高市 早苗 (たかいち さなえ、本名:山本 早苗(やまもと さなえ)
1961年(昭和36年)3月7日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(5期)。
夫は同じく自由民主党に所属する山本拓衆議院議員。
安倍内閣で内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策・科学技術政策・食品安全・イノベーション・少子化対策・男女共同参画)2006年9月26日 - 2007年8月27日 内閣府特命担当大臣、
第1次小泉改造内閣・福田康夫改造内閣・麻生内閣で経済産業副大臣を務めた。
(Wikipedia のデータは、こちら)
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奈良県奈良市生まれ。
奈良県立畝傍高等学校、神戸大学経営学部経営学科卒業。
神戸大では経営数学を専攻した。
大学卒業後、松下政経塾に入塾(第5期生)。
松下政経塾の同期に伊藤達也や武正公一がいる。
1987年、アメリカ合衆国へ渡り、左派リベラルでフェミニズム運動の急先鋒だった民主党のパトリシア・シュローダー下院議員の個人事務所でインターン同様のフェロー(無給、雇用関係なし)として勤務した。なお、1988年からは「アメリカ合衆国議会立法調査官(コングレッショナル・フェロー)として議員を補佐した」と高市は説明しているが、「立法調査官」という肩書きは評論家の桃井真と話し合って意訳したものであった[1][2]。高市の経歴については、高市の滞米中の暮らしぶりを知る当時のワシントン特派員が「実際の仕事はコピー取りみたいなもんです」と評していたと伝える報道もある[3][2]。
1989年に日本に帰国し、亜細亜大学系列の日本経済短期大学(現亜細亜大学短期大学部)助手に就任。1992年には関西ハイビジョン・コンソーシアムを設立し、会長に就任する。同年、第16回参議院議員通常選挙に奈良県選挙区から保守系無所属として出馬したが、落選した。当初は自由民主党奈良県連に公認を申請したが、公認は受けられなかった(自民党公認候補は服部三男雄)。
1993年、第40回衆議院議員総選挙に奈良県全県区から無所属で出馬し、得票数トップで初当選した。なお総選挙の直前に武村正義や田中秀征、鳩山由紀夫らが結党した新党さきがけへの参加を申し出ていたが、さきがけ側から断られている。首班指名選挙では、無所属ながら自由民主党総裁・河野洋平に投票(首相に選出されたのは細川護煕)。1994年、政策集団「リベラルズ」に参加し、リベラルズを母体に自由党(柿澤自由党)が結党され、党首の柿澤弘治が羽田内閣で外務大臣に就任し、与党入りする。同年7月、自民党を離党した海部俊樹を党首に自由改革連合を結成し、同年末には新進党に合流した。
1996年の第41回衆議院議員総選挙では、小選挙区比例代表並立制導入に伴い、奈良県第1区から新進党公認で出馬し、再選を果たした。選挙後、自由民主党の加藤紘一幹事長や野中広務幹事長代理の自民党への引き抜き工作に応じ、11月5日に新進党を離党。11月7日の首班指名選挙では、自由民主党総裁の橋本龍太郎を支持した。新進党離党後、当面は無所属に留まる意向を示していたが、12月27日に自民党に入党した。新進党から反自民票を集めて当選したために、自民党への入党は「有権者に対する裏切り」と批判された。高市は新進党離党の理由に「総選挙前、新進党の税制調査会で徹底的に議論した上で「大規模な減税は不可能」という結論を出したにもかかわらず、小沢一郎新進党党首が総選挙の公示日に突然、十八兆円の大規模減税策を公約に掲げたこと」を挙げている。自民党への入党については、「時間がもったいなくなっちゃった」と述べた。
自民党入党後は清和政策研究会に所属し、小渕内閣で通商産業政務次官に就任。2000年の第42回衆議院議員総選挙では比例近畿ブロック単独で出馬し、3選。当選後、不人気な森喜朗首相の「勝手補佐官」を下村博文、世耕弘成、山本一太らと共に自称し、討論番組などで森内閣を擁護した。2002年、第1次小泉改造内閣で経済産業副大臣に就任。またきょうと青年政治大学校講師も務める。
2003年の第43回衆議院議員総選挙では、奈良県第1区で民主党の馬淵澄夫に敗れ、比例復活もならず落選した。当時の総裁派閥である清和研現職で落選したのは高市のみであった。2004年、山本拓と結婚。近畿大学経済学部教授に就任した。
2005年の第44回衆議院議員総選挙では、小泉純一郎首相が成立に執念を燃やす郵政民営化法案に反対し自民党を離党した滝実の刺客として、奈良県第2区に国替(奈良1区は奈良市長だった鍵田忠兵衛が立候補)し、滝実を破り政界に復帰した(滝も比例復活)。元々奈良2区の奈良全県区時代からの地盤で後援者も多数おり、また以前から高市は自身の議員便りを奈良1区の有権者だけではなく、奈良2区の有権者にも郵送しており、国替といってもそんなに違和感なく選挙活動を進められたとのこと。
