◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎承前/相澤正彦「大岸頼好論序説/敗戦との闘い」◎

2024年07月02日 | 末松建比古
驚いてはいけない。《末松太平「私の昭和史/二・二六事件異聞」》には《相澤中佐》が全く登場していないのだ。
1963(昭和38)年発行の「みすず書房版」から、2023(令和5)年発行の「中央公論新社版」に到るまで、《相澤》は「私の昭和史」に一度も登場していない。巻末の人名索引にも《相澤三郎》は登場せず《相沢三郎》が記されている。
《相澤三郎》《相沢三郎》・・・。末松太平が間違えたわけではない。大蔵栄一著「二・二六事件への挽歌」に登場するのも《相沢》である。大蔵栄一氏は 軍事裁判への対策として「相澤中佐の片影/昭和十一年二月十日発行」の作成に尽力された方だが それでも自著では《相沢》と記している。

判決
予備役陸軍歩兵中佐 相沢三郎
明治二十二年九月九日生
右の者に対する用兵器上官暴行殺人傷害被告事件に付、当軍事法廷は検察官陸軍法務官島田朋三郞千与審理を遂げ判決すること左の如し。
主文
被告人を死刑に処す
押収に係る軍刀一振は之を没収す

陸軍省発表(昭和十一年五月九日)の公式文書でも《相沢三郎》と明記されている。
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《相澤正彦「大岸頼好論序説(二)/敗戦との闘い」》
・・・現代史懇話会「史87/1995」平成7年5月6日発行。

《東久邇内閣》
大岸頼好は、昭和初期に青年将校運動の覚醒と原動力の一端を担い、敗戦の混沌が収縮の方向に向かうなかで、郷里土佐に帰るまで、関係者からの期待と信頼を受けた人物である。彼が世を去って十三年余の昭和四十一年に発行された『追想・大岸頼好/末松太平編集』からもその事実を窺い知ることができる。小冊子ながらも略伝を超えた深みと内容があり、これは偏に寄稿者・編者の熱い思いと力量の賜物であろう。
大岸が敗戦を目前に 和戦両様の構えでその実現を願った「天皇親政」による大政輔翼政治体制案とは、如何なるものであったか。その手稿「是々否々」の「條々」の章から、その冒頭を以下に引用する。尚、この案は彼が東久邇内閣時代に 身命を賭してその実現に取組み、幣原内閣成立後も、推移する状況を踏まえ大修正を加えて「日本人民外交史」と題して頒布している。でも、この方の主眼は、戦犯問題に対する彼の答えにあった。
「條々」の一、大政輔翼ノ綱領では「天皇絶対萬民平等ノ大義ニ則リ天皇ノ国民、国民ノ天皇タル日本ノ眞姿ヲ顕現スベキコト。内外一切ノ𦾔弊ヲ洗除シ、現内閣官制ニ先行優位スベキ御親裁官府ヲ御設置アラセラレルベキコト。」とし、以下註として五項目からなる具体案を列記している。
終戦の玉音が放送され、翌々日成立した東久邇内閣の組閣に当っても、大岸は工作に努めていたようである。入閣に意欲を見せていたといわれる真崎甚三郎を退けて、かねて懇意の小畑敏四郎を入閣させるなどしている。また、内閣発足に際しては、徹底抗戦を主張する軍強硬分子と、心情的にこれを支持する民間人を慰撫するため、首相就任放送の即時実施とその腹構えを意見具申している。大岸は あとで私たちに「首相の東久邇宮の放送は聞きましたか、かなり効果があったようですよ」と、満足げに事の経緯を話してくれたものである。

昭和二十七年夏と記憶するが、私と母は、東久邇邸からお呼びを受け、高輪の邸に参上したことがある。応接間に通され緊張してお待ちしているところへ、年配の侍女に手を添えられ着席された元宮であった。
元宮は 身を乗り出すように顔を近づけ、私の父の思い出話や 戦後の生活はどうしているかなどをお尋ねになった。そのあと「大岸君には、終戦の前後に大変御世話になりました。相澤さんの家を大岸は使っていたようだが、迷惑をかけました」と述べられた。迷惑どころか、軍の物資から、列車乗車の便宜など頂戴したこと、大岸といろいろ語り合ったことなどをお話し申上げた。元宮は、当時を偲ばれてか、やや上を向き眼をしばたたかれながら「大岸君のような人物は なかなかいないものだ、惜しいことをした」と、しみじみ呟かれた。
私どもは、その時はじめて 元宮がかなり視力を失われていることに気付いた次第で、約四十分後に退出した。その際 玄関先までお見送りいただいたのには大変感激した。元宮が終戦を通じて大岸をどのように捉え、信頼されていたかを知ることができた。私たちは、大岸が昭和二十七年一月他界したのを、この参上のあと知った次第である。

