◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎「新版/年表・末松太平」/(26)私の結婚・三島由紀夫の自刃◎

2023年03月28日 | 年表●末松太平
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《「年表・末松太平」1970(昭和45)年。/末松太平=64歳~65歳/私=29~30才。》
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◎1970年2月26日。全殉難者35回法要。
・・・殉難警察官のうち3遺族が参列。

◎1970年2月24日~3月6日「毎日新聞」。末松太平「二・二六事件回顧」掲載。
・・・松岡英夫氏の「連載対談シリーズ」である。
・・・この連載対談は、後日《「松岡英夫対談集」1975年刊》に載録された。

◎1970年5月1日~4日「東奥日報」。末松太平「『野の記録』と私」を連載。
・・・淡谷悠藏著「野の記録」に対する反論。細かい「記述ミス」を次々指摘している。

◎1970年5月25日付の「三島由紀夫氏の葉書」
・・・末松太平の死後、遺された書籍資料の山から発見。当ブログでは「2月1日」に掲載済であるが、閲覧者の便宜を考慮して再掲する。
「お葉書ありがとうございました。末松中尉×三島二等兵のミックス的肖像画、たのしく拝見。御無沙汰ばかり重ねて、申し訳ございません。
学生を百人集めてから、全てのエネルギーと時間をみんな学生にとられてしまふやうになりました。この六月上旬も五十七名ほど連れて、レンジャー訓練を受けに富士に参ります。だんだんセミプロ気取りで増上慢になってきました。一方『豊饒の海』も第四巻に入り、取材と執筆でガタガタしてをり、いつか一段落ついたところで、御高説を伺ひたく念じてをります。いつか御紹介した福岡一尉ともこの間会ひ、懐かしくお噂しておりました」
・・・残っていた書簡や葉書は、これ1通だけ。何かの理由で「処分してしまった」らしい。



◎1970年5月30日。長男(私)が、福岡東急ホテルで結婚。
※集合写真の末松太平は「視線を外して」写っている。
※広告会社勤務(福岡転勤中)の「新郎(私)」は 遊びで「放送作家のマネゴト」をやっていた。
「新婦」は(5月2日の記事で紹介した)松坂行子。大学卒業後も就職せず 遊びで「ラジオ番組のパーソナリティ」をやっていた。
要するに 放送作家と番組出演者との「御縁」ということである。

◎1970年11月25日。三島由紀夫 割腹自殺。
・・・結婚と同時に「本社勤務」に戻っていた私は カーラジオで「自刃のニュース」を聞いた。/担当していた「ラジオ番組の公開録音」を終えて、会社に戻る途中だった。
・・・三島由紀夫事件は、末松太平には「心外」だったらしく、それ以降、三島氏のことに触れなくなった。それなりに「取材」が押し寄せたと筈だが「一切語らない」と決めたのだと思う。

◎1970~1975年。雑誌「四国不二」にエッセイを載せていた。
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◎「新版/年表・末松太平」/(25)三島由紀夫×末松太平・知られざる対談◎

2023年03月28日 | 年表●末松太平
◎「対談・軍隊を語る」について、もう少し紹介しておく。
《学燈社「伝統と現代」1969年9月号》からの要約。文責=私(括弧内は私の補足)。
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●三島「いままで軍隊のことについて書いた人は、戦争末期の召集兵が多かったですね。そして私、あのころの日本の軍隊というのは、かなりもう、堕落していたと思いますね。そのいろんな悪弊が累積したところへ(召集兵として)いって、ひどいめにあった人が書いた。それは確かに、軍隊の暗黒面だと思うんです。/私は幸か不幸か、その時期に兵隊に行かなかった。そして、戦後二十年もたってから自衛隊にたびたび行くようになった。私は、いま自衛隊は非常にいいと思うのです。かえって軍縮時代の軍隊のほうが内部は、美しい友情も、戦友愛もあると思うんです。/末松さんは、そういう時代に陸軍におられた。末松さんもおそらく(軍隊の暗黒面でなく)比較的いいところをごらんになっておやめになられた。そういう同士が話し合ったら、日本の軍隊というものについて、読者にも、新しいイメージが出るんじゃないか。今の時点と、昭和初年代の時点とをお互いにお話しながら、思い出話を末松さんにうかがい、私の現在みてきたことを話し、それがいちばん面白いんじゃないかと思いましてね」

