いよいよ学校ごと飯田へ<o:p></o:p>
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六月二十四日(日)曇<o:p></o:p>
夜半また警報鳴りしとぞ。正午またB29一機来。暗雲矢のごとく飛び強風凄し、夕やむ。楢原と浦和の町散歩。<o:p></o:p>
ひる楢原と警察に行き、疎開につき向こうの配給を受けるまでの特配を請願し、ウドン一人十日分十把をもらう。十把にて一円九十銭なり。(終戦直後のことですが、わが家でも家族が多く、あるときどうしても食糧に窮し、お袋が警察に赴き特配を受けたことがあります。当時は配給制度には警察も関与していたのです。)<o:p></o:p>
六月二十五日(月)曇後晴<o:p></o:p>
朝六時起床。曇。握飯を作ってもらい、七時楢原とともにその宅を出る。<o:p></o:p>
八時新宿青梅口につく。一年二十名、二年九名、三年十名が集まる。各自の荷物の上に四十個の顕微鏡が乗せられている。貨車では安んじて運べないため、小使いが学校からここまで運んできたものである。この四十名が、本月末飯田と茅野に疎開する学生の先発隊として、きょうまず出発するわけである。<o:p></o:p>
午前十時十分、中央線にて新宿発。混雑言語に絶し、通路はおろかみな座席に立つ。<o:p></o:p>
空はなお曇っているが、暑い六月末の日の光は地に満ちて、赤い焼土のひろがった中野あたりにポツリポツリ残っている鉄筋の建物や、芽を吹きだした青い樹木がうしろへ流れ飛んでゆく。<o:p></o:p>
さようなら、東京よ!<o:p></o:p>
ふたたび自分たちが帰ってくるとき、お前はどうなっていることだろう。万感胸に迫る。<o:p></o:p>
昨夜十二時近くまで起きていたため、途中やっと座れたら、ウトウトと眠る。<o:p></o:p>
ふと眼がさめたら初狩という駅に停まっていた。はれやかな麦秋である。空は晴れて夕立のあとのようなきれいな碧空に、白雲が光のかたまりとなって浮かんでいる。野には明るい、もの哀しいほどの静寂が満ちている。ところどころ田植えをしている光景も見える。<o:p></o:p>
五時辰野に着く。ここで下車して二時間あまり伊那電鉄を待つ。<o:p></o:p>
すると、真っ赤な地の片隅に青天白日を印した旗を先頭に、ぼろぼろの車夫の服みたいなものを着た青年、中年、老年の一団、四、五十人の男が駅前に整列していた。しゃべっているのはシナ語である。どうやらシナ兵の捕虜のようだ。担架でかつがれているのも二、三人ある。。みな黒ずんで、病やみのような皮膚をしている。いや現に気味悪い腫物を顔面にてらてらさせている者もある。日本語で号令をかけさせられて、辰野の町を「愛馬行進曲」を歌わせられながら、どこかへ行進していった。ときどきホウッ ホウッ、というようなかけ声を入れるのが、可笑しいよりも陰惨である。<o:p></o:p>
本土決戦に備え、信州の山岳地帯に大々的に要塞線が構築中であるという。彼らはその工事に使役されているのではあるまいか。<o:p></o:p>
戦争に負けると、ああなる。敗戦というものは決して甘いものではないことを、腹の底から痛感した。(戦後のソ連による、日本人のシベリヤ抑留を暗示しているようです。)<o:p></o:p>
六時五十分、伊那電鉄に乗って飯田へ、おんぼろ電車だが、ガラス窓が完全なだけでも東京よりはましである。
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