◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎「新版/年表・末松太平」/(23)長男(私)の左遷◎

2023年03月27日 | 年表●末松太平
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《「年表・末松太平」1966(昭和41)年。/末松太平=60歳~61歳/私=25~26才。》
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◎1966年2月26日。事件満30年、大赦20年、慰霊像建立1周年。
・・・渋谷公会堂地下会場で「全殉難者31回忌法要」ならびに記念行事を行う。
・・・世話人代表は、荒木貞夫元大将。参会者約300名。



◎1966年。雑誌「人物往来」2月号に「悲哀の浪人革命家」を掲載。
・・・西田税のことを書いたもので、松本清張著「昭和史発掘・8」文春文庫版に引用されている。



◎1966年3月。大岸頼好死去15年の記念誌「追想・大岸頼好」を編集。
・・・90頁の冊子。末松自身は「少尉殿と士官候補生」を寄稿している。
・・・寄稿者紹介欄を見ると「末松太平=ベストン㈱役員」とある。小田急系列の会社。
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◎1966年5月。広告会社勤務の私は「労働組合結成の余波」で、福岡支社(当時は出張所)に転勤。
・・・会社側は「それなりの理由」を挙げたが あきらかな「左遷」。滑稽なことだが「総評から送り込まれたオルグ」と誤解されたらしい。会社側の依頼した「探偵」が、デタラメな報告書を書いたと思われる。尤も私自身の言動が「過激」だったのは事実である。
・・・自宅(千葉市登戸5丁目)を離れた私は、末松太平が死去するまで「同居」することはなかった。



・・・「福岡時代の住居」の現況(2003年撮影)。福岡市荒戸1丁目。博多湾の漁港が近い。
写真手前(空き地)には「蕎麦屋」があった。駐車場のシャッターを開けて入り「駐車場の屋上」に登ると、孤立した部屋(画面右端)に到達。台所もトイレもガス水道もなく、寝に帰るだけの住居だった。ワイシャツだけは「クリーニング」に出したが、下着靴下はポリバケツで洗って屋上に干した。
・・・26歳~30歳直前までの4年間 この部屋に住み続けた。

◎1966年9月。村中孝次の遺書「同志に告ぐ」が発見される。
・・・宛先は「菅波、末松、明石、大蔵、志村、市川、朝山、杉野、黒崎、北村、諸盟兄」で、昭和11年8月17日に、獄中で書かれている。
・・・この全文は「政経新論」1967年1月号に掲載された。この号の編集は「M・T生/高橋正衛?」に替っている。

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《「年表・末松太平」1967(昭和42)年。/末松太平=61歳~62歳。私=26歳~27歳。》
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◎千葉市(末松太平)と福岡市(私)に離れての日々。末松太平の「日常生活」は把握できない。

◎雑誌「四国不二」3月号掲載。末松太平「大岸少尉と『兵農分離亡国論』」。
◎雑誌「四国不二」6月号掲載。末松太平「坂本竜馬のような人」。
・・・2篇とも 大岸頼好についての回想。その後《末松太平著「軍隊と戦後の仲で」大和書房刊》に所収。

◎私の福岡生活は 2年目。そろそろ「東中州」のネオン街に馴染んできた頃である。
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◎「新版/年表・末松太平」/(22)慰霊像除幕開眼式◎

2023年03月27日 | 年表●末松太平
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《「年表・末松太平」1965(昭和40)年。/末松太平=59歳~60歳/私=24~25才。》
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◎1965年2月26日。渋谷宇田川町、処刑場跡地に「二・二六事件全殉難物故者慰霊像」建立。
・・・現地において藤田俊訓師を導師として、慰霊像除幕開眼式ならびに「30回忌法要」を行う。
・・・式の後、渋谷公会堂食堂で「記念祝賀会」が開催された。



★参考資料★・・・・・・・・・・
《高橋正衛著「二・二六事件」中公新書。1965年8月25日初版。》
「高く掲げられた日章旗は風に音を立ててはためき、参列者の合唱する『君が代』が風の中を流れていった。式は、この慰霊像建設にあたって献身的な努力をした河野司氏の挨拶に始まった。司会は末松太平氏。午後1時42分、序幕の綱は引かれ、紅白の幕が下に落ちた。除幕の綱を引いたのは栗原勝子さん(栗原中尉の母)である。/参列者は 記名をした人400人、記名しない人や偶然参列した人も含めて、約700人であった。」
「遺族席=香田清貞大尉未亡人、安藤輝三大尉未亡人、丹生誠忠中尉未亡人、対馬勝雄中尉の母、相沢三郎中佐未亡人。/事件連座者=大蔵栄一大尉、柳下良二中尉、志村陸城中尉、今泉義道少尉、堂込喜市曹長、門脇信夫軍曹、北島弘伍長・・・」



★関連資料★・・・・・・・・・・
《末松太平の「遺品」から。撮影日時不明の写真》
…写真左から、某氏、末松太平の次男(征比古)、末松太平、某氏、河野司。
…私が初めて「慰霊像」を訪れたのは、末松太平が死去した後であった。

◎1965年8月。《高橋正衛著「二・二六事件」中公新書》発行。
★関連資料★・・・・・・・・・・
《同書の「まえがき」から》
「末松太平氏は、常に私のよき助言者であり、特に青年将校の横断的結合という点について教えられることがあった。本書執筆の動機のひとつは、山口一太郎氏、西田初子さん、末松氏に伝わる、反乱将校の考え方や気持を、もう一度考えてみたいということにあった。」