●末松「三島さんのおっしゃった軍隊物っていうのは、不思議に、主人公がたいへん立派な兵なんですね。学問もあるし、人生観もしっかりしてるし、哲学だの経済学だの、思想的なこともしっかり勉強してるんですね。それに対抗するのが、くだらない将校や、くだらない下士官で、まことに取り合わせがおもしろいんですね。(笑)/(戦争末期の)軍隊が非常に乱れていたというんですが、乱れる原因の根は、元の軍隊にもありましたよ。歩哨というのは、逃げる兵隊を取り締まったりするわけですね。(笑)歩哨が逃げちゃうから、またその歩哨に歩哨を立てなきゃならないということが、ありましたね」

・・・「上下2段組で23ページ」の「超ロング対談」。内容的には、談論風発 緊張感がない。

●末松「今の自衛隊は選挙権、あるんですから。昔は、現役兵は(現役である間は)選挙権、ないんです。ぼくら(将校)もなかったんですね」
●三島「左翼運動なんか、どうでした? 将校では?」
●末松「将校に左翼運動というのは・・・、ぼくらが左翼運動やっていると思われていたんで。(笑)」
●三島「末松さんが左翼だったわけですか、ハハハハ・・・」
●末松「昔は、軍隊で『社会』という言葉自体がタブーですから。『社会』という字が一字はいっている本読んでても、読んじゃいけないといわれた」
●三島「旧軍の方がよく自衛隊に入られたですが、末松さんそういうこと、お考えになったこと、全然なかったですか」
●末松「ああいう服装じゃ、ぼくは入りたくない。昔の軍服着たら格好いいから・・・」
●三島「今のあれはね、シビリアンへの偽装ですね。軍隊というイメージ、払拭するために作ったユニフォームだから」
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★参考資料★・・・・・・・・・・
《村松剛「三島由紀夫の世界」1996年・新潮文庫。》
「自分の作品の中から代表作を一篇だけ選べといわれれば『憂国』と答えると、三島は書いている。/しかし『憂国』の初稿には事実誤認の部分があった。三島は後に末松太平から忠告を受け、昭和41年以降の版では、それぞれを訂正した。/数年後の三島は『私は徐々に(二・二六事件の)悲劇の本質を理解しつつあるように感じた』と書くようになる。末松太平の著書『私の昭和史』を『是非御高覧相成度』という献辞つきで、後に彼はわざわざ贈ってくれた。第三者の著作を三島から貰ったのは、後にも先にもこの時だけだった。少々驚いたのだが、是非買って読んでみろと勧めて来るぐらいでは、満足できなかったらしい。」
「末松氏を三島が自宅に招待し、ぼくもその席に招かれて氏の回顧譚をうかがった。蹶起した『同志』が反乱軍として皇軍の銃によって銃殺されたときは、三八式歩兵銃の菊の御紋章を削りとりたい気持でした。穏やかな口調で氏がそういわれたのが、記憶に鮮明に残っている。」
「7月12日(1966年)に三島は末松太平を自宅に招いた。『英霊の聲』所収の『二・二六事件と私』には、元陸軍歩兵太尉末松太平の『j助言』によって『憂国』の一部分を修正したという記述があり、末松氏と三島が会ったのはこれが最初でない、助言へのお礼の意味で、本の出版を機会に彼は小宴を開いたらしい。」
・・・「二・二六事件と私」は《河出書房新社「英霊の聲」1966年刊》に所収。
・・・私は、かなり後で《三島由紀夫著「日本人養成講座」1999年・パサージュ叢書》で読んだ。
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◎「新版/年表・末松太平」/(24)それぞれの生き方◎

2023年03月28日 | 年表●末松太平
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《「年表・末松太平」1968(昭和43)年/末松太平=62歳~63歳/私=27~28才。》
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◎仏心会「全殉難者33回忌法要」は、渋谷公会堂地下会場営まれている。
・・・賢崇寺は工事中。賢崇寺本堂の落慶式は、1974年4月である。

