ルンプロ
選挙も終わり、鳩山政権実現の流れが出来て、オバマ大統領も自ら電話などして次期政権に配慮しています。民主政権はどちらかというと左側の考えが多いですネ。
今回は昨日の流れを受けて、サヨクのお勉強です。
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『30年後の日本』さんは古典的左翼さんですから、事業主になるとかの立場は無いようです。あくまでも被雇用者としての、ロウドウシャ(労働者)を”考察”しているようですネ。
我が郷には、このような ロウドウシャ(労働者)は 1人も居ません。全てが働き手であり、先輩や老人などは能書きを垂れる現場管理者でもあります。土地や家作そして農機具などは、先祖様からの預かりもので大切にしなければ、罰が当たります。新しく自分で苦心して納屋でも建てようものならば、先輩面して後進を指導出来る特権が得られるというものです。ですから我が郷には所有権の絶対性というものがありません。
しかし、西洋から侵入してきた『合理的思想』とか謂う考えには、砂漠のように乾いた考えの見えない嵐が吹き荒れています。
以下は引用・紹介です。
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企業環境の厳しさを説いて会社と社員は運命共同体、家族のようなものだというイデオロギーに包み込む――このやり方は確かに戦後日本資本主義が愛用してきたものだ。長い歴史のなかで、ある種のタイプの人々の口によく馴染んできた言い回しである。
そういう世界像のなかでは、労基法などの法規を厳格に守るよう要求することは、企業共同体、「会社という家族」を壊す「野暮」でしかなかった。家族や友だちのなかで法律うんぬんを言い出す「ギスギスした感じ」を想像してみてほしい。しっとりと湿った感情で結び合わされている関係のなかに、非常にドライな「法律」「権利」「ルール」を持ち込むことの違和感。
そうしてこのような企業共同体、家族主義経営の感情、すなわち企業ナショナリズムともいうべき感情は、「成長によってパイをふやせば会社も繁栄し、自分も繁栄する」という感覚に支えられてきた。会社のなかにある諸制度は、このイデオロギーを支えるに十分な“根拠”をつくり出してきたのである。
「『日本的労使関係』の“三種の神器”といわれている、終身雇用制―年功制―企業別組合のいずれもが、またそのシステム全体が、何よりもこの企業ナショナリズムの喚起装置なのである」(渡辺治『企業支配と国家』青木書店、p.34)
ゆえに、その時代に、冒頭のような謂いをすることには、それなりの“もっともらしさ”があったかもしれない。
会社という家族のもとでみんなが「和をもって尊しとなす」であれば利益もあがり、それが分配され、みんながハッピー――だから「豊かになる」うえでは、「労働者を守る」とかいう労基法の遵守を組合いに入って叫ぶよりも、そんなルールなんか無視して会社のために死ぬほど働く方がよほどリアリティがあった。
そんなルールなんか無視して会社のために死ぬほど働く方がよほどリアリティがあった。←このようなフレーズはサヨクの文章には多く見られますが、左翼の活動家は決して死ぬほど働いたりはしません。陰に隠れて、グータラ仲間と不満を言いつのるだけです。中には死ぬほど働くものも居ますがそれは、仕事が好きで将来は自分の会社を持つとか、あるいは第一人者になるんだという自負があるからそうしているだけです。
日本的なはたらきの場に、持ち込まれたものとは近代資本主義の精華としての、たとえば製鉄工場のようなものだったと思われます。巨大資本、(この場合には国家が深く関与していました)が投下されて見たこともない巨大な工場が出来て、全国から技術者やら労働者が集められて、効率よく沢山の銑鉄が生産される。このようなイメージであるならば労働者はそれなりのリアリティがあります。
現在の日本では製鉄工場の従業員はある意味特権階級です。子弟を大学にまで通わせる年齢にでもなる頃には、年収は一千万円は超えているでしょう。