◎1965年。雑誌「人物往来」2月号(特集二・二六事件)に「青森連隊の呼応計画」を掲載。
・・・これば、後に大和書房「軍隊と戦後の中で」に再掲。さらに後日「目撃者が語る昭和史」第4巻にも再掲されている。
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◎「新版/年表・末松太平」/(21)慰霊像建立準備事務所◎

2023年03月27日 | 年表●末松太平
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《「年表・末松太平」1964(昭和39)年。/末松太平=58歳~59歳/私=23~24才。》
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★資料★・・・・・・・・・・
《河野進作成「仏心会概史」から。》
「1962(昭和37)年に(処刑場跡地に)慰霊観音像の建立が決定されていた。



◎1964年3月末。「記念慰霊像建立準備事務所」開設。
・・・「慰霊像建立資金」の募金活動を開始する。
◎「慰霊像建立に着手した日」の記念写真。
・・・河野司氏など5名の隣には「二・二六事件殉難者慰霊碑建設地」と書かれている。
・・・この時点では「建設予定地」は平地だった。この写真からは「二十七尺の台座の上に十三尺の観音像が姿を現した」という除幕式の光景は、全く想像できない。写真の背後に見える高い壁は(これから除去される筈の)陸軍刑務所時代の遺物であるに違いない。



◎「慰霊像建立」の趣意。
「この地は陸軍刑務所跡の一隅であり、刑死した十九名とそれに先立つ永田事件の相沢三郎中佐が刑死した処刑場の一角である。この因縁の地を撰び、刑死した二十名と自決二名に加え、重臣、警察官、この他事件関係犠牲者一切の霊を合せ慰め、且つは事件の意義を永く記念すべく、広く有志の浄財を厚め、事件三十年記念の日を期して慰霊像建立を発願し、今ここに竣工をみた。謹んで諸霊の冥福を祈る。」
・・・上記は「慰霊像」の台座に刻まれた碑文の後半部分だが、慰霊像建立着工の時点でも《これに近い主旨》が読み上げられたと思う。
★参考資料★・・・・・・・・・・
《河野司著「ある遺族の二・二六事件」河出書房新社刊・1982年3月20日初版。》
・・・この著には「護国仏心会の誕生」から「事件満四十五周年追悼法要」に至るまでの苦難と執念の記録が綴られている。そして「二十二士の墓」や「慰霊像」に纏わる苦難の数々も細かく記されている。
「北一輝先生の未亡人(昭和27年3月3日没)の十年祭を迎え(杉並区の北家に関係者二十余名が集まり)法要を営んだ時のことである。法要後の歓談の席で、小早川秀浩氏(渋谷区選出・岡崎英城氏秘書)から『元陸軍刑務所跡地が、近々米軍の接収から解除され、渋谷区役所など庁舎建設の予定地になる』との話が出た。」
「話はいつか(その刑場跡地の)払下げを受けられないものかという方向に進み、顔の利く小早川氏に動いてもらい、私も積極的に協力して実現に努力するということに、発展してしまった。昭和三十六年のことである。」
「建設準備事務所の構成は、責任者河野司、相談役末松太平、常勤小早川秀浩、監査役藤田俊訓。末松氏には随時、相談相手として協力願うこととし、今後募金その他金銭出納監査の厳正を期するために、賢崇寺の藤田住職にも一役買っていただくこととし、事務所は、私のもうひとつの会社である三昭化成株式会社(都心の田村町)の一室をあてることにした。」
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◎1964年4月。長男(私)が「総合広告代理店」に就職する。
・・・東京学芸大学は(当時)教員養成専門の大学で、一般企業志望者は「自分で」就職先を捜すしかなかった。/会社受験は「1社」だけ。「NHKの制作部門」である。
・・・思いがけず、末松太平が「コネ」を紹介してくれた。コネ①=NHK広報室長(後のNHK会長)前田氏。コネ②=竹内俊吉氏。民間放送連盟会長、青森県知事。/父も息子も「筆記試験を自力で通過すれば、コネで合格」と、超楽観的だった。/そして、最終面接(と健康診断)に到達し「不合格」となった。集団面接(5人づつ)で試験官を相手に「喧嘩」したのである。
・・・慌てて「2社目」に挑戦。今度も最終面接で「口論」になりかけた。救世主は(偶々傍聴していた)齋藤社長で「正直に答えているのだから、次の質問に進みなさい」との助言。こうして無事に「総合広告代理店(ラジオテレビ部企画制作課)社員コード6411」の誕生となった。
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◎「新版/年表・末松太平」/(20)「私の昭和史」みすず書房刊◎

2023年03月27日 | 末松建比古
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《「年表・末松太平」1962(昭和37)年。/末松太平=56歳~57歳。私=21歳~22歳。》
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◎末松太平「二・二六事件異聞」連載継続中。
●「蹶起の前後(その2)」/「政経新論」1962年2月号(二・二六事件特集号)に掲載。

●「映画『脱出』について」/「政経新論」1962年6月号に掲載。
●「刑場の写真」/「政経新論」1962年8月号に掲載。
・・・この2作品は、1980年《「軍隊と戦後の中で」大和書房刊》に収録。
2023年《「定本 私の昭和史」中央公論新社刊》に再録された。
・・・東映映画「脱出」は、事件当日、首相官邸から岡田啓介首相を脱出させる過程を描いた作品。