敗戦時の徹底抗戦の熱気が収まると、事務所分室になっていた拙宅で、大岸は憑かれたようにせっせと陸軍起草用紙に「日本国憲法草案大綱」なるものを書き始めた。その反古用紙は大量で、拙宅母屋の五右衛門風呂が毎日沸かせる程のもので、わたしもまた風呂焚きに精を出したものである。そのような夏の或る日、手伝いに来ていた勝木栄子女史(母の生け花の弟子)に促されて、庭から開け放たれた応接間の方を窺った。
背の高い好青年が 大岸と何やら真剣に話し合っている。ややあって その青年が興奮気味に「必ずご期待に沿うようコンタクトに全力を尽くします。なあにこんくらいのことで日本は分解したりしませんよ」と言っているのが聞き取れた。あとで、門まで送りに出た勝木女史に尋ねたところ「知らないんですか。あれが灰田勝彦ですよ」と教えられたものである。
このような間にも、大岸は主たる事務所として日佛会館(お茶の水)を拠点に活動していた。同盟通信記者、若手官僚らを通じ、サンフランシスコ放送による敗戦国日本の処理方法や、天皇の処遇に関する連合軍の情報を継続して入手した。或いは東久邇首相のラジオ放送に対する巷の反響調査も行っている。
いち早く 海外の同胞引揚げ援護の仕事にも手を伸ばし、その世論喚起のため 日比谷公会堂で「植村環・河合ミチ子女史の講演会」「巖本真理のバイオリン演奏会」なども催した。しかし これらの所謂文化活動は 進駐してきた米軍へのプロパガンダと これらを通じての接触模索にあったようで、前述の灰田勝彦の発言からもこれを窺うことができた。
終戦直後の混沌の時期もようやく終焉の兆しをみせはじめた頃(十二月二日財閥解体、日本社会党結党)、拙宅でなにやら一人で片付けものをしている大岸を見掛けた。風呂の焚き口に庭の枯枝などを集めていると、彼は反古紙や書類を抱えてきて、一緒に燃やしてくれという。その中にあったのが「是々否々」と表書きされた本人の手稿であった。
精魂込めてまとめたものであろうと思い、所持されてはと話すと、一寸頁を繰ったが、何時になく無表情で「読んでもかまわぬが、その後は他人には見せずに必ず燃やすように」と念を押された。私にとって これが大岸と顔を合せる最後となった。
・・・末松氏が亡くなる二ヶ月前、此の手稿を持参してお見せした。「これは間違いなく大岸の字だが、何時頃、何処で書いたということは勿論、見たこともない」とのことであった。

