その十 火との戦い続く<o:p></o:p>
「水を、水を切らさないように、みながんばって下さあい!」<o:p></o:p>
と警防団が絶叫する。<o:p></o:p>
もう一息! この声がほとんど明方までくり返された。まったく死力をつくしたという感じだった。ポンプを動かし続けて、自分は頬がげっそり落ちたような気がした。しかし面白いことは面白かった。<o:p></o:p>
火は或るお寺の境内でくいとめた。火はうしろに回ったが、これも薄明のころ、やっと消し止めた。<o:p></o:p>
左側は往来に面した家にとりかかっている間に、火は次第に奥へ奥へと回っていって、一時はほとんど収拾のつかない状態になった。しかしこれも朝になって、津雲という代議士の邸宅を最後の犠牲として食い止めてしまった。<o:p></o:p>
この最後の犠牲は実に豪華版だった。<o:p></o:p>
自分は夜明けの邸宅街を走って、裏側からこの津雲邸の庭に入り込んだ。<o:p></o:p>
美しい、広い庭園だ。建物は、尖った屋根やヴェランダや、まるで西洋の中世期の寺院のようだった。それが火の海を背景に、そしてまだ蒼い黎明の空を背景にくっきりと最後の姿を浮かべていた。<o:p></o:p>
庭にはB29の翼が落ちていた。おそらく厚生省の傍に落ちていた尾翼と同じ機体であろう。その翼の上に、雀みたいに町民どもが並んで、<o:p></o:p>
「惜しいなあ!」<o:p></o:p>
「助けたいものだがなあ」<o:p></o:p>
と、口々に嘆声を発していた。しかしみな腕をこまねいているだけで、どうやらこの富めるものの潰滅の光景に、どこか歓喜をおぼえている眼のかがやきでもあった。<o:p></o:p>
赤い火が、屋根の青い瓦を蛇のようにチロチロとなめはじめた。大邸宅はゴウーと微かに、しかし重々しい、物凄いうなりを立て出した。<o:p></o:p>
消防隊のホースはもうこの邸の方は放棄して、庭園の樹々を必死に濡らすのにかかっていた。自分は、いまこの燃え始めた邸の一階、二階、三階を一人で駆け回ってみたい衝動を覚えた。<o:p></o:p>
十人あまりのボロボロの菜っ葉服を着た少年の群が、長い塀に両手をかけて押し倒そうと汗を流していた。<o:p></o:p>
「チキショーめ、でっかい家を作りやがったなあ!」<o:p></o:p>
など、嘆声をあげている。近くの町工場の少年工であろう。その頭上から、樹々に向けられたホースの水が真っ白な夕立みたいに注ぎかけられた。彼らは濡れ鼠みたいになって奮戦していた。<o:p></o:p>
津雲邸はついに炎の城になりかかっていた。<o:p></o:p>
しかし夜はまったく明けたし、まわりは大体鎮火したし、もう延焼のおそれはまずなかった。自分は死ぬほど疲労していた。眼のまわりにクマが出来ているような気がした。この大邸宅の炎上する美観を見たいという芸術的欲望も、今にも倒れそうな睡魔にはかなわなかった。<o:p></o:p>
恐ろしい混雑の町を帰った。109<o:p></o:p>
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