◎1962(昭和37)年8月19日。高橋正衛氏は 西田税未亡人の部屋にいた。
・・・この日は「西田税氏の命日」である。1937(昭和12)年のこの日に 北一輝 西田税 村中孝次 磯部浅一の四人が銃殺されている。
★資料★・・・・・・・・・・
《「日本読書新聞」の連載シリーズ「名著の履歴書/編集者による記録集」から》
・・・第102回(昭和43年6月1日)と第103回(6月8日)は「私の昭和史」の履歴書。高橋正衛氏(みすず書房編集部)による記録である。

「西田夫人の部屋の机の上には 雑誌が一冊置かれてあった。私(高橋正衛)が知らない「政経新論」という雑誌である。私は何気なく雑誌に手を伸ばして目次を見た。/目次には『二・二六事件異聞/末松太平』という一行があるではないか。この瞬間《あったー》《本になるか》《どう書いているかな》《末松太平氏が》という感情の断片が、職業意識と混じり合って、喜びが電光の如く私の身体を巡ったのである。/この雑誌が机の上に置かれていたのは偶然である、私が訪ねるからと西田さんが置いたものではない。何気なく置かれて。何気なく手にとった。それが私と末松太平氏との真の出会いであった。末松氏の前半生の記録と 私という編集者が 西田税氏の仏壇の前で交結したのである。西田税氏と末松太平氏との関係を知る人には、ひとつの因縁といえるかもしれぬ」
   
◎この日 高橋氏は西田夫人から「政経新論」3冊を借りて熟読。数日後に「政経新論社/丸の内の三菱四号館」で 末松太平に「初対面の挨拶」をしている。そして、翌年の2月には「私の昭和史」が出版されている。
◎「私の昭和史」の「まえがき」には「本書の註は、読者の理解の一助として、みすず書房編集部の高橋正衛氏が、附したものである。末松太平」と記されている。
・・・詳細に記された「註」は合計40箇所。「初対面」から「出版」までは僅か半年間。よくぞここまで仕上げたものだ!。高橋正衛氏の力量には感服するしかない。

◎「一冊の本を公刊するという行為は 一編集者の個人的感激のみでなされるべきでない。公的な価値判断の検証、公刊による文化的影響の責任ということが先行する。末松氏に会って後、原稿全部をいただいて、社内の当然の検討・手続きを経て世に出たのである。/『私の昭和史』は重大な意味を持っていた。それが何であるかは、もとより本書を読まれれば理解しうる。またこの本の巻末に附されている『刊行者のあとがき』を読んでいただければ、なお幸いである。この『あとがき』は昭和38年という時点で本書が刊行されるにあたっての思想的配慮をすべきである、という一学者の御忠告により、この学者の多大の協力により書かれたものである」
・・・高橋氏に忠告した「一学者」は「久野収氏」だったようである。

◎第102回と第103回は「西田氏の仏壇の前/『二・二六事件異聞』と出会う」と「わが子に書き残す/青春賭けた運動の鎮魂歌」である。
・・・書き残された「わが子=私」は当時22才。しかし 当時の私は「事件」に全く興味を示さずにいた。

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《「年表・末松太平」1963(昭和38)年。/末松太平=57歳~58歳。私=22歳~23歳。》
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◎1963年2月26日。《末松太平著「私の昭和史」みすず書房》発刊。
・・・本書の著者紹介には 未だ「ベストン(株)勤務」とは記されていない。
★資料★・・・・・・・・・・
《新聞雑誌に掲載された「書評」の数々》
●三島由紀夫/「中央公論」1963年5月号。
●三島由紀夫/「週刊文春」1963年8月14日号。
●今井清一 /「東京新聞」1963年3月13日号。
●尾崎秀樹 /「朝日ジャーナル」1963年5月5日号。
●木村毅  /「読売新聞」1963年3月。
●竹内好  /「みすず」1963何5月号。
●橋川文三 /「みすず」1963年7月号。
●村上方一 /「陸奥新報」1963年。



★資料★・・・・・・・・・・
《高橋正衛「歴史と人物」/「中央公論」1981年2月号。》
「『私の昭和史』は、二・二六事件に関わった軍人に、学会・思想史研究の分野の、学問的市民権を確立した書であった」
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(末松)
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◎「新版/年表・末松太平」/(19)「政経新論」編集主幹◎

2023年03月27日 | 年表●末松太平
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《「年表・末松太平」1960(昭和35)年/末松太平=54歳~55歳/私=19~20才。》
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◎所謂「60年安保」の年である。
・・・前年、大学受験(国立大学一校だけ)に失敗して「一浪」だった私は、二浪を避けて「国立2期校」も併せて受験。/結局(当時は2期校だった)東京学芸大学に入学。国会デモに連日でかけるようになる。

◎末松太平に「安保」関連の動向はない。
・・・1960年6月頃、私も参加していたデモに「維新行動隊」のトラックが突っ込み、暴れた。
・・・その数日後、石井一昌氏(維新行動隊・隊長)が、末松太平宅に現われる。/維新行動隊は「護国団」の若手組織。佐郷屋嘉昭氏(護国団代表)と末松が「親しい仲」なので 石井氏来訪も不思議ではない。しかし、末松から「期待した発言」が得られず、石井氏は失望して立ち去った。私も少しだけ同席し、場違いな発言で石井氏を怒らせた。

◎1960年6月15日夜。全学連は国会議事堂の南通用門から突入。東大生の樺美智子さんが死亡した。
・・・私は(突入する意義が理解できず)南通用門の「外側」にいた。騒乱状態の中で、私は(終電車を気にして)現場を立ち去った。まさに「ノンポリ」そのものだった。/私は友人の戦利品(機動隊員の雨具一式)を、面白半分に持ち帰った。末松太平は「くだらないことをするな」と激怒。後日、警視庁に返却にいった。/「右翼」として(公安に)監視される立場だったから、警視庁にも「友人」がいたわけである。

