野銀山は皇族の財産となっており、その中で司法大臣まで務めた人が暗殺とか理解出来ない死因では拙いので「病死」としたとしか考えられないのです。
この様に山田の人生は挫折の繰り返しであったが、山田の蒔いた種は後年芽を出し花を咲かせる事となりました
これは山田の伝記にも書いていない話だが、明治23年(1890年)にコレラが大流行した大阪の上水道を整備するべく、当時の大阪府知事が補助金を求めて上京した際、政府予算の決議の寸前にも拘わらず、すぐ尽力しているのです
同じ年に山田は二つの大學を作っている、国学院大學とその中にあった「日本法律学校」であるが、それが後に「日本大學」と発展していくのである
山田があの”松陰先生”の「松下村塾」で学んで以来、松陰先生の教え通り「教育」の大切さを身につけていたからであろう。
これで”山田顕義”講演録(一坂太郎氏)の最終投稿となります
続けてのお立ち寄りに感謝致します。
残念ながら今の日本の政財界にこの様な人物が見当たらないに事に
地団駄踏んでいます。 この項終り