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《「年表・末松太平」1966(昭和41)年。/末松太平=60歳~61歳/私=25~26才。》
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◎1966年2月26日。事件満30年、大赦20年、慰霊像建立1周年。
・・・渋谷公会堂地下会場で「全殉難者31回忌法要」ならびに記念行事を行う。
・・・世話人代表は、荒木貞夫元大将。参会者約300名。
◎1966年。雑誌「人物往来」2月号に「悲哀の浪人革命家」を掲載。
・・・西田税のことを書いたもので、松本清張著「昭和史発掘・8」文春文庫版に引用されている。
◎1966年3月。大岸頼好死去15年の記念誌「追想・大岸頼好」を編集。
・・・90頁の冊子。末松自身は「少尉殿と士官候補生」を寄稿している。
・・・寄稿者紹介欄を見ると「末松太平=ベストン㈱役員」とある。小田急系列の会社。
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◎1966年5月。広告会社勤務の私は「労働組合結成の余波」で、福岡支社(当時は出張所)に転勤。
・・・会社側は「それなりの理由」を挙げたが あきらかな「左遷」。滑稽なことだが「総評から送り込まれたオルグ」と誤解されたらしい。会社側の依頼した「探偵」が、デタラメな報告書を書いたと思われる。尤も私自身の言動が「過激」だったのは事実である。
・・・自宅(千葉市登戸5丁目)を離れた私は、末松太平が死去するまで「同居」することはなかった。
・・・「福岡時代の住居」の現況(2003年撮影)。福岡市荒戸1丁目。博多湾の漁港が近い。
写真手前(空き地)には「蕎麦屋」があった。駐車場のシャッターを開けて入り「駐車場の屋上」に登ると、孤立した部屋(画面右端)に到達。台所もトイレもガス水道もなく、寝に帰るだけの住居だった。ワイシャツだけは「クリーニング」に出したが、下着靴下はポリバケツで洗って屋上に干した。
・・・26歳~30歳直前までの4年間 この部屋に住み続けた。
◎1966年9月。村中孝次の遺書「同志に告ぐ」が発見される。
・・・宛先は「菅波、末松、明石、大蔵、志村、市川、朝山、杉野、黒崎、北村、諸盟兄」で、昭和11年8月17日に、獄中で書かれている。
・・・この全文は「政経新論」1967年1月号に掲載された。この号の編集は「M・T生/高橋正衛?」に替っている。
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《「年表・末松太平」1967(昭和42)年。/末松太平=61歳~62歳。私=26歳~27歳。》
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◎千葉市(末松太平)と福岡市(私)に離れての日々。末松太平の「日常生活」は把握できない。
◎雑誌「四国不二」3月号掲載。末松太平「大岸少尉と『兵農分離亡国論』」。
◎雑誌「四国不二」6月号掲載。末松太平「坂本竜馬のような人」。
・・・2篇とも 大岸頼好についての回想。その後《末松太平著「軍隊と戦後の仲で」大和書房刊》に所収。
◎私の福岡生活は 2年目。そろそろ「東中州」のネオン街に馴染んできた頃である。
《「年表・末松太平」1966(昭和41)年。/末松太平=60歳~61歳/私=25~26才。》
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◎1966年2月26日。事件満30年、大赦20年、慰霊像建立1周年。
・・・渋谷公会堂地下会場で「全殉難者31回忌法要」ならびに記念行事を行う。
・・・世話人代表は、荒木貞夫元大将。参会者約300名。
◎1966年。雑誌「人物往来」2月号に「悲哀の浪人革命家」を掲載。
・・・西田税のことを書いたもので、松本清張著「昭和史発掘・8」文春文庫版に引用されている。
◎1966年3月。大岸頼好死去15年の記念誌「追想・大岸頼好」を編集。
・・・90頁の冊子。末松自身は「少尉殿と士官候補生」を寄稿している。
・・・寄稿者紹介欄を見ると「末松太平=ベストン㈱役員」とある。小田急系列の会社。
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◎1966年5月。広告会社勤務の私は「労働組合結成の余波」で、福岡支社(当時は出張所)に転勤。
・・・会社側は「それなりの理由」を挙げたが あきらかな「左遷」。滑稽なことだが「総評から送り込まれたオルグ」と誤解されたらしい。会社側の依頼した「探偵」が、デタラメな報告書を書いたと思われる。尤も私自身の言動が「過激」だったのは事実である。
・・・自宅(千葉市登戸5丁目)を離れた私は、末松太平が死去するまで「同居」することはなかった。
・・・「福岡時代の住居」の現況(2003年撮影)。福岡市荒戸1丁目。博多湾の漁港が近い。
写真手前(空き地)には「蕎麦屋」があった。駐車場のシャッターを開けて入り「駐車場の屋上」に登ると、孤立した部屋(画面右端)に到達。台所もトイレもガス水道もなく、寝に帰るだけの住居だった。ワイシャツだけは「クリーニング」に出したが、下着靴下はポリバケツで洗って屋上に干した。
・・・26歳~30歳直前までの4年間 この部屋に住み続けた。
◎1966年9月。村中孝次の遺書「同志に告ぐ」が発見される。
・・・宛先は「菅波、末松、明石、大蔵、志村、市川、朝山、杉野、黒崎、北村、諸盟兄」で、昭和11年8月17日に、獄中で書かれている。
・・・この全文は「政経新論」1967年1月号に掲載された。この号の編集は「M・T生/高橋正衛?」に替っている。
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《「年表・末松太平」1967(昭和42)年。/末松太平=61歳~62歳。私=26歳~27歳。》
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◎千葉市(末松太平)と福岡市(私)に離れての日々。末松太平の「日常生活」は把握できない。
◎雑誌「四国不二」3月号掲載。末松太平「大岸少尉と『兵農分離亡国論』」。
◎雑誌「四国不二」6月号掲載。末松太平「坂本竜馬のような人」。
・・・2篇とも 大岸頼好についての回想。その後《末松太平著「軍隊と戦後の仲で」大和書房刊》に所収。
◎私の福岡生活は 2年目。そろそろ「東中州」のネオン街に馴染んできた頃である。