◎1960年秋。衆議院議員選挙。
・・・私は学友(「社青同」が多かった)に誘われて、社会党候補の選対本部に(押しかけ応援で)泊りこんだ。
・・・選対本部は立川市内にあり、家庭教師のバイト先は千葉市内にあった。私は大学(小金井市内)の授業が終ると、千葉市に向い、バイトを終えて夜中に立川市に戻った。/「立川駅~千葉駅」という長距離区間を電車を乗り継いで往復し、選対本部の2階で深夜のビラ作りに励む。選対の3階には万年床が2組あって(男性女性を意識せず)一緒の布団で熟睡していた。



◎1960年11月18日、夜。私は「公職選挙法文書違反現行犯」として逮捕された。
・・・武蔵野署の取調べに対し 私は(立候補者に迷惑をかけぬため)黙秘権を行使。8泊9日の留置場生活(身柄送検、起訴猶予)となった。/留置中の武蔵野署に「右翼」のA氏が(末松太平の依頼で)激励に現れ、刑事は「左翼学生に何故右翼?」と驚いた。

◎1960年。雑誌「政経新論」発刊。
・・・政経新論社は「千代田区丸の内3丁目 三井仲4号館5号」にあった。編集兼発行人は片岡千春氏。当時「その世界」では顔の利く人物だったと思う。/片岡氏には 一度だけお目にかかったことがある。末松太平のお伴で「政経新論社」を訪れ 近くの喫茶店に案内された。片岡氏が「ステテコ姿」で 丸の内のビル街を歩いたので 吃驚した記憶がある。
◎末松太平の肩書きは「政経新論主幹」で 編集の傍ら「二・二六事件異聞」を連載しはじめる。
・・・この時点では この「連載」が後日「1冊の書籍」になるとは想像していない・・・筈である。

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《「年表・末松太平」1961(昭和36)年。/末松太平=55歳~56歳。私=20歳~21歳。》
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◎1961年。雑誌「新勢力」2月号掲載。末松太平「そこに革新するものがあるから」
・・・この号には 河野司(仏心会代表)も書いている。
・・・この頃から「河野+末松」の名前が目立ち始める。
・・・「政経新論」連載中の「二・二六事件異聞」では  カットも自分で描くようになった。

◎1961年7月12日。処刑場跡で「刑場跡慰霊祭」及び「26回忌法要」。
・・・斎場跡に「慰霊柱」を残す。当時は未だ「処刑場跡」は「米軍施設内」であった。
・・・米軍施設内への立入人数を制限されて、約50名が参列。末松太平が参列したかどうかは不明。

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《「年表・末松太平」1962(昭和37)年。/末松太平=56歳~57歳。私=21歳~22歳。》
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◎「政経新論」1962年2月号。/「二・二六事件特集号」。
・・・「二・二六事件異聞/蹶起の前後(その2)」
◎「政経新論」1962年6月号。「二・二六事件異聞/映画『脱出』について」。
◎「政経新論」1962年8月号。「二・二六事件異聞/刑場の写真」。
・・・この2編は、その後《「軍隊と戦後の中で」1980年・大和書房刊》に収録されている。
・・・東映映画「脱出」は、事件当日、首相官邸から岡田啓介首相を脱出させる過程を描いた作品。
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◎「新版/年表・末松太平」/(18)仏心会概史◎

2023年03月27日 | 年表●末松太平
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《「年表・末松太平」1957(昭和32)年。/末松太平=51歳~52歳/私=16~17才。》
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◎1957年2月26日。麻布賢崇寺「22回忌法要」 

◎1957年。《河野司編「二・二六事件」日本週報社刊》

  

・・・仏心会代表・河野司氏。河野寿大尉(湯河原の病院で自刃)の実兄。
・・・処刑直後(1937年)事件関係服役者名簿(憲兵隊に協力依頼)を作成。/留守家族の慰問訪問を開始。同時に、遺書・手記・関係書類の蒐集に奔走した。
・・・事件の概要が、正確に把握できるようになったのは、まさに「河野司氏の功績」である。
・・・河野司氏には多数の著作があるが、初心者向きには《河出文庫「私の二・二六事件」》が判りやすい。

★重要資料★・・・・・・・・・・
《「仏心会概史」。平成7年に河野進氏が作成したものである》


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●1936(昭和11)年7月12日。/第一次死刑執行(15名)。
・・・死刑執行後、栗原勇大佐(栗原中尉の父)の主唱で遺族会の賛同を得る。
・・・後日、遺族会の名称を「護国仏心会」と名付け、栗原勇氏を代表とする。目的は、遺族の物心両面の相互扶助、故人の慰霊法要、合同埋葬の実現。後に事件関係資料の調査蒐集が加わった。

●1936年10月12日。/賢崇寺において「最初の慰霊法要」を営む。遺族10家参列。
●1937年2月26日。/事件1周年。当局の警戒酷しい中、賢崇寺で事件殉難の重臣・警察官を合わせた「全物故諸霊の追悼法要」を行う。/以来、2月26日の法要は「全殉難者を合祀」して行うこととなる。
●1937年8月19日。/第二次死刑執行(4名)。後日、4名の分骨も賢崇寺に合祀し、22霊となる。
●1938年2月26日。/「全殉難者3回忌法要」。
●1944年。/空襲激化により、会員の疎開相次ぐ。
・・・栗原代表も離京の事態となり、10月以降は月例法要(毎月12日に行われていた)その他、一切の活動を停止。
●1945年4月15日。/戦災により賢崇寺焼失。

