(大久寺)
関家の墓
關家累代之墓(左)關重麻呂墓(右)
慶応三年(1867)、十二月十五日、荻野山中陣屋が夜襲を受けたという報を受け、関成重麿(一臈)が藩兵を率いて出陣した。関は暴徒の退散を確認して帰城した。続いて、薩摩藩邸焼討事件の逃亡者が川崎宿から大山街道に入ったとの報に接し、再び出動している。関重麿は、このときの様子を後に「六十夢路」という手記にまとめている。関重磨は、関小左衛門美章(関家墓所の墓標にその名前が刻まれている)の嫡子。戊辰戦争当時三十二歳という壮年であった。
(小田原高校)
小田原高校 堅忍不抜碑
県立小田原高校は明治三十三年(1900)創立という伝統ある学校で、歴史を遡れば藩校集成館に起源を有する。山縣有朋「至誠無息」と東郷平八郎「堅忍不抜」を校訓とし、正門前には山縣、東郷の直筆の石碑が置かれている。初代校長は吉田庫三。松陰のあと、吉田家を引き継いだ人である。
靖献之碑
小田原高校から少し下がった林の中(大久保神社の隣)に西南戦争に従軍して戦死した二十四名と戊辰戦争の小田原藩戦死者十三名を慰霊するために、明治十一年(1878)に建立された靖献之碑がある。石碑の裏面には戦死者の氏名が刻まれる。その中には小田原を脱藩して鳥取藩士として上野戦争で戦死した杉山繁之助や農夫ながら夫卒として戦争に参加した高瀬市五郎も含まれている。
(常光寺)
常光寺
渡邊了叟の墓
常光寺境内は、板橋地蔵院(宗福寺)に隣接している。小田原藩家老渡辺了叟の墓がある。
渡辺了叟は、小田原藩の家老。小田原藩の藩論が定まらず、一時遊撃隊に加担した罪を問われ、その責任をとって戦後江戸藩邸で自刃した。武士らしい立派な最期だったという。墓石側面に記載されているところによれば、明治元年(1868)十月十日。享年五十三。
(誓願寺)

鈴木久太郎の墓
鈴木久太郎の墓を訪ねて再び誓願寺を訪ねた。墓地を三回くらいぐるぐる回ってようやく発見した。どうしてこの墓を発見するのに手間取ったかというと、墓の表面が風化して、さらに苔に覆われほとんど文字を読み取れなかったからである。墓地入口に近い場所にある。
鈴木久太郎は、慶応四年(1868)五月二十六日、山崎の合戦で戦死。二十五歳。墓の正面には涼性院機先常雄居士という久太郎の戒名とともに、彗林院實山妙貞大居士という文字が刻まれる。「慶応戊辰小田原戦役の真相」では「母親であろうか」としている。
(大乗寺)
大乗寺
林川本性霊位
「慶應戊辰小田原戦役の真相」(石井啓文・夢工房出版)によれば、裾野市須山で惨殺された薩邸浪士の栗林芳五郎、早川均、坂本嘉三郎の首は、大乗寺に葬られた。大乗寺には、「林川本」という三名の院号から取った漢字が刻まれた墓碑が建立された。「林川本」という字を目当てに墓地を歩くと、今度は呆気ないほど簡単に墓に行き着いた。墓碑には、三名が惨殺された「慶應三丁卯歳 十二月弐十八日」という日付も記されている。

関家の墓
關家累代之墓(左)關重麻呂墓(右)
慶応三年(1867)、十二月十五日、荻野山中陣屋が夜襲を受けたという報を受け、関成重麿(一臈)が藩兵を率いて出陣した。関は暴徒の退散を確認して帰城した。続いて、薩摩藩邸焼討事件の逃亡者が川崎宿から大山街道に入ったとの報に接し、再び出動している。関重麿は、このときの様子を後に「六十夢路」という手記にまとめている。関重磨は、関小左衛門美章(関家墓所の墓標にその名前が刻まれている)の嫡子。戊辰戦争当時三十二歳という壮年であった。
(小田原高校)

小田原高校 堅忍不抜碑
県立小田原高校は明治三十三年(1900)創立という伝統ある学校で、歴史を遡れば藩校集成館に起源を有する。山縣有朋「至誠無息」と東郷平八郎「堅忍不抜」を校訓とし、正門前には山縣、東郷の直筆の石碑が置かれている。初代校長は吉田庫三。松陰のあと、吉田家を引き継いだ人である。

靖献之碑
小田原高校から少し下がった林の中(大久保神社の隣)に西南戦争に従軍して戦死した二十四名と戊辰戦争の小田原藩戦死者十三名を慰霊するために、明治十一年(1878)に建立された靖献之碑がある。石碑の裏面には戦死者の氏名が刻まれる。その中には小田原を脱藩して鳥取藩士として上野戦争で戦死した杉山繁之助や農夫ながら夫卒として戦争に参加した高瀬市五郎も含まれている。
(常光寺)

常光寺

渡邊了叟の墓
常光寺境内は、板橋地蔵院(宗福寺)に隣接している。小田原藩家老渡辺了叟の墓がある。
渡辺了叟は、小田原藩の家老。小田原藩の藩論が定まらず、一時遊撃隊に加担した罪を問われ、その責任をとって戦後江戸藩邸で自刃した。武士らしい立派な最期だったという。墓石側面に記載されているところによれば、明治元年(1868)十月十日。享年五十三。
(誓願寺)

鈴木久太郎の墓
鈴木久太郎の墓を訪ねて再び誓願寺を訪ねた。墓地を三回くらいぐるぐる回ってようやく発見した。どうしてこの墓を発見するのに手間取ったかというと、墓の表面が風化して、さらに苔に覆われほとんど文字を読み取れなかったからである。墓地入口に近い場所にある。
鈴木久太郎は、慶応四年(1868)五月二十六日、山崎の合戦で戦死。二十五歳。墓の正面には涼性院機先常雄居士という久太郎の戒名とともに、彗林院實山妙貞大居士という文字が刻まれる。「慶応戊辰小田原戦役の真相」では「母親であろうか」としている。
(大乗寺)

大乗寺

林川本性霊位
「慶應戊辰小田原戦役の真相」(石井啓文・夢工房出版)によれば、裾野市須山で惨殺された薩邸浪士の栗林芳五郎、早川均、坂本嘉三郎の首は、大乗寺に葬られた。大乗寺には、「林川本」という三名の院号から取った漢字が刻まれた墓碑が建立された。「林川本」という字を目当てに墓地を歩くと、今度は呆気ないほど簡単に墓に行き着いた。墓碑には、三名が惨殺された「慶應三丁卯歳 十二月弐十八日」という日付も記されている。
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