◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎幻の名書《相澤正彦著「大岸頼好論序説/敗戦との闘い」》国民新聞社刊◎

2024年06月26日 | 末松建比古
相澤正彦氏(相澤三郎中佐の御長男)は 相澤中佐が刑死直前に記した遺言で「相澤家・第十三代」を託された。幼少の身で「第十三代」を託された正彦氏は 相澤家の「当主」として 戦中戦後の混乱期を乗り切ることになる。
今回は 相澤正彦氏の「幻の著書」をご紹介。相澤家(東京都中野区鷺宮)を舞台に展開した「戦後混乱期の記録」には、知られざるエピソードも多々含まれている。 


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《大岸頼好論序説/敗戦との戦い》
・・・現代史懇話会「史」№86・1994(平成6年12月号)

◎はじめに◎
大岸頼好は、ここに改めてその軌跡を紹介するまでもなく、大正末期から昭和の終戦直後の混乱期にかけて、所謂革新運動(昭和維新)の先駆性を遺憾なく発揮し、時代を駆け抜けていった傑物である。北一輝、西田税らとは、その天皇論をめぐり若干の主要点の相違から、革新陣営内において対峙的に位置づける捉え方が一般的である。(以下、4行割愛)
昭和2年12月、いわゆる「怪文書」にはじまり 幾多の檄文、論文、大綱案に類するものを 公然・非公然裡に世に出してきたが、これは本人の精神理念に基づき、激動する時局を見据える理想・意識の昂まりと、迸る情念のなせる業とみるべきであろう。いみじくも、敗色漂いはじめた昭和十九年春、満州交易会社を設立して新京にあった大岸は、同志の問いに対して「(私は)相変わらず抽象論を言っていますがネ、もっともな抽象論は もっともな具体論だと思ってる・・・」と煙に巻いて、ここらが大岸哲学の神髄のあるところと捉えられたりしていたようである。
本文末尾に抜粋を紹介する『是々否々』(原文のまま)一巻は、大岸の筆に成る、国体明徴と天皇親政に裏打ちされ、一部の停戦をも視野に入れた戦争遂行案とも謂うべきもので、敗戦の年の三月、大岸(当時、満州交易株式会社常務)は東京出張という名目で、本土に帰還の前後から構想を練り、五月初め頃より一気呵成に筆で浄書したものである。(以下、6行割愛)。

  

◎相見える◎
私が大岸頼好の名前を知ったのは、父(相澤三郎)が青森から秋田の歩兵連隊に転じた昭和七年秋頃である。当時、三日にあげず深更まで、民間人も交えた軍人達が客間に集まり、酒宴での声高な論争、襖ひとつ隔てた私の寝所では、到底寝付かれるものではなかった。しばしば「何が国家、社会ですか!」と、母が客人に説教することもあったが、不思議なほど父の声は聞こえてこなかった。そうした日常生活のなかで、大岸さん、末松さん、その他の方々が父と関わっていることを、朧気ながら知ったわけである。
私が 大岸ご本人と相見えるようになったのは、昭和十二年、父の一周忌も終わった夏の盛りだったろうか。中野区鷺宮の拙宅に 白絣絣の和服姿で颯爽と現われたものである。それ以降、父への御参りと称して、しばしば訪れるようになった。結局、言うところの同志たちと、夜遅くまで酒宴となるのが常であった。
中村義明、末松太平、吉原政巳、三上卓、大庭春雄、林正義、八木春雄、その他陸海民間を問わず、その時々の必要に応じて組み合わせがなされたようであったが、その辺りのことは私の認識外であった。(以下、数行分を割愛 修正)
支那事変が深まるにつれて、大岸さん十八番の歌は軍国歌謡、軍歌に変り、その中でも「愛国行進曲」は大層お気に入りのようだった。その愛国精神は私なりに理解できたが、時の時流に乗って動いているのではないかという疑念にかられたものである。
太平洋戦争に突入した翌年、昭和十七年の秋だったと思う。拙宅を訪れた大岸さんに、応接間で話し相手になつて頂いた。以前からの疑念が深まるばかりなので「あんまり軍の尻馬に乗りすぎると、今に振り落とされますよ」と精一杯の嫌みをぶつけたつもりだった。が、例の通り、ニヤニヤ私の顔を眺めているだけである。腹に据えかねて「おじさんは狸だね」と つい口走った。しかし、大岸さんは意に介せぬ様子で 丁度茶菓子を運んできた母に 破顔一笑 呵々大笑 上機嫌の様子であった。(以下、約7行分を割愛修正)