●1947年4月。/賢崇寺仮本堂建立。
●1950年3月。/河野司(中国から帰国後、福岡市に在住)が東京に転居。
・・・栗原勇代表(大阪府に在住)の委嘱により「護国仏心会」の再興に着手。

●1951(昭和26)年7月12日。/「護国仏心会」を「仏心会」と改称。代表=河野司。
・・・「再興第1回法要(16回忌法要)」を賢崇寺で営む。7遺族及び関係者の計15名参列。月例法要を再開。
●1952年7月12日。/「二十二士之墓」建立。開眼供養を行う。参列者120名。
●1954年4月。/栗原前代表、東京に復帰。同年10月に死去。
●1955年2月26日。/「全殉難者20回忌法要」にあたり、遺品・資料等の初めての展示を行う。
●1956年7月12日。/21回忌法要。
・・・これ以後、月例法要を取りやめ「2月26日」と「7月12日」の年2回となる。
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この頃の写真。千葉市登戸の自宅前で弟と。
・・・この門柱は現在(年表初版の作成時)もあるが、2階部分は改築した。

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《「年表・末松太平」1958(昭和33)年。末松太平=52歳~53歳。私=17歳~18歳。》
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◎潮干狩りを楽しむ「末松太平と仲間」の家族たち。
・・・我家(千葉市登戸五丁目)から遠浅の海までは徒歩10分。潮干狩り+我家で小宴。
・・・この「グループ」は「同じ会社の社員達」だと思えるが 社名は不明。
・・・末松太平の「勤務先」の人達なのか「知人の会社」の人達なおのか 今では知りようがない。
・・・撮影年月日も不明。もしかすると「1956年~57年」辺りかも知れない。

◎この頃、私は「防衛大学での集まり」に(末松太平から)誘われる。
・・・「元軍人」としての「思い」もあったと思うが 貧困家庭の世帯主としては「授業料不要」が魅力に感じたのだと思う。
・・・私は「親父の誘い」を拒否。防衛大学の催しには弟が同行した。
(数年後 弟も「普通の国立大学」に進学した。)

◎1958年2月26日。賢崇寺「全殉難者23回忌」法要。
・・・この日初めて「殉難警察官」の遺族が参列した。

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《「年表・末松太平」1959(昭和34)年。/末松太平=53歳~54歳。私=18歳~19歳。》
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◎1959年4月。「アジア同志社」を中心として、事件関係社の「大赦」請願書を提出する。
・・・法務省からの回答は「既に昭和20年9月2日に勅令により大赦になっている」とのこと。
・・・当局から「証明書」を取り 各遺族に通知する。

◎1959年7月12日。「大赦報告墓前祭」開催。参列者=180名。
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◎「新版/年表・末松太平」/(17)映画『反乱』+公開対談◎

2023年03月27日 | 年表●末松太平
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《「年表・末松太平」1954(昭和29)年。/末松太平=48歳~49歳。私=13~14才。》
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◎1954年1月。新東宝映画「反乱」封切。
◎千葉市の映画館のステージで「立野信之・末松太平」の公開対談が行われた。
・・・この公開対談は地元紙の千葉日報(当時は「千葉新聞」?)に掲載された。
★「映画上映+歌手実演」が珍しくなかった時代だが「映画上映+対談」には驚いた。
・・・これを機会に「千葉新東宝」から無料招待券が届くようになる。私が映画マニアになる遠因である。

★私は、この時点でも「二・二六事件」の名前は知っていたが「どういう事件か」は知らなかった。
・・・末松太平も(息子には)事件のことを話さなかった。だから映画館で「対談」を聞いていても、全く理解できなかった。

★予備知識が皆無だから映画の印象は強烈で 相沢中佐(辰巳柳太朗)、栗原中尉(小笠原弘)、安藤大尉(細川俊夫)、磯部浅一(山形勲)の方々は ご本人よりも俳優諸氏のイメージの方が(今でも)強かったりしている。
香田大尉を演じたのが丹波哲郎。まだ新人だったので(メインキャストなのに)ポスターに名前がない。かなり強烈な印象で、香田大尉というと丹波哲郎の顔が浮かぶ。賢崇寺法要などで会う香田氏(大尉の甥)は 元オマーン大使の穏やかな紳士。丹波サンのイメージはない。
・・・末松太平は 北一輝(鶴丸睦彦)が「ヨボヨボ爺さん」なので立腹していた。北一輝=享年52。ヨボヨボ爺さんであるわけがないのだ。



◎映画「叛乱」は「千葉新東宝」では 3週間ほど上映されていた。
・・・当時は「毎週新作封切」が映画興業の定番で 新東宝映画の正月第2弾が「叛乱」であった。古い自筆メモによると 私は1月4日と1月6日に「叛乱」を観ている。
・・・1月16日。私は(無料招待券で)正月第3弾「娘十六ジャズ祭り」を観て 熱烈な「雪村いづみファン」になった。
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《「年表・末松太平」1955(昭和30)年。/末松太平=49歳~50歳。私=14~15歳。》
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★資料★・・・・・・・・・・
《週刊新潮「墓碑銘」1993年2月4日号掲載。》
「戦後も青森をしばしば訪れている。古い友人である竹内俊吉青森県知事の選挙運動を応援したり、第五連隊当時の仲間に会うのが楽しみだった。」

