史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

伊香保

2016年11月20日 | 群馬県
(伊香保神社)
司馬遼太郎の「北斗の人」は、千葉周作が始めた北辰一刀流が伊香保神社に額を奉納しようとし、それを阻止せんとする馬庭念流との間で激しい抗争となる。いわゆる「伊香保神社掲額事件」が最後を飾るクライマックスとなっている。この事件は司馬先生の創作ではなく、実際に文政五年(1822)に起きた事件である。結局、北辰一刀流側は掲額を断念する。従って今伊香保神社を訪ねても、当然ながらそこに北辰一刀流の額はない。


縣社伊香保神社


伊香保神社

 伊香保神社本殿に奉納額を発見。しかし、文字が一切読み取れず、残念ながら誰が奉納したものか分からない。


高山彦九郎の腰掛石

 高山彦九郎は、数えで二十九歳のとき、伊香保を訪ねている。「安永二年(1773)十一月十七日、米野から八崎へ出て、渋川手川を目指した。旅の目的は、手川の大島郷右衛門と、伊香保大屋十二軒の一つである大島甚左衛門を訪ね、大島氏の系譜を調べるためであった。」(赤城行)
 この時、伊香保神社に参拝し、この石に腰掛け、日記をつけたといわれる。

(伊香保温泉)


伊香保温泉

 伊香保温泉に入ると、温泉特有の硫黄の臭いが鼻を突く。伊香保温泉は、伊香保神社までの参道が石段となっており、高低差六十八メートル、その数三百六十五段である。三百六十五段というと、さほど大変な階段ではなく、わずか十分足らずで終着点伊香保神社に達する。因みに香川の金毘羅さんの石段は、千三百六十八段。さすがに千段を越えるとタフである。


伊香保関所跡

 階段の途中に伊香保関所が再現されている。伊香保は、高崎から越後に至る街道上に位置し、交通の要所であった。寛永八年(1631)、幕府の命によりこの地に伊香保村口留番書(関所)が設けられ、明治二年(1869)に廃止される二百三十八年にわたりその役割を果たし続けた。


松根東洋城句碑

 関所跡のすぐ下の公園に俳人松根東洋城の句碑がある。松根東洋城は、明治十一年(1878)の生まれで、正岡子規の知遇を受けた俳人であるが、直接「幕末維新」とは関係はない。ただし、東洋城の父は、宇和島藩家老松根図書なもので、ここで紹介した次第である。石碑に刻まれた俳句は、東洋城揮毫のものである。

 秋風や いかな動かぬ 山の大

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