問題は、ルンプロのこと。この乞食のような労働者というイメージはマルクスに語らせると、まるでフランス映画のような映像が浮かんできます。
また紹介しましょう。
フリーターは「ルンペン・プロレタリア」ではない |
ちなみに、言っておきたい。マルクスが想定した「ルンペン・プロレタリアート(ルン・プロ)」とフリーターは重ならない。
マルクスが本格的に「ルンペン・プロレタリアート」を論じるのはフランス三部作、主に『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』である。
「なんで生計を立てているのかも、どんな素性の人間かもはっきりしない、おちぶれた放蕩者とか、ぐれて冒険的な生活を送っているブルジョアの子弟とかのほかに、浮浪人、兵隊くずれ、前科者、逃亡した漕役囚、ぺてん師、香具師、ラッツァローニ、すり、手品師、ばくち打ち、ぜげん、女郎屋の亭主、荷かつぎ人夫、文士、風琴ひき、くず屋、鋏とぎ屋、鋳かけ屋、こじき、要するに、はっきりしない、ばらばらになった、浮草のようにただよっている大衆」(大月版p.89~90)
ルイ・ボナパルト(ナポレオン三世)は、これを自派の将軍をつけて町中で組織する。「遊動警備隊として組織されたルンペン・プロレタリアート」(同p.28)とはこの意味である。
もう一つ我が郷の若い衆の事をぼろぼろに描いたと思われる文章を見つけました。このような思想を研究なさっている人たちは、どちらかというと、『労働者』というよりも、公務員や安定した企業などの社員やその子弟に多いようです。どちらかというと(同情)とか(哀れみ)の感情を裡に秘めた『上から目線』で考えています。日本は欧米のような乾いた資本主義の国ではありませんから、安定した会社や役所などに在職していれば、あたかも相互扶助の行き届いた、良く陽の当たる村里に居るかのような、のどかな気分に浸りきることが出来るのです。
blog::青年の発達と未来を考える http://d.hatena.ne.jp/ost_heckom/20061209/p2
<以下は抄出>
それはすべての大都会で工業プロレタリアートとは截然と区別される集団であり、泥棒やあらゆる種類の犯罪者の供給源となり、社会の落ち屑をひろって生活し、定職をもたない人間、浮浪者、宿なしの無籍者であって、その出身民族の文化程度によるちがいはあっても、そのラザローニ的性格をけっして捨てない連中である。そして臨時政府が募集した若い年ごろでは、それこそどうにでもなるものであって、もっとも偉大な英雄的行為やもっとも熱狂的な犠牲的行為も、またもっとも下劣な山賊の悪業も、もっともきたならしい収賄行為もやりかねない」(大月版p.57~58)
<紹介終わり>
それなりの豊かな生活を送っている、公務員なり安定企業の『労働者諸君』はこのような偉そうな目線で世間を<研究>している訳でございます。しかし(会社)や(役所)等という強固な細胞壁に護られているので、社会の実相は見えていません。
そして臨時政府が募集した若い年ごろでは、それこそどうにでもなるものであって、もっとも偉大な英雄的行為やもっとも熱狂的な犠牲的行為も、またもっとも下劣な山賊の悪業も、もっともきたならしい収賄行為もやりかねない」
抽出した文章では既成の安定した会社や役所の枠からはみ出した、元気の良い人たちを悪し様には述べてはいますが、本心はたぶんその大いなる可能性に羨望しているような気配も感じられます。
ジャン・ポール・ベルモンド Jean Paul Belmondo »
「Classe tous Risques(墓場なき野郎ども)」のチンピラ役が素敵!
老百姓收入长了108倍,而GDP?长了441.8倍,GDP长速度高于老百姓收入长速度4倍,收入分配比例严重失调,贫富差距越来越大。
(庶民の収入は108倍に増えているが、GDPはそれ以上の441倍に増えてる。GDPの成長速度は人民の収入増加速度より4倍も高くなっている。これは富の分配が偏っていて、貧富の差を広げてると言うことだろ。)
支那にも、ルンプロは沢山居そうですね。けっこう自由に政府批判も遣ってますね。
頑張れ支那ルンプロ