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《「年表・末松太平」1956(昭和31)年。/末松太平=50歳~51歳。私=15歳~16歳。》
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◎ある資料には「昭和31年は約1ヶ月、青森に滞在している」と記されている。
◎昭和31年~36年にかけて 雑誌「青森県評論」に あれこれ書いている。
・・・内容は「二・二六事件とは無関係」なエッセイである。


★資料★・・・・・・・・・・
《末松太平の「遺品」から。/スクラップブックに遺された「青森県評論」寄稿作品の数々。》
●01/「私の現在の心境/それを問われた老人への答として」
●02/「橋の穴・運河の死体」、「燕の来た頃のおもい」、「『修身科』のこと」
●05/「ペスタロッチの墓碑銘からの連想」
●06/「裏表/うらおもてわからぬ人を友とせよ、このてがしわのとにもかくにも」
●07/「美辞麗句とエキゾチックな扮装」、「原型の国、大乗の国」
●09/「私の現在の心境」、「続・私の現在の心境」、「赤旗の限界」
●12/「ローマ・オリンピックの後に/意気地ということから」
●13/「陽春断想」、「筆の向くまま」、「選挙民政治」
●16/「『極東』ということ」、「わが訴え、わが願い」、「否定・肯定」
●19/「しがこもとけて/冷戦の氷がとけるというから」
●20/「私の再軍備論/世界全体無軍備にならないうちは、日本の無軍備はありえない」
●21/「ままならぬ世の中」
●22/「どうお考えでしょうか/深沢七郎の『風流夢譚』について」
●23/「年頭の感として/技術革新と人間生活のギャップを埋めるもの」
●24/「対岸の火災をみて自家の火元の点検をすること」
●25/「軍隊教育からみた青森県民性の長短所」
●26/「水泳と僕」、「紀元節復活」、「暇(ひま)」
●29/「百の寺を建てるより一人を救うこと」
●30/「一街頭ビラからの随想」、「青森県礼讃」
●32/「何たる失政ぞ/六月十八日に想う」
●33/「生の文明・死の文明」、「共通の地球」、「私の切手週間」
●36/「沈丁花を荒らしたのは誰だ!/住みよい社会をつくる方法はただ一つ」
●37/「客観的批判を/平和と友愛と自由のために」
●38/「筆の運ぶままに/退歩的野蛮人の手記」
・・・以上 順不同。掲載順ではありません。
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コメント

◎「新版/年表・末松太平」/(16)大岸頼好と新興宗教◎

2023年03月27日 | 年表●末松太平
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《「年表・末松太平」1951(昭和26)年/末松太平=45歳~46歳/私=10~11才。
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◎1951年の夏。大岸頼好が夫人同伴で、東京に現れる。
・・・そして、末松太平に「新興宗教」布教活動の協力(旧知旧友集めの斡旋役)を依頼する。
・・・1951年の秋。末松太平は「大岸頼好のお伴」で青森に行く。

★資料★・・・・・・・・・・・
《佐藤正三「一期一会・大岸さんを偲んで」/「追想・大岸頼好」1966年3月刊からの要約。》
「『改造法案』の西田税に『皇国維新法案』の大岸頼好という、二大潮流が青年将校運動の中にあるのだといった考え方が、私の漠然たる理解の仕方であった。その頃の若い私にとっては、北一輝の『純正社会主義』が魅力だった。/しかし、相沢中佐事件、二・二六事件を通じて、大岸さんの存在の大きさに気付くようになっていった。一度お会いしたいと覚えたのは、二・二六事件の獄中のことであった。/(佐藤正三は出獄後、竹内俊吉の手引きもあって『東奥日報』に就職し、やがて上京し『昭和通商』に入社した)/『昭和通商』の第一課長は大岸さん、第二課長は竹内さんだった。私は第二課に所属し、ソ連研究を受持たされて、再度応召の昭和十九年まで御世話になった。」
「再度応召は(病弱理由で)即時帰郷となり、私は弘前に居着いてしまった。大岸さんにも、末松さんにも御無沙汰のし通しだった。/突然、末松さんから『近く大岸さんと一緒に弘前に行く』という連絡があったのは、昭和二十六年十月のことであった。その日、私は成田さん(元昭和通商社員)のお宅に駆けつけた。八畳か十畳の部屋にぎっしり人がつまっていて、もう神事が始まっていた。末松さんから『新興宗教の集り』とは知らされてなかったので、私は吃驚してしまった。/そこには和服姿の大岸さんの姿があり、傍の末松さんも神妙に仕えている。これは、いったいどうしたことであろうか。私にはどうしても、その場に溶け込めないものがあった。私としては、何年ぶりかで、大岸さんや末松さんにお会いし、教えを受けたいという気持ちで一杯だったのだ。/次々と神事が繰り返され、せめて御挨拶だけでもと機を覗っていたのだが、それさえ出来ぬまま、私は逃げ出すように帰ってしまったのである。/(大岸さんが宗教的なところに入っていった経緯は知らないが)大岸さんと末松さんの人間的結びつきの深さに思い至った。/大岸さんが鎌倉の寓居で亡くなられたのは、その僅か四ヶ月後のことであった。」
「大正十四年五月、桜の花びらの降り敷く青森第五連隊の営庭に、大岸少尉、末松士官候補生の姿が目に浮かぶ。小学生の私もまた同じ津軽の春の桜のもとで遊んでいた。この青森という土地が、大岸さんと私を結びつけた因縁の糸であったのだ。」