◎手稿『是々否々』◎
昭和十九年晩秋の頃だったか、ひょっこりと満州からの出張で大岸さんが来訪した。既に時局は表面的な戦意高揚とは裏腹に、蔭の部分ではかなりの腐食・腐敗が進行しており、冷静に見て、このままで敗北は免れぬところと感じていた。そこで大岸さんに「このままでは敗けてしまいませんか」と云うや「否、日本は不滅です」と即座に強く否定した。
その理由づけとして、以前にも拝聴したことのある日本精神論を語られた。そのあとで語気を和らげ「戦争に限らず勝負事というものは、勝敗を度外視し無心になったとき、勝てるものなんですよ」と諭され、畏れ入ったものである。
佐郷屋義昭は 昭和十八年頃 京城で懇談した際に 大岸が「戦争なんか後回しにすれば良いのに、でなければこれは負けだ。軍人なんか全部堕落していて、もはや皇軍なんかではない」と、かなり大声で話し、その声は外に立っている憲兵にも聞こえていただろうと(「回想・大岸頼好」で)述べている。(以下 6行割愛)。
昭和二十年一月十八日、最高戦争指導会議。同二月四日より、ヤルタ会談。同二月十六日以降、本土制空権の事実上潰滅。
こうした戦況を踏まえた大岸は、一時停戦を視野に入れた戦争遂行案の構想を抱いた。この構想を成文にまとめたことは、冒頭に述べたとおりである。
大岸は その以前からも拙宅を週に一、二回は同志達との連絡場所にしており、小磯内閣が倒れたあとは、近衛公に出馬してもらわなければ、など様々な話しを耳にしたものである。それは 大岸自身が近衛公に直接会い、また要路の関係者とも頻繁に会っていたことを覗わせるものであった。
(以下、25行を割愛。この部分は『是々否々』の解説が主で 時系列の混乱を避けるため割愛した)
尚、昭和二十年六月、応召という名目で陸軍省入りした大岸は、当時お茶の水にあった日仏会館を拠点とし、敗戦前後の混乱期に 大岸一流の政治工作、実践行動を推し進めていった。その間にも 例によって拙宅が連絡場所に使われていた。
しかし私も勤労動員で航空軍需工場での徹夜作業、東北方面への疎開準備などに追われ、大岸さんとゆっくり話す余裕はなかった。従って 沖縄陥落 近衛公のソ連特使申込み 鈴木首相のポツダム宣言無視声明などについて 大岸さんがどう考え、どう関わっていったか、当時は知るよしもなかった。
ただ、七月初め(父の命日の前後だったか)、家の客間で太田良先生(頭山満翁の愛弟子)が大岸に「アメリカでは東京を一瞬にして吹き飛ばす程の爆弾が、既に出来つつある」と熱心に話していたが、彼も情報を得ていただろうに 真面目な顔で頷きながら拝聴していたのが印象的だった。
『是々否々』の原文は、陸軍起草用・B4版29行用紙✕30枚に筆書きされ、1行に27文字の運びで統一しており、前言16枚、條々14枚に納められている。
ここに前言の一部を紹介する。(以下、43行割愛)。
(以下次号)
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冒頭に《幻の著書》と記した。《幻》のまま消えた原因については 稿をあらためて・・・。(末松建比古)
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