2006年、安倍内閣で内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策・科学技術政策・少子化対策・男女共同参画・食品安全)に就任し、初入閣した。
2007年5月、青少年保護のための有害情報対策を協議する諮問会議を政府内に設置する考えを表明し、記者会見で青少年保護育成条例を47都道府県中唯一制定していない長野県の対応を批判した。8月15日の終戦記念日に、安倍内閣の閣僚で唯一靖国神社に参拝した。高市も当初、公務を優先し参拝しない意向だったが[5]、全閣僚の終戦記念日の靖国神社参拝見送りを避けるため、みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会会長・島村宜伸[6]から要請を受け、当日の夕方に急遽参拝を行った[7]。
2008年、青少年が安全に安心してインターネットを利用できる環境の整備等に関する法律の作成に携わる。同年8月、福田康夫改造内閣で経済産業副大臣に就任。
2009年の第45回衆議院議員総選挙では、新党日本を離党し衆議院解散後に民主党に入党していた滝実に奈良2区で敗れるが、比例近畿ブロックで復活し、5選。
2010年1月、児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律の一部を改正する法律案を提出。2011年清和研離脱し無派閥となる。
人物 [編集]2007年7月2日、高市早苗のSP(警護官)をしていた警視庁警護課の警部補が、JR総武線錦糸町―新小岩間の下り電車内で痴漢をした疑いで逮捕された[8]。
2008年2月11日に沖縄で在日米軍が女子中学生をレイプした児童性犯罪事件に際して、自衛隊が同様に海外で重大犯罪を犯した場合に困るなどの理由を挙げ、小学生レイプ事件や嘉手納幼女強姦殺人事件など、在日米軍による凶悪犯罪事件が起こる度に出てくる日米地位協定見直し論について、見直す必要は無いと持論を展開した[9]。
靖国神社のA級戦犯分祀、国立追悼施設の建設に反対している。サンデープロジェクトで満州事変や以後の戦争を「自衛のための戦争だった」「セキュリティーの戦争だった」と肯定的な見解を述べ、侵略性を否定した。これに対して司会の田原総一朗は、「あなたのような下品で無知な人にバッジつけて靖国のことを語ってもらいたくない」と激昂した。田原の高市に対する態度は反発を招き、田原は次週の同番組にて謝罪し、釈明した。
日本の政治家が選挙運動の際に有権者の前で土下座することを軽蔑していた。初めての選挙運動では後援会長から「土下座するのが当たり前」と度々諭された。次第に土下座に関し言及しなくなり、選挙戦終盤で、感極まった弟が土下座をすると、涙ぐむ有権者の万雷の拍手の中、姉弟土下座をした[10]。その後土下座に関して質問を受けても全く答えなくなった。
2006年(平成18年)の教育基本法改正に関する特別委員会で可決された時には感極まって涙した。
かつてはマスコミ出演も多く、ビートたけしのTVタックルやたかじんのそこまで言って委員会などにも高い頻度で出演していた。2006年(平成18年)7月24日、ビートたけしのTVタックルにコメンテーターとして出演し、サラリーマン増税・残業手当廃止などのテーマにおいて、企業の法人税は上がっていない事について「企業あっての労働者でしょう。企業がだめになったら給料もボーナスも払えないでしょう」等と発言した。
2007年(平成19年)1月に、柳沢伯夫厚労相が「産む機械」との発言を行った際には、「私は子供を授かれない体なので、機械なら不良品になってしまう」と批判した[11]。
2007年(平成19年)5月28日、閣内でも親しくしていた松岡利勝農林水産大臣自殺の報を聞き、報道陣の前で声を詰らせ、その場で泣き崩れた。
相次ぐ閣僚の失言については度々注意を促される立場にあったが、2007年(平成19年)7月、夫の山本拓農林水産副大臣が松岡利勝前農林水産大臣の事務所費について、「芸者の花代に使った」(その日の内に撤回)と発言したことに対しては「(松岡前大臣の)遺族の方に不愉快な思いをさせ、本人も不適切だったと撤回をして謝罪をしている。適切に言葉を選ぶべきだった」と陳謝した。
天理教信徒。「ようぼく」と呼ばれる資格を持っている[12]。
戸籍名は山本早苗で、高市という旧姓を通称として利用しているが、選択的夫婦別姓制度には反対の立場をとっている。
所属団体・議員連盟 [編集]創生日本
天皇陛下御即位二十年奉祝国会議員連盟(事務局次長)
再チャレンジ支援議員連盟
みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会
日本会議国会議員懇談会
自民党トラック輸送振興議員連盟
( wikipedia )
2012 12 18 寝不足なので 昼間見た夢 【わが郷】
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