◎小学生だった私には「新興宗教のお祈りをしている父親の姿」の記憶がある。
・・・床の間に向かい、鈴を鳴らしながら「詔」を唱えていた。途切れ途切れの記憶だが「君 鈴振りませ、我・・マイナ」という部分のメロディが耳に残っている。末松太平が新興宗教に帰依したとは思えないから、一種の「体験学習=大岸氏の思いを疑似体験してみる」のつもりだったのだろう。


◎新興宗教の名称は「千鳥会」。写真=末松太平の「遺品」から。生原稿のタイトルは「千鳥の栞」。

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《「年表・末松太平」1952(昭和27)年。/末松太平=46歳~47歳。私=11歳~12歳。》
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◎1952年1月末。大岸頼好、結核で死去。
・・・西田税と大岸頼好の死で「末松太平の青春」は終わった。ここからは残生。師のいない人生である。
★資料★・・・・・・・・・・
《大槻士郎「大岸さんを想う」/「追想・大岸頼好」1966年3月刊からの要約》
「大岸さんとの出逢いは全くの偶然だった。昭和十五年、大学二年に進学した春、大陸では日支の戦いが拡大し、国際情勢の緊迫も深まり、学生生活も影響を受け始めていた。/ある日、私の下宿先を訪れた二人の東大生から『日本青年文化協会』の計画(東南アジアからの留学生との接触に関心を持つ学生の寮を作る)への参加を誘われた。/やがて 千駄ヶ谷に学生寮(寮生六名)が完成し『待花寮』と名付けられた。そして初めて 大岸さんに会った。/日本文化協会と寮との連絡は、協会職員の秋枝寛二氏が担当した。寮生活は学生の自主管理に委せる約束だったが、次第に協会との関係は悪化していった。私が大岸宅や(杉並天沼の)末松宅を度々訪れるようになったのは、この頃からである。」
「『街花寮』を出た私は、早稲田穴八幡近くの『大岸さん関係の事務所』に寄寓したが、寮生との繋がりは続いていた。/昭和十六年十二月、大東亜戦争勃発と共に(卒業繰上げで)軍隊に送り込まれた。大岸さんの勤務先『昭和通商』に(竹内俊吉氏の紹介で)入社することになっていたが、実際に勤務したのは(入隊までの)一ヶ月余に過ぎなかった。/敗戦の翌年、私は南方の孤島から(抑留に近い屈辱を経て)帰郷した。大岸さんは郷里の土佐に、末松さんは千葉に健在と知ったのは、帰還後暫くしてからだった。」
「やがて私は(土佐の田舎に)大岸さんを訪ねるようになった。最初の訪問から約四年間、私は毎年一,二度は土佐を訪れた。長いときは一週間も十日も滞在した。すっかり成長した大岸さんの長男や次男と、農業の真似事もし、大岸さんの魚穫りのお伴もした。」
「大岸さんと最後に会ったのは、昭和二十六年九月の初めである。当時私は仕事の関係で神戸に住んでいた。そこに『鎌倉から帰る途中に神戸に寄る。是非会いたい』という葉書が届いた。/新興宗教千鳥会などに入信と言う話は 全然聞いていなかった。私は不審に思いながらも、弟と二人で指定されたホテルに赴いた。豪華にしつらえられた神棚の前に、ゲッソリ痩せた大岸さんが奥さんと一緒にいた。『痩せましたね』と心配する私に『現世の罪の禊ぎだ』などと悟りきったような返答には、返す言葉に窮した。広間での食事の後、天杖、鈴振りの実演があった。この世での見納めになるとも知らず、私は白々しい気持ちでホテルを辞したのであった。」
「大岸さん死去の第一報は一月末、長男啓郎君から、また二月に入って末松さんからは、死の前後の事情を詳細に記した手紙を貰った。事情を知れば知るほど、無性に腹が立って仕方なかった。二月十日の告別式には『寮友』の荒木君に代表して参列してもらった。正直言って、私は、どうしても参列する気になれなかった。私が、大岸産の霊前に参じたのは、昭和三十九年二月二十六日、十三回忌の当日だった。」



◎1952年2月26日。

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〈「年表・末松太平」1953(昭和28)年。/末松太平=47歳~48歳。私=12歳~13歳。》
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◎相変わらずの貧乏生活が続いている。

★資料★・・・・・・・・・・
《読売新聞(1953年2月10日)掲載。「遺された言葉」》
「戦後は 妻敏子さんの実家がある千葉市に引きこもり、文章などで生計を立てたが、三人の子を抱えて、苦労の連続だった。」

◎私の記憶では 大衆時代小説専門の出版社(社名は失念)の校正をしていた時期がある。
・・・末松太平の「書斎」には、時代小説の生原稿やゲラ刷りが山積していた。生活苦にも拘わらず『自分の書斎』があるのが、末松太平らしい生き方である。
◎妻敏子は『下宿人の世話』を続けていた。
・・・朝食夕食の世話は(金銭的なヤリクリもあって)苦労の連続だったと思う。
◎終戦直後の住宅難は未だ解消されていなかった。
・・・私の級友のなかには『軍都千葉の遺物=兵器倉庫だった建物』の片隅に居住している者もいた。そうした級友の住居(倉庫の片隅)にも違和感なく遊びに行っていた。/日本中が貧しかった時代である。日々の生活に追われながらも『義父(久保三郎)の持ち家』は 庭も家屋も広かったので 級友たちの溜まり場になっていた。」
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コメント

