◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎「7月12日」の逡巡。そして・・・◎

2024年07月12日 | 末松建比古
「・・・仏心会は遺族の会であって、二・二六の会ではありませんから。」
「・・・では、二・二六の会はあるか? ありません。それでいいでしょう。」
唐突の書き出しは 現代史懇話会「史89/1995」「史90/1996」に掲載された《小木曽八「二・二六は永遠なり/末松太平、晩年の手紙」》からの引写し。末松太平が小木氏に送ったという「返信の数々」の一部分である。
掲載号の「編集余情」には「・・・『二・二六は永遠なり』を書かれた小木曽八さん、心のぬくもりが、ほのぼのと伝わってくる好文章である。心友とは如何にあるべきかを、しみじみと考えさせる」と記されている。

7月12日の「賢崇寺の法要」には 参列するつもりがなかった。
「仏心会は遺族の会であって・・・」ということは、私自身も ある時期から強く意識しはじめていた。特に ここ数年は コロナ禍対策として「法要」の参列者は「仏心会」の主要メンバーに限定されていて、徐々に「遠い存在」になっていった・・・ということもある。

  

そして7月12日。 私は賢崇寺にいた。
予定を変更させた原因は、大石健一氏(読売新聞中津支局・支局長)からの電話にある。
「休みがとれたので 賢崇寺に行きます。末松さんは参列なさいますか?」
「多分 賢崇寺には行かないと思う・・・」
「賢崇寺でお目にかかれないときは どこかで会いたいので 連絡しても良いですか?」
「はて・・・」
大分県から遙々やってくる大石サンの《熱意》には 応えるのが《人の道》というものだろう。
しかし 自宅に待機していて 法要が終わる頃に《どこか》に出かけるのも億劫なはなしである。
大分県から来る人のために 直ぐ判る場所(直ぐ判る店)を あれこれ考えるのも煩わしい。
それよりも 賢崇寺に出かける方が簡単ではないか。
ということで 急遽「志」を二封(仏心会宛と慰霊像護持の会宛)用意することになった。

   

法要の様子については省略。私が(法要の場にそぐわない?)軽装姿であるのも、いつもと同じこと。
2月26日は「二・二六事件全殉難物故者◎◎回忌法要」だが、7月12日は「二・二六事件十五士◎◎回祥月忌法要」という趣旨の違いがある。勇ましい方々が来ることもないから「公安関係」の方々を煩わせることもない。
法要を終えて 直ぐに帰りたいところだが 後片付けの方々(今泉章利サンや森田朋美サン)を無視して消える訳にはいかない。玄関横のスペースに置かれた椅子に ぼんやり坐って時間つぶし。
「・・・末松さん、香田です。ブログいつも見ていますよ」
わざわざ名乗って挨拶するのが 香田サン(仏心会・前代表)の生真面目なお人柄である。

大石サンは(有給休暇で上京したのに)記者の習性を発揮して「野中サンに話しを伺うので お待ちいただけますか・・・」
《野中サン》については 今まで挨拶したこともなく 詳しいことは知らない。野中大尉の遺児=お嬢さんひとり。つまり《野中サン》は「野中大尉の兄か弟の御遺族」ということだろう。柔らかな笑顔を欠かさない(84歳の私よりも高齢の)物静かな方だとお見受けした。
玄関横のスペースでは 栗原(仏心会・現代表)サン、今泉(慰霊像護持の会・世話人代表)サン、香田(仏心会・前代表)他2名が顔を揃えて会議中。取材を終えた野中サンも「こちらに坐って下さい」と招かれていた。
・・・大石サンの奥には 毎日新聞・栗原記者の姿が見える。栗原記者は ラフな黒シャツ姿で原稿執筆中。彼の服装と比べれば 私の《軽装》は それなりにキチンとしていた筈である。

森田朋美サンに率いられて 池田俊彦少尉の墓参り。瑞聖寺=都営地下鉄「白金台駅」前。大石サンも同行して 年少者の役割(墓掃除)を果たしてくれた。
墓参を終えて 近くの「バーミヤン」へ。今泉サン、渡辺都子チャンも現われて 総勢5名の「直会」となった。(末松建比古)
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2 コメント

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荒木貞夫?皇道派? (菱海)
2024-07-21 01:54:55
末松先生:
前略
ご無沙汰しております。
88年前の夏もさぞかし暑かったでしょうね。
私自身は身内にご遺族と何の縁もありませんので、「事件」当日の慰霊祭は元より賢崇寺にお参りした事もございません。自宅で静かに手を合わせます。
さて、昨年末に荒木貞夫大将が昭和8年に書いた『全國民に告ぐ』が復刻されましたので、読んで見ました。日本史の教科書では「皇道派のトップ」とされていますね。(勿論掘真清教授は「皇道派」「統制派」は事件後の造語とされておられ、其れが正しいと思います)
さて、今回何が申し上げたいか、ですが、一部青年将校に「慕われていた」(と言われる)荒木将軍が何を書いていたのか(例えば農村の救済など)を期待した訳です。処が!何とも内容のスカスカな本(?パンフ)なのです。
高橋是清の積極財政に賛成迄していますし、全体的に「日本精神」「東亜」という定義の良く分からない事を繰り返しているだけで、こんな男が「恩賜の軍刀」を貰えたとは信じがたい思いです。
荒木貞夫が「事件」に直接の「影響」を与えたとはとても思えませんが、一部の青年将校をこうした「大言壮語」で煙に巻き「勘違い」させたとしたら、その「罪」は大きいと思うのです。
末松先生はどの様にお感じになりますか?
匆々
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拝復 菱海様 (末松建比古)
2024-07-21 14:46:29
菱海様と久しぶりに「対話」できることを嬉しく思います。
荒木貞夫氏が 若い将校たちに影響を与えていたのは事実のようで、その一例が「私の昭和史」にも記されています。
「・・・教育総監部の本部長であった荒木中将は、若いときから軍刀を常用しているといって、それも青年将校に景仰される一因となっていた。」
「・・・当時は皆 指揮刀を吊っていた。私(末松太平)が軍刀を吊って通学していることは奇異の目でみられ、それが気骨の表象となっていて・・・」
但し 末松太平の場合は、荒木氏の影響ではなく、別の理由があったようです。

「・・・我々は、荒木、真崎、川島等の軍首脳部の陥穽に墜ちて、こんな結果になってしまった」
渋川善助氏が処刑数日前に(三角友幾氏に)語った怒りの言葉が「私の昭和史」に記されています。
荒木氏に対する末松太平の思いも、渋川氏と同様だと思います。

渋谷の「慰霊像」の除幕式には、来賓として荒木貞夫氏も参列しています。しかし 除幕式の司会を務めた末松太平は(荒木氏について)何も記しておりません。軍首脳部の陥穽によって同志を失った・・・という思いは一生捨てずにいたようですね。

ご質問の答えにはならないと思いますが、とりあえず。
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