その九 風太郎氏奮戦す<o:p></o:p>
「白金台町には神様がついておる。決して燃えん、神様がついておるぞお」<o:p></o:p>
たんに激励のためではなく、ほんとうにそう信じているとしか見えない形相だ、と思って見ていると、いきなりこっちをむいて、<o:p></o:p>
「こらっ、そこの学生、何をぼんやりしとるか、いって手伝わんか」<o:p></o:p>
と、駆け寄って来た。<o:p></o:p>
こんな場合にちょっと癪に障ったが、向こうの炎を見て、よし、やってやる、と心に叫んで、二町ばかり宙を駆けた。警官が前に立った。<o:p></o:p>
「危ないっ、何処へゆく!」<o:p></o:p>
「手伝います!」<o:p></o:p>
「よしっ」<o:p></o:p>
自分は人々の最前線に飛び出した。<o:p></o:p>
目黒駅の方角から燃えて来た炎は、次から次へと家を焼きながらこちらに移動してくる。水がない! 水道はどうなっているのか、烈しい警笛をあげながら消防自動車は幾台か走り集まってくるが、みな処置のない様子で、水を出しているのはただ二台だけだ。警防団や市民が、一町以上もの列を作って、遠い家々の用水槽からバケツを手送りに運んで、その消防車へ注ぎ込む。<o:p></o:p>
その行列の中へ飛び込んだ。<o:p></o:p>
「水っ」<o:p></o:p>
「そらっ」<o:p></o:p>
「何ぼんやりしてる」<o:p></o:p>
右からくる水のバケツ、左からくる空バケツ、いつのまにか全身濡れ鼠になり、それが火の熱さにすぐ乾いてまた濡れ鼠になる。<o:p></o:p>
自分は手押しポンプに回った。ゴウ、と火が吹き付けて、火の粉で眼もあけていられないほどになる。思わず一瞬、うしろをむいてうずくまらずにはいられない。しかし、水と火の凄まじい修羅場の中で、必死にポンプを動かしていると、次第に悲壮な英雄的気分になって来た。<o:p></o:p>
気がつくと、自分と並んでポンプの柄にとりついているのは十七、八の少女であった。火光に映える円い顔は、燃える薔薇のようだった。頭巾の下からはみ出した髪はふり乱され、ふりむいては銀鈴のような声で、「水、水をお願い。」と叫ぶ。まさにジャンヌダルクを思わせる壮烈無比の姿である。<o:p></o:p>
空にはなお金蛾のような火の粉が渦巻き、水に濡れた路上には火影が荒れている。手前の数軒はなお物凄い勢いで炎をふいているが、その向こうの町はもう焼けつくして、樹や柱や電柱が幾百本の赤い棒となって、闇黒の中にゆらめいている。地獄の風景のようだ。<o:p></o:p>
あれよあれよしいうまに、火はまた手前の家に移る。みな疲労困憊して、ともすれば水が途絶え、ホースの水が細くなり、折れ、消えてゆく。<o:p></o:p>
「もう一息だ」<o:p></o:p>
「もう一がんばり」<o:p></o:p>
「負けちゃいかん、火に負けちゃいかん!」
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