田中 角榮(たなか かくえい)
1918年(大正7年)5月4日 -
1993年(平成5年)12月16日)満75歳没
衆議院議員(16期)、郵政大臣(第12代)、大蔵大臣(第67・68・69代)、通商産業大臣(第33代)、内閣総理大臣(第64・65代)などを歴任した。
マスコミなどの記事
2011 12 22 日中国交正常化(昭和47年) 日本の軍国主義復活懸念 【産経】
それが実際に田中内閣は、1971年に支那と国交を回復させてしまった。
1972年 (昭和47年)
5月 - 佐藤派から田中派が分離独立。
6月 - 「日本列島改造論」を発表。
7月5日 - 佐藤栄作が支持した福田赳夫を破り自由民主党総裁に当選。
7月6日 - 第1次田中内閣が成立。初の大正生まれの首相であり史上初の新潟県出身の首相である。各種機関の内閣支持率調査で70%前後の支持を集める。なお、田中の次の大正生まれの首相は5代後の中曽根康弘。
首相在任時 1972年 (昭和47年)
9月 - 日米首脳会談後に中華人民共和国を訪問。首都北京で周恩来首相や毛沢東国家主席と会談。9月29日、両国の共同声明により日中国交正常化が実現し、日華平和条約の終了を確認。この際、田中角栄は周恩来から一枚の色紙を渡され喜んでいる写真が新聞に掲載された。色紙の言葉は「言必信行必果」と書かれてあった。しかし、この言葉は『論語』から引用したもので、この言葉のあとに「硜硜然小人哉」と続く、この記事を見て昭和の碩学・安岡正篤は、この言葉の意味も知らないで喜んでいる田中角栄を見て、同氏の教養のなさと中国のしたたかさを周りの人にと指摘したと言われる。諸橋轍次著『中国古典名言辞典』「講談社」では、「その言葉は必ず真実であり、やるべきことは必ずやりとげる。それは士として持つべき資質だ。しかしながら、もしそれだけの人だとしたら、人間として小さい」と訳されている。同日、中華民国が対日国交断絶を発表。
12月 - 第33回総選挙。自由民主党過半数確保も議席減、日本共産党が躍進。12月22日、第2次田中内閣発足で挙党一致体制へ。
Wikipedia より抜粋