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《「年表・末松太平」1970(昭和45)年。/末松太平=64歳~65歳/私=29~30才。》
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◎1970年2月26日。全殉難者35回法要。
・・・殉難警察官のうち3遺族が参列。
◎1970年2月24日~3月6日「毎日新聞」。末松太平「二・二六事件回顧」掲載。
・・・松岡英夫氏の「連載対談シリーズ」である。
・・・この連載対談は、後日《「松岡英夫対談集」1975年刊》に載録された。
◎1970年5月1日~4日「東奥日報」。末松太平「『野の記録』と私」を連載。
・・・淡谷悠藏著「野の記録」に対する反論。細かい「記述ミス」を次々指摘している。
◎1970年5月25日付の「三島由紀夫氏の葉書」
・・・末松太平の死後、遺された書籍資料の山から発見。当ブログでは「2月1日」に掲載済であるが、閲覧者の便宜を考慮して再掲する。
「お葉書ありがとうございました。末松中尉×三島二等兵のミックス的肖像画、たのしく拝見。御無沙汰ばかり重ねて、申し訳ございません。
学生を百人集めてから、全てのエネルギーと時間をみんな学生にとられてしまふやうになりました。この六月上旬も五十七名ほど連れて、レンジャー訓練を受けに富士に参ります。だんだんセミプロ気取りで増上慢になってきました。一方『豊饒の海』も第四巻に入り、取材と執筆でガタガタしてをり、いつか一段落ついたところで、御高説を伺ひたく念じてをります。いつか御紹介した福岡一尉ともこの間会ひ、懐かしくお噂しておりました」
・・・残っていた書簡や葉書は、これ1通だけ。何かの理由で「処分してしまった」らしい。
◎1970年5月30日。長男(私)が、福岡東急ホテルで結婚。
※集合写真の末松太平は「視線を外して」写っている。
※広告会社勤務(福岡転勤中)の「新郎(私)」は 遊びで「放送作家のマネゴト」をやっていた。
「新婦」は(5月2日の記事で紹介した)松坂行子。大学卒業後も就職せず 遊びで「ラジオ番組のパーソナリティ」をやっていた。
要するに 放送作家と番組出演者との「御縁」ということである。
◎1970年11月25日。三島由紀夫 割腹自殺。
・・・結婚と同時に「本社勤務」に戻っていた私は カーラジオで「自刃のニュース」を聞いた。/担当していた「ラジオ番組の公開録音」を終えて、会社に戻る途中だった。
・・・三島由紀夫事件は、末松太平には「心外」だったらしく、それ以降、三島氏のことに触れなくなった。それなりに「取材」が押し寄せたと筈だが「一切語らない」と決めたのだと思う。
◎1970~1975年。雑誌「四国不二」にエッセイを載せていた。
《「年表・末松太平」1970(昭和45)年。/末松太平=64歳~65歳/私=29~30才。》
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◎1970年2月26日。全殉難者35回法要。
・・・殉難警察官のうち3遺族が参列。
◎1970年2月24日~3月6日「毎日新聞」。末松太平「二・二六事件回顧」掲載。
・・・松岡英夫氏の「連載対談シリーズ」である。
・・・この連載対談は、後日《「松岡英夫対談集」1975年刊》に載録された。
◎1970年5月1日~4日「東奥日報」。末松太平「『野の記録』と私」を連載。
・・・淡谷悠藏著「野の記録」に対する反論。細かい「記述ミス」を次々指摘している。
◎1970年5月25日付の「三島由紀夫氏の葉書」
・・・末松太平の死後、遺された書籍資料の山から発見。当ブログでは「2月1日」に掲載済であるが、閲覧者の便宜を考慮して再掲する。
「お葉書ありがとうございました。末松中尉×三島二等兵のミックス的肖像画、たのしく拝見。御無沙汰ばかり重ねて、申し訳ございません。
学生を百人集めてから、全てのエネルギーと時間をみんな学生にとられてしまふやうになりました。この六月上旬も五十七名ほど連れて、レンジャー訓練を受けに富士に参ります。だんだんセミプロ気取りで増上慢になってきました。一方『豊饒の海』も第四巻に入り、取材と執筆でガタガタしてをり、いつか一段落ついたところで、御高説を伺ひたく念じてをります。いつか御紹介した福岡一尉ともこの間会ひ、懐かしくお噂しておりました」
・・・残っていた書簡や葉書は、これ1通だけ。何かの理由で「処分してしまった」らしい。
◎1970年5月30日。長男(私)が、福岡東急ホテルで結婚。
※集合写真の末松太平は「視線を外して」写っている。
※広告会社勤務(福岡転勤中)の「新郎(私)」は 遊びで「放送作家のマネゴト」をやっていた。
「新婦」は(5月2日の記事で紹介した)松坂行子。大学卒業後も就職せず 遊びで「ラジオ番組のパーソナリティ」をやっていた。
要するに 放送作家と番組出演者との「御縁」ということである。
◎1970年11月25日。三島由紀夫 割腹自殺。
・・・結婚と同時に「本社勤務」に戻っていた私は カーラジオで「自刃のニュース」を聞いた。/担当していた「ラジオ番組の公開録音」を終えて、会社に戻る途中だった。
・・・三島由紀夫事件は、末松太平には「心外」だったらしく、それ以降、三島氏のことに触れなくなった。それなりに「取材」が押し寄せたと筈だが「一切語らない」と決めたのだと思う。
◎1970~1975年。雑誌「四国不二」にエッセイを載せていた。