◎1968年12月25日。学芸書林「ドキュメント日本人3・反逆者」発行。
・・・「責任編集/谷川健一、鶴見俊輔、村上一郎」。発刊意図「知られざる資料でつづる『日本人』の新しい記録」。全十巻。
・・・「3・反逆者」の顔ぶれは、雲井竜雄、金子ふみ子、古田大次郎、大杉栄、末松太平、磯部浅一、西田税、北一輝、朝日平吾、北原泰作、須田清基、尾崎秀美、以上12名。
・・・末松太平は「青森歩兵第五連隊の記録(自伝)」。本書のための「書き下ろし」である。
因みに「二・二六事件関係者」の内容は、磯部浅一「獄中日記」、西田税「戦雲を麾く」(自伝)、北一輝「北一輝君を憶ふ」(大川周明)。余談だが、西田税氏の題名を記すのに苦労した。読み方は「さしまねく」。

◎末松太平と私。それぞれの生き方。
・・・私は福岡生活3年目。転勤理由「会社の敵」の誤解(事実無根)は直ぐに改称。逆に「優遇」を感じられるようになっていた。/地元放送局(九州朝日放送)に友人が増え、本業(広告会社勤務)よりも「裏のつきあい」を楽しむ日々。放送作家としての依頼が増え、面白半分に「番組に出演」したりしていた。
・・・「ベストン(株)取締役」の末松太平が、仕事で福岡に現れることもあった。ネオン街徘徊で多忙な息子(私)は、父親を「東中洲」に招いたこともある。酒の飲めない末松太平は、居心地が悪そうにしていた。

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《「年表・末松太平」1969(昭和44)年。/末松太平=63歳~64歳。私=29歳。》
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◎末松太平の次男(征比古)が結婚する。
・・・来賓挨拶は、三原朝雄国会議員。防衛庁長官も務めた元軍人である。末松太平とは「満州」以来の親交らしい。/末松太平が(両家代表挨拶で)何を語ったのかは記憶にない。

◎三島由紀夫と「対談」する。



★資料★・・・・・・・・・・
《學燈社「伝統と現代」1969年9月号/「対談・軍隊を語る」。》
・・・「三島由紀夫全集」の類いに「三島氏の対談」が載ることは多い。しかし「末松との対談」が載ることはない。/だから、三島由紀夫の研究家にも「この対談」は気付かれていない。
・・・末松太平と三島由紀夫は「私の昭和史」以来、何度も会うようになった。三島邸にも何度か訪れている。(私以外の)家族も、劇場に招待されたり、会食を共にしている。三島氏と顔を合せていないのは(福岡転勤中の)私だけである。

★資料★・・・・・・・・・・
《學燈社「伝統と現代」1969年9月号/「特集・軍隊」。》
・・・目次には「対談・軍隊を語る」を筆頭に「天皇と軍隊/日本軍隊史/農民と兵隊/軍隊の起源/軍隊組織の構造/戦闘とモラル/戦略戦術論のための序章/軍隊における差別と抵抗/異国軍人行状記/日本軍隊史年表/軍隊綱領集(軍人勅諭・軍隊内務書・軍隊内務令・歩兵操典・陸上自衛隊綱領)」といったタイトルが並ぶ。
・・・グラビア「ドキュメント・軍隊生活」は、写真と「末松太平・文」がセットになっている。



●写真=ラッパ手/起床ラッパは恨めしい。新兵さんも古兵さんも皆起きろ! 起きないと班長さんに叱られる。食事ラッパは嬉しい。「カッコメ、カッコメ」と聞こえる。消灯ラッパは哀愁がこもる。「新兵さん可哀そやな、また寝て泣くのかや」。
●写真=三八式銃の手入/歩兵にとって銃は生命より大事にするよう教育された。ちょっと傷をつけても叱られた。菊の御紋章がついていて、大切にしなければならなかった。
・・・以下省略。グラビア写真「内務班での食事/物干し場/洗濯/敬礼!/観兵式」のそれぞれに「末松太平・文」が添えられている。



◎末松太平と私。それぞれの生き方。
・・・私は福岡生活4年目。左遷同様の「転勤命令」の際は「期限=3年間」を確約させていたのだが、諸事情あって「1年延長」となった。
・・・本業(広告代理店勤務)以外の「遊び=九州朝日放送の放送作家」で忙しい日々。写真はその実例、佐賀博覧会会場での公開ラジオ番組。渡久山巌アナウンサーのパートナー(松坂行子)は、西南学院大学「フォークメイツ」の一員である。
・・・末松太平は、この年も「ベストン(株)取締役」として、福岡に現われている。
「ベストン」については猛勉強していた。末松太平の「遺品」からは「びっしり書込まれた大学ノート」が何冊も発見された。
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