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ネール

2009年12月18日 | 政治家

政治家

 

ネール【インドの政治家】1889 ~ 1964 ネール インド

 


ジャワハルラール・ネルー ネール

जवाहरलाल नेहरू,  Jawaharlal Nehru, 18891114日 - 1964527
インドの初代首相。インド国民会議議長。
インド独立運動の指導者。著述家。
名前の最初に、「学者(最高位のバラモン)」という意味の
「パンディト(पंडित, Pandit)」が付けられる場合もある。
ファーストネームの 「Jawāharlāl」 は、ペルシア語起源で「ルビー」を意味する。

(wikipedia)

 

 

 

生い立ち

1889年、インド北部イラーハーバード(現在はウッタル・プラデーシュ州に属する)の富裕なバラモン階級の家柄に生まれる。父のモティラル・ネルーは弁護士であり、インド国民会議派の独立運動家として活動し、議長に選出されたことがある。

    

ネルーはイギリスに渡り、名門ハーロー校に入学する。同校を卒業した後、ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学し、自然科学を専攻した。1910年に同大学を卒業。そして1912年に弁護士の資格を取得して帰郷した。

 

 

 

独立運動[編集]

しかしネルーはそれから間もなくインド独立運動に身を捧げ、インド国民会議派の幹部としてマハトマ・ガンディーやスバス・チャンドラ・ボースなどと共にイギリスからの独立運動を指導するようになる。

1928年にネルーは「ネルー報告」を発表し、インドの即時独立を求めた。ただしこの報告には、1916年に国民会議派が約束したムスリムの分離選挙を反故にし、さらにムスリムの議席数の確保を否定する内容が含まれていたので、全インド・ムスリム連盟を中心とするムスリムとの対立を招くことになる。

また、1923年に党内対立から国民会議の一派閥としてチッタランジャン・ダースと共にスワラージ党を結党していたが、ガンディーに懐柔されて1929年に父モティラル・ネルーから国民会議の議長の座を引き継いだ。ネルーを議長とした同年の国民会議ラホール大会では「プールナ・スワラージ(完全独立)」が採択される。コミンテルン系である帝国主義反対連盟のメンバーでもあった。

その後もネルーは1936年、1937年、1946年にも国民会議の議長に選出されているが、その間何度も投獄を経験した。獄中生活は通算で10年に及ぶ。獄中でネルーは『父が子に語る世界歴史』(1934年)や『自伝』(1936年)、『インドの発見』(1946年)といった著書を完成させている。


初代首相[編集]

第二次世界大戦後、インドは独立の方向へと向かうが、ムハンマド・アリー・ジンナー率いる全インド・ムスリム連盟とヒンドゥー教徒が主体のネルーら国民会議派の対立が激化した結果、1947年8月15日にネルーがヒンドゥー教徒多数派地域の独立を宣言し、インドとパキスタンが分離独立する。ネルーは独立インドの初代首相に就任した。

首相となったネルーは自ら社会主義者である事を宣言し、国家が経済を主導する計画経済を推進した。1951年には第一次五カ年計画による経済開発政策を打ち出し、その後も5年ごとに五カ年計画が発表された。ネルーは、企業の私有は認めるものの、民間部門に厳しい規制をかけ、公共部門が基幹産業を管理する混合経済体制を築いた。また、国内産業を保護し、輸入品から国産品への代替を推進することで工業化を目指す輸入代替工業化政策を採用した。

国際的には「非同盟・中立」の外交を推進した。1954年、中華人民共和国の周恩来と会談を行い、領土主権の尊重、相互不可侵、内政不干渉、平等互恵、平和共存の5つからなる「平和五原則」を掲げた。翌1955年には第三世界の中心的存在として、周恩来、インドネシア大統領のスカルノ、エジプト大統領のナセルと共にアジア・アフリカ会議(バンドン会議)を開催した。この会議では反帝国主義・反植民地主義を謳い、前述の平和五原則を拡充した「平和十原則」が定められた。

内政的には、民主主義体制を堅持し、インドを世界最大の民主主義国家とした。一方で、ネルー率いるインド国民会議派は国内唯一の全国政党であり、政治的にも左派から右派までの包括政党として広い支持基盤を持ち、さらに各地の地方ボスの多くを抑えていたうえ、ガンディー及びネルー自身のカリスマとあいまって国民会議派は選挙で圧勝を続け、ネルー政権下のインドは一党優位政党制国家となり、ネルーが死去するまで政権交代は一度もおこらなかった。

また、パキスタンの分離独立によって分割されることになったパンジャーブ州の新州都としてチャンディーガル市の建設を決定した際、この新都市をインドの伝統にとらわれない現代的な都市にすることを目指し、ル・コルビュジエへと都市計画を依頼した。この都市計画には賛否両論があるものの、チャンディーガル市は現在でもル・コルビュジエの代表作のひとつとされている。

イギリスからの独立後も国内に残っていたフランス領インド(英語版)およびポルトガル領インドの回収も行い、1954年にはフランス領インドがインドに返還され、ポンディシェリ連邦直轄領となった。1961年にはアントニオ・サラザール政権の下であくまでも返還を拒んでいたポルトガル領のゴアなどを武力占領し、ゴア州、ダマン・ディーウ連邦直轄領、ダードラー及びナガル・ハヴェーリー連邦直轄領を設置。これによってインド国内の植民地はすべて消滅した。

このような高い理想に基づく政治や彼の立ち居振る舞い、廉潔さ、さらにはマハトマ・ガンディーに後継者に指名されたことなどはネルーにガンディーに勝るとも劣らないカリスマ性を与え[1]、国民会議派は選挙に勝利し続けた。