◎「新版/年表・末松太平」/(15)進駐軍の支配下で・・・◎

2023年03月27日 | 年表●末松太平
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《「年表・末松太平」1946(昭和21)年。/末松太平=40歳~41歳。私=5才~6才》。
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◎終戦直後の生活に追われる日々。
★資料★・・・・・・・・・・
《週刊新潮「墓碑銘」1993年2月4日号掲載。》
「戦後の生活は苦しかった。夫人がデパートの下請けとして洋裁などをやって家計を支え、三人の子供を養育した。」
・・・「家計を支えた」のは事実だが「デパートの下請け」かどうかは(小学校入学前の私には)記憶にない。

◎やがて「家計のため」自宅2階に学生二人を下宿させる。部屋代の一部は「家主=久保三郎宅」に届ける。
・・・初代の下宿人は、東大第二工学部に在学中の石川六郎氏(後の鹿島建設会長)と吉田氏の二人である。
・・・末松太平は「下宿屋のオヤジ」になっても威張っていた。部屋を貸すのも「家計のため」ではなく「学生援助のため」だと思っていた気配もある。下宿人にとって「迷惑な存在」だったと思う。

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《「年表・末松太平」1947年(昭和22)年。/末松太平=41歳~42歳。私=6歳~7歳。》
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◎終戦直後の生活に追われる日々。
・・・客観的な資料(出版物とか)が殆ど見当たらない。

◎余談/昭和22年頃 秋葉原に「太平通商(株)」という会社があったという。
・・・ビルの窓に大きく書かれた社名が 総武線電車の窓からよく見えたという。
・・・大岸頼好の会社「昭和通商」のマネのような会社だったが すぐにつぶれたという。
★証言★・・・・・・・・・・
《久保晃(義弟)の記憶》
「昭和23年。久保晃、早稲田大学入学。アルバイトの件を ここ(太平通商)で心配してもらった。西田税の実弟が 特許局(現・特許庁)の技官で『青年互助協会』を主宰していた。バイトを監督していたのは(西田税の使い走りだった)佐藤某で『末松先生』と言っていた。佐藤某という人物は佐藤正三ではない。」


◎1947年4月。長男・建比古(私)が「千葉市立登戸小学校」に入学。
・・・ランドセルの代用品は(軍隊時代に使用した)革製の「背嚢」であった。

◎食糧難で「買出し」に追われた日々。箪笥の着物が米や野菜に化けた日々。
・・・母のお伴で「豊四季」や「那古船形」へ「買出し」に出掛けた記憶がある。
・・・電車のドアが(壊れていて)開いたままだった光景。車内や駅頭での「警察の抜打検査」の光景。
・・・食料は没収されるので「私が捕まっても貴方だけは構わずに逃げなさい」という母の教え。
・・・千葉神社境内の「闇市」の光景。私が「小学一年生」だった頃の記憶である。

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《「年表・末松太平」1948(昭和23)年。/末松太平=42歳~43歳。私=7歳~8歳。》
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◎敗戦後の生活に追われる日々。
◎1948年10月26日。名古屋で「勝谷文信」の仲人を務める。


★関連資料★・・・・・・・・・・
《田村重見編「大岸頼好 末松太平/交友と遺文」掲載。勝谷文信の報告書。》
「私は、昭和18年(拓殖大学二年の時に)学徒動員令に依り朝鮮竜山の歩兵部隊に入営。その後、航空部隊に転科して飛行機乗りになりました。/昭和20年2月頃、仙台の東部第五四〇部隊に転任になり、先任将校の田村先輩(拓大出身)と出会いました。暫くして田村先輩は軍需省生産戦指導部に転任されましたが、私も陸軍空軍特攻隊員に編成され、平常心にて死地に赴けるような精神教育を受けていました。/戦況不利となり そして敗戦国となり 我々は死から見放されて生き残ることになりました。しかし特攻隊員としての長い月日、立派に死ぬことのみを教育され洗脳されていた私は 暫くは放心状態でした。/たまたま田村先輩が東京に居られると聞いて、上京し『鷺ノ宮』に行きました。故相沢中佐の住居は 未亡人及び家族が宮城県に疎開していたので 留守宅には『梁山泊』として、五・一五事件、二・二六事件の残党と拓大の先輩方が居られました。」
・・・そして1993年1月。勝谷文信は「車椅子に乗って」末松太平の葬儀に遠方から駆けつけた。

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《「年表・末松太平」1949(昭和24)年。/末松太平=43歳~44歳。私=8歳~9歳。》
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◎貧困生活の日々。
・・・家は広いので「同居家族=満州時代に御縁のあった方々」がいたり 時には「居候のような人」がいたり・・・。

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《「年表・末松太平」1950(昭和25)年。/末松太平=44歳~45歳。私=9歳~10歳。》
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◎貧困生活の日々。
・・・当時の私(小学三年生)にとっては「普通の生活」だったと思う。
・・・住居は徐々に老朽化が目立ちはじめて 特に「茶の間」の雨漏りは凄かった。
・・・今で言う「デザイナーハウス」的な試みがある家で「2偕の洋間」は「アトリエ/20畳ほどの広さ」を意図されていた。アトリエの周囲は「広いベランダ」で 遠方から眺めると「白いペンキ塗りの洒落た二階屋」といった風情だった。


★資料★・・・・・・・・・・
《雑誌「道標」1950(昭和25)年発行。非売品。/末松太平「随筆/話さない方がよいはなし」。》
●道標発行所=弘前市富田大通り大谷方。編集発行印刷人=大谷誠藏。非売品である。
●雑誌「道標」第5号(昭和25年5月発行)も遺されていたが 表紙に「落丁」とメモされていた。
・・・目次を見ると「随筆/ティ・ファンラ・マー」を寄稿している。
・・・「道標」には「佐藤正三との関係」があって寄稿したのだと思う。
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