◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎「新版/年表・末松太平」/(8)満州から青森へ◎

2023年03月18日 | 年表●末松太平

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《「年表・末松太平」1934(昭和9)年。末松太平=28歳~29歳。
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◎3月末まで「満州」での日々・・・
※写真説明「歩兵班補備教育要員/承徳にて」。戦いの日々に「歩兵」の「補備教育」が必要になるということだろうか。

  

◎末松太平の遺品「写真帳」から「見森伍長の墓標」。
・・・伍長の墓標は立派だが 遺体(遺骨)は埋葬されたのであろうか。遺骨なら「遺族」に届けられるが、火葬する余裕は(戦地では)なさそうである。/写真左から二人目の遠藤中尉も その後 戦死したという。写真右端が末松太平中尉。
◎「歩兵第五聯隊/満州事変写真帳」は何種類も作られていた。それだけ需要があったということで 当時の世相が想像できる。

◎1934年3月末。「満州」から凱旋して「青森第五連隊」に戻る。
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《芦澤紀之「暁の戒厳令」1975年・芙蓉書房刊》
「3月末、満州では末松中尉の凱旋帰国が迫っていた。末松中尉は自ら破壊消防夫と称していたように、クーデター成功後の建設案を考えることすら邪道とする思想があった。破壊後の建設は大岸や西田に委せるという思想に徹底していた。/だが、約3年近い満州出征は、末松に、ふと建設案を考えさせる精神的余裕をもたらした。/そこで、凱旋途中に、在満中の菅波中尉と新京で会い、相談した。」

◎1934年4月中旬。休暇をとって上京。西田税宅へ。
★資料★・・・・・・・・・・
《芦澤紀之「暁の戒厳令」続き。》
「この日は、親友渋川善助の奔走で、在京中の青年将校は殆ど全員が集まっていた。/末松の『日本改造法案大綱』に根ざした提案は時宜を得ていた。同志が一度は解決しておかなければならぬ重要課題であった。/(大岸、菅波を除いて)最も西田に近い末松は、革新派の中でも別格の存在だった。ここに革新派における存在価値があった。しかし、末松の提案に対し、同志は中途半端なまま終始した。」

◎休暇を利用して、和歌山の大岸、福岡県門司の両親を訪ねたりしている。
◎相沢三郎中佐(慶應病院入院中)の見舞いもしている。

◎毎週、土曜の夜行で上京し、日曜の夜行で青森に戻る日々が続く。
★資料★・・・・・・・・・・
《東京12CH「私の昭和史」1975年2月27日放送/司会・三国一朗。》
「司会/満州から帰られた当時に考えていたことは?」
「末松/日本にもういっぺん『出征』するつもりで。だから やることがみんなチグハグで、東京の平和ムードとは分裂していたわけです。」
「司会/そして、一応、青森の連隊に帰った。それから?」
「末松/ピストルを懐に忍ばせて、東京通いを始めました。やいのやいの言うよりは『日本で一番悪い奴』を、一人で行って殺せばいいじゃないかと。一人犠牲になればそれで済むと思って。段取りだけは、渋川善助に頼んで。(ひと月余りやって)ちょっと見当外れかなと思い、途中で止めたんです」
★資料★・・・・・・・・・・
《松沢哲哉・鈴木正節「二・二六事件と青年将校」1974年・三一書房刊》
「1934年頃から、雑誌『核心』西田系と雑誌『皇魂』大岸派の競合が、運動内容を巡って表面化していた。/大岸派唯一の闘将校と言われた末松は 満州から凱旋した直後に『東京勢』と『和歌山勢』の対立状況に直面て戸惑った。/末松は 仕方なく『農民色を一段と色揚げする』東北勢独自の運動方針を提案していった。/末松のこうした農村工作への志向は、この頃の東北大飢饉を目前に見たこともあって、すぐれてリアルスティックなものであった。大岸のかっての思想的影響が、この時期に新たな運動内容の提案となっているのである。軍隊と農村の同時決起を将校運動内部で提起し実践していこうという末松的な方法は、大岸の兵農一致論の具体化であり実践化であった・・・」
★注記/いかにも「三一書房」らしい階級的分析だが、末松太平本人の読後感は知らない。

◎10月半ばから年末まで。再び「歩兵学校(千葉市)」の日々。
・・・「機関砲」についての研修のため。
・・・下宿(千葉神社の脇にある天麩羅屋2階)は「千葉青年将校グループ」の溜まり場となる。
・・・下宿時代に知り合った小母さんが,、翌年に「縁談」を持ち込むことになる。
★資料★・・・・・・・・・・
《芦澤紀之「暁の戒厳令」続き》
「千葉の歩兵学校では、末松中尉を中心とする『千葉グループ』が誕生して蹶起を主張し、東京の自重論を刺激した。/・・・昭和9年の大晦日。歩兵学校を終えた末松中尉は、福山から上京した相沢中佐と肩を並べて、凶作の待つ青森の原隊に帰っていった。」

◎昭和10年の元旦は、仙台の旅館で、大岸・相沢の三人で迎えている。
・・・それから58年後。末松太平は「相沢中佐の長男・正彦」に「米寿の祝い」をしてもらうことになる。
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