しかし晩年、ネルーはさまざまな問題に直面することになる。友好的な関係を築こうとした中華人民共和国とは、チベット亡命政府をインドが抱えていることや国境線などをめぐって対立を深め、中印国境紛争が勃発するが、この紛争はインドの敗北という結果に終わってしまう。また、計画経済政策の行き詰まりなど、内政にも問題が生じるようになった。技術力や工業力、それに農業生産なども確かに上昇したものの、人口増加についていくことができず、国民の多くは貧しいままだった。そして1964年5月27日に首相在任途中で心臓発作により死去する。遺体は荼毘に付され、墓としてシャンティ・ヴァナが建立された。


家族[編集]

妻カマラ・ネルーとは1916年に結婚。妻もまた独立運動に参加したが、1936年に結核で死亡した。妻との一人娘にインドの第5代・第8代首相となるインディラ・ガンディー、孫(インディラの子)に第9代首相となるラジーヴ・ガンディーがいる。のちにこれは「ネルー・ガンディー王朝」とも呼ばれるようになるが、ネルー存命中にはインディラが1959年にインド国民会議総裁に就任し1年で辞任した程度で、特段の世襲化の動きはなかった。

日本との関連[編集]

日本帝国の勝利を称賛[編集]

日露戦争における大日本帝国のロシアに対する勝利を、日本が白人国であるロシアを打ち破ったことで、欧米列強の植民地支配にあえぐアジア諸国の民が自らの力でそれを打破することができるということを示したと賞賛した。

日本帝国の植民地支配を批判[編集]

しかしその後大日本帝国が欧米帝国主義と同じく、近隣諸国を植民地支配下に置いたことを批判していた。『父が子に語る世界史』では、日露戦争とその結果について、日本の勝利がいかにアジア諸民族を勇気付けたか、それにも関わらずその結果は、帝国主義列強の一角に日本を付け加えただけであり、その悲惨を最初に舐めたのは朝鮮であったとして、日本が期待に沿わなかったことを厳しく批判した。

インドゾウを寄贈[編集]

第二次世界大戦前、上野動物園には3頭のインドゾウが飼育されていたが、空襲の際に逃げ出し暴れるのを恐れた行政側により殺処分(実際には餓死)され(この際の顛末は戦後童話になった『かわいそうなぞう』に詳しい)、日本で生きたゾウを見ることが出来るのは名古屋市の東山動物園だけであった。

「東京でゾウが見たい」という子供たちの声は時の行政を動かし、各国にゾウの寄贈を打診する。ネルーは「日本の子供たちにゾウを見せてあげたい」と1頭のゾウを上野動物園に寄贈することを申し出る。このゾウには「インディラ」(ネルーの愛娘と同じ名前であり、彼が愛したインドの国の名そのもの)と名付けられ、1949年9月に上野動物園に到着、1983年に死亡するまで上野動物園のシンボルとして子供達に愛された。

仏舎利を寄贈[編集]

1954年(昭和29年)、日本とインドの友好と世界平和を祈念して、ネルーは10粒の仏舎利(釈迦の遺骨)を日本に贈呈した。これを受け、日本の各地に仏舎利塔が建立された(札幌市藻岩山の仏舎利塔など)。


日本語訳された著書[編集]
印度の統一 (松本慎一訳、育生社弘道閣、1942年)
娘インディラへの手紙(脇山康之助訳、豊国社、1942年)
ネール自叙伝 印度の最近の事象に関する冥想(竹村和夫、伊与木茂美共訳、 国際日本協会、1943年)
マハトマ・ガンジー(ガンジー平和連盟訳、朝日新聞社、1951年)
自由と平和への道 アメリカを訪れて(井上信一訳、社会思想研究会出版部、1952年)
インドの発見(辻直四郎、飯塚浩二、蝋山芳郎訳、岩波書店、1953年)
ネール自伝(磯野勇三訳、東和社、1953年、のち角川文庫)
アジアの復活(宮西豊逸訳、文芸出版社、1954年)
父が子に語る世界歴史 第1-6(大山聡訳、日本評論新社、1954年、のちみすず書房)
古代史物語 父から娘への手紙(戸叶里子訳、日本評論新社、1955年)
ネールは主張する(ティボール・メンデ共著、大山聡訳、紀伊国屋書店、1957年)
忘れえぬ手紙より 第1-3(森本達雄訳、みすず書房、1961年-1965年)
ネール首相名演説集 英和対照(黒田和雄訳、原書房、1964年)
ネルー 自叙伝(蝋山芳郎訳、中央公論社(世界の名著)、1969年)


日本語の関連文献[編集]
ネール 人間・思想・政策(坂本徳松、日本協同出版、1952年)
ガンジー・タゴール・ネール(K.R.クリパラニー/森本達雄訳、アポロン社、1957年)
ネール 第1-2(ヴィンセント・シーエン/須賀照雄訳 論争社 1961年)
ネールなきインド その光と影(フランク・モラエス/山口房雄訳、弘文堂(フロンティア・ブックス)、1965年)
ネルー(中村平治、清水書院(センチュリーブックス 人と思想)、1966年)
インド現代史 ネルー・その政治的生涯(M.ブリッチャー/張明雄訳、世界思想社(現代政治シリーズ)、1968年)
三人のインド人 ガンジー、ネール、アンベドカル(荒松雄、柏樹社(柏樹新書)、1972年)
ガンディーとネルー その断食と入獄(山折哲雄、評論社(東洋人の行動と思想)、1974年)
人物現代史 11 ネール 第三世界の立役者(大森実、講談社、1979年)
インドを支配するファミリー ネールー・インディラ・ラジブ(タリク・アリ/出川沙美雄訳、講談社、1987年)

 

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