◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎「新版/年表・末松太平」/(11)判決~禁錮刑~仮釈放◎

2023年03月20日 | 年表●末松太平
 
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《「年表・末松太平」1937(昭和12)年。/末松太平=31歳~32歳。》
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◎1937年1月18日。第3次判決(陸軍省発表は、1月19日)。
末松太平は、禁錮4年の刑で「免官」となる。

◎1937年8月14日。北一輝、西田税の2名に死刑判決。
◎1937年8月19日。4名の死刑執行(北一輝、西田税、磯部浅一、村中孝次)。
・・・磯部と村中(死刑判決は前年7月5日)は「今回の判決に利用するため」に執行を延期されてきた。残酷な仕打ちである。/北一輝と西田税は「二・二六事件と無関係」である。無理やり死刑にするには「悪辣な手法」が必要だったのだ。

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《「年表・末松太平」1938年(昭和13)年。/末松太平=32歳~33歳)。
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◎獄中生活。
・・・「私の荷物は収監された後も 官舎に置いたままになっていて 聯隊副官が保管していた。もともと罪らしい罪もないのに収監されたのだから 荷物も(しばらくは)そのままにしていた。」
★資料★・・・・・・・・・・
《久保晃(妻・末松敏子の実弟)の証言》
「軍装品はことごとく『新千葉(義父・久保三郎邸)』に運ばれた。軍籍を離れた身、毎月1回、地元警察が拳銃検査にやってきた。久保三郎が応対した。」
「昭和12年から14年にかけて 末松敏子は『主婦の友社』社長・石川武美の配慮により『家庭製作品奨励会』に住み込み 編物・手芸を習得中であった。/麻布笄町の『家庭製作品奨励会/主宰・柴田たけ子』は 雑誌『主婦の友』に(手芸・編物の関係記事を)連載していた。」

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《「年表・末松太平」1939年(昭和14)年。/末松太平=33歳~34歳。
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◎~4月29日まで。獄中生活。
・・・末松太平の遺品。末松敏子の直筆で「陸軍刑務所内ノート」と記されている大型封筒。
大型封筒の中身は「箴言録」と題されたノート5冊。多分「刑務所」から入手したものだろう。
  
●「第壱巻/昭和12年7月6日~10月13日/第一五三九号」「第弐巻~第四巻」。
●「第五巻/昭和13年4月14日~(空白)/第一五三九号」。
・・・中を開くと 細かい文字がギッシリと書込まれていて 末松太平の「勉学意欲」に圧倒される。哲学的な内容が殆どで「事件関係」の記述はない。当然「検閲」されていて「執筆禁止事項」もあったと思う。表紙に記された「第一五三九号」は「囚人番号」であろう。

◎1939年4月29日。仮釈放。
◎久保三郎(義父)宛の電報「アス八ジ タヘイダス ムカエコイ」。
・・・「天皇誕生日」の「恩赦」による「仮釈放」である。既に「紀元節」に減刑は発表されていた。
・・・「仮釈放」は計4名。大蔵栄一大尉(禁錮4年)、末松大尉(禁錮4年)、小原竹次郞軍曹(禁錮5年)、北島弘伍長(禁錮5年)。
◎「仮出獄證票」 豊多摩刑務所長 吉田律。

・・・「仮出獄後住居地/千葉賢千葉市登戸町2丁目・・・。久保三郎方末松敏子ノ許。」
・・・「仮出獄期間/8月20日間(昭和14年4月29日~昭和15年1月17日)」

◎「久保三郎方末松敏子ノ許」での日々。

・・・久保三郎邸の庭にある「心字池」の畔で。
◎「仮出獄證票/記事及警察官史ノ認印」欄の記載と認印。
・・・「昭和十四年四月二十九日千葉警察署ニ出頭」「昭和十四年六月二日千葉警察署ニ出頭」「昭和十四年七月三日千葉警察署ニ出頭」「昭和十四年八月四日千葉警察署出頭」「昭和十四年九月十一日千葉警察署出頭ス」「昭和十四年十月九日千葉警察署出頭ス」「昭和十四年十一月七日千葉警察署ヘ出頭ス」「昭和十四年十二月七日千葉警察署出頭ス」。

◎1939年の暮れ。東京都杉並区天沼に転居する。
・・・まだ「仮出獄期間中」なので 転居するには「所轄警察署長」の認可が必要である。
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