紘一郎雑記帳

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第3部 本当の経営者 紘一郎雑記張

2012-08-10 04:18:43 | Weblog

第3部 本当の経営者
 紘一郎雑記張

しかし平生は
「ご厚意は感謝します。しかし、他日、自分が三井物産で成功し、高い地位に就くことができたとしても、苦境にある東京海上を見捨てて、一身の栄達を計ったといわれても弁解できません。私は東京海上の再興のために全力を尽くしたい」といい三井の誘いは丁重に断った。


その後、平生は見事に東京海上を再建し、さらなる発展へと導いた。
大正8年には専務取締役に就任した。
28歳で東京海上に入社してから58歳で引退するまでの30年間身を粉にして東京海上で働き日本の海上保険の礎を築いていく、引退後は甲南高等学校や甲南病院の経営を通じて、念願だった社会奉仕に取り組んでいたが、昭和8年、川崎造船所(現・川崎重工業)が経営の危機になると、この危機を救えるのは平生以外にはいないと債権者や実業界から懇望され社長を引き受けることになる。しかし社長を引き受けるにあたって二つの条件を出したが、この条件がまた平生らしい。
「一つは、任期を会社再建の目処をつけるまでの2、3年とし目処がつけば職を辞すこと。もう一つは、その間の報酬は一切受け取らないこと」である。これは凄い、どこまでも私利私欲がないところが人から信用されるのであろう

破局寸前だった川崎造船所は平生が社長に就任してわずか2年あまりで、利益が100万円から278万円と3倍近く伸び、川崎造船所の再建も見事に成功させた。その後も平生は社会奉仕に専念することが許されず、周りから推される形で貴族院議員、文部大臣、日本製鐵(現・新日本製鐵)会長などを歴任していく。



平生釟三郎(ひらお・はちさぶろう)が実業家として成功したのは、平生の人格が従業員からも取引先からも実業家からも信頼されていたからであると思うが、その平生の人格の根底を成すのが、士魂商才の精神ではなかったかと思う。

最後に世界的な経営学者、マネジメントの父と呼ばれたドラッカーはあらゆる企業や経営者の研究をし、数々の教訓を遺してくれたが、その中でもドラッカーの哲学が集約されていると思える言葉を紹介して終わりたい。

思いでしている!
「経営トップの一番大事なことは何か、それは品性だ」
ピーター・ドラッカー  この項終り