◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎「新版/年表・末松太平」/(5)歩兵学校と青森第五連隊と◎

2023年03月14日 | 年表●末松太平

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《「年表・末松太平」1928(昭和3)年。/末松太平=22歳~23歳》
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
◎1928年秋。歩兵学校(千葉)に、3ヶ月間在学。
・・・「年表」作成当時の私は 陸軍士官学校本科を卒業したのに 何故「歩兵学校」に行くのか理解できなかった。
◎歩兵学校卒業後、青森第五連隊に復帰。初年兵教育を担当する。
・・・上の写真の横には「甲班教育(新任少尉時代)」と記されている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《「年表・末松太平」1929(昭和4)年。/末松太平=23歳~24歳》
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
◎青森第五連隊の日々。少尉。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《「年表・末松太平」1930(昭和5)年。/末松太平=24歳~25歳。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
◎1930年5月。大岸頼好が「第五連隊」に復帰する。
◎1930年の夏ごろ。大岸の「兵火事件」に関与する。
★資料★・・・・・・・・・・
《竹山護夫「陸軍青年将校運動の展開と挫折」/史学雑誌(第78編・第7号)抜刷。》
「1930(昭和5)の天長節に 大岸と末松は、パンフレット『兵火』によって、全国の青年将校に宛てて『現在日本に跳梁跋扈せる不正罪悪(宮内官、華族、政党、財閥、学閥、赤賊等々)を明らかに摘出して国民の義憤心を興起せしめ正義戦闘を開始せよ』と呼びかけた。所謂兵火事件である。この出来事は、折からのロンドン海軍軍縮会議の締結に伴う統帥権干犯問題騒動の中に於いて、一部青年将校を刺激して、益々結束せしめる役割を持ったとされている。」
・・・大岸と末松は 表面的にはお互いに疎遠を装っていた。

◎1930年9月。陸軍省や参謀本部の少壮派によって「桜会」が作られている。
◎1930年半ばから年末にかけて。青森第五連隊で機関銃隊長代理。
(本来の「機関銃隊長」が歩兵学校に派遣されている間の「代役」である)
◎1930年末。第五連隊赤化将校事件(青森特高史に記録されていた)。
※「赤化将校」とは末松太平のことである。
機関銃隊長代理だった頃、除隊兵を送る際に渡したガリ版パンフ「憂国教育」について、憲兵隊の取調べを受ける。
★資料★・・・・・・・・・・
《「ドキュメント日本人3・反逆者」学藝書林1968年・学藝書林刊》
・・・磯部浅一、西田税、北一輝、大杉栄、尾崎秀実など 12名が「反逆者」として紹介されている。
目次には《末松太平「青森歩兵第五連隊の記録」自伝/2・26事件前夜、東北凶作に心痛めた青年将校の記録。》
本編では《「青森歩兵第五連隊の記録/赤化将校事件」》
「五連隊赤化将校事件とは、私が昭和五年の頃、仕出かした、事件というほどのこともない些細な事件のことをさしているわけで・・・」
・・・この「赤化将校事件」は《末松太平著「軍隊と戦後のなかで/『私の昭和史』拾遺」1980年・大和書房刊》に再録された。そして《「完本 私の昭和史/二・二六事件異聞」2023年・中央公論新社刊》で三度目の登場となった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
コメント (1)