《良民良兵》
大正十年三月、大岸は士官候補生として弘前歩兵第五十二連隊に配属され、同年十月 陸軍士官学校に入校した。当時士官学校内にも浸透してきたマルクス主義への関心に加え、弘前での疲弊した農村の状況に刺激され、一旦は退校を決意するほど 国家改造への激しい情熱を燃やした。
大正十二年七月、士官学校を卒業(第三十五期)。見習士官として第五十二連隊に戻り、同連隊で少尉に任官する。しかし早々に病を得て、数ヶ月自宅療養することになる。その間に彼は日本古典の研究などを学習するが、これらに立脚して「兵農分離亡国論」を基調とする日本軍隊の構造改革を考えた。この心境の変化を後に先輩の横地誠に「マルクス変じて本居宣長になった」と漏らしている。
大正十四年五月、軍縮で弘前第五十二年隊が廃止され、大岸は青森第五連隊に移った。そこで、四月から同連隊に士官候補生として勤務していた末松太平に出会うことになる。末松は、陸士本科に入学する十月までの約五ヶ月間、大岸から薫陶を受ける。そして農民を組織して変革の主体とする思想は、末松らに継承されていく。昭和九年初秋の 青森県農民を主体とする飢餓行進計画は その典型であった。
大岸は 昭和元年十月 中尉に任ぜられ、翌年七月に仙台陸軍教導学校学生隊付に補せられ赴任する。その折り「東奥日報」記者であった竹内俊吉に「青森の一番大きい仕事は、冷害に負けないで稔る稲の新品種を作り上げることだよ。右翼も左翼もない、思想以前の問題だ」と語っている。大岸が幼年学校から陸士時代にかけて培い、その後も思惟の基底部分にあった社会主義的要素を払拭しはじめことをた意味するものだろう。
仙台陸軍教導学校での大岸は、下士官候補のなかに、兵農分離亡国論を柱とする社会変革への同調者を養成することに務めた。然し、教導学校の創立そのものは、当時の陸将宇垣一成の「軍民一致」構想に端を発するもので、国民の中核層として「除隊する良兵」の放出を目的とし、軍隊はそのために「良兵」の培養元たらしめんとするものである。
スローガンは「良兵良民」。従ってこれには先ず兵の直接指導者である下士官を、その趣旨に沿った指導者たらしめなければならない。このような考えは、陸軍に国民統合の中軸としての機能を発揮せしめると同時に、国防の底辺を拡大することによって、高度国防国家の建設を目指したものである。これは「軍は民族生存の最高意志である。よって総てのものはこの軍に奉仕すべきである」とするルーテンドルフの思想に通ずるものであった。
これに対して大岸は、後顧の憂いなき郷土から「良兵」は生まれるとする。そのスローガンは「良民良兵」で「良兵良民」に相反する。この発想は、大正末期に旭川連隊で少尉に任官した村中孝次が「軍事扶助」をめぐる問題で、農村出身の兵とその家の立場に立って、軍に強く意見具申していることにも窺うことができる。
因みに昭和六年の「三月事件」は、宇垣首班内閣を 目論んだ未遂事件で、ルーデンドルフ信奉者の永田鉄山が宇垣らの示唆で起案したとされる。永田はこの蹉跌を他山の石として、腹心幕僚の結束と、軍中枢への進出をはかった。
そして当面の障碍となる村中、磯部を、陥穽による士官学校事件で軍組織外に放逐することに成功する。村中等は言うところの啄木鳥の戦法にまんまと嵌められたわけである。
昭和五年 天長節を期して 大岸はパンフレット「兵火」を 関係する青年将校を中心に全国規模の配布を実行した。その第二号に「現在日本に跳梁跋扈せる不正罪悪━宮内庁、華族、政党、財閥、赤賊等々━を明らかに摘出して、国民の義憤心を興起せしめ正義戦闘を開始せよ」と記した。所謂「兵火事件」である。この時期に青年将校運動を具体的にリードしつつあったのは海軍側であるが、その指導者藤井斉は「兵火」を一読して、これで陸軍同志との提携ができたといわしめた程のものであった。だが、ここで問題なのは、軍内部の改革という発想を脱却し去ったことである。仙台陸軍教導学校での約四年間に亘る隊務生活の中で、大岸は好むと好まざるとに拘わらず、軍への成員志向と「隊務専心」義務が拡大し、その拠り所としてこれを天皇信仰に求めていったと考えられる。(つづく)
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「史86」「史87」と続いた「大岸頼好論序説」の《つづき》は「史88」に掲載されなかった。休載の理由について「史88」の「編集余情」には記されていない。それは「史89」でも「史90」でも同様だった。相澤正彦氏の状況についても知らされることはなかった。
参考までに 数年を遡って《末松太平の場合》における「史」の対応を記しておく。
《末松太平「二・二六事件断章(その十)/獄内人間模様」》は「史79/1992」に掲載された。そして 次号「史80」の「編集余情」には「末松さんの二・二六事件断章は、〆切に間に合わず今号は休載」と記されている。
そして「史81/1993」の「編集余情」には「昭和維新運動の受難者、相沢ヨネさん、末松太平さんが相次いで亡くなられた。追懐の情を新たにする二篇」と記されている。その「二篇」は この号に掲載された《「相沢ヨネさんを悼む」山口富永》と《「回想の末松太平」池田俊彦》である。

   

「大岸頼好論序説」の中断は 相澤正彦氏の健康状態が原因だったようである。
しかし、平成7年、平成8年・・・、相澤氏直筆の年賀状は「何の気配」も感じさせなかった。平成11(1999)年の年賀状「今年は是非おさそい致したく思いおります」に 私は心躍らせ「おさそいされる日」を心待ちしていた。
「相澤氏が病床にある」と知ったのは何時頃だったのか はっきりとした記録がない。病床見舞いは、奥様から「申訳ありませんが 難病なので・・・」と謝絶されていたので 過酷な病状は推察できた。当時は健在だった私の母(末松太平夫人)にも情報は伝わっていて「相澤さん、大分悪いらしいね・・・」と心配していた。
2004年の年賀状は「相澤夫妻の連名」に変っていた。そして これが「相澤正彦氏」から戴いた「最後の年賀状」になった。(末松建比古)
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