史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

長崎 寺町 Ⅲ

2015年07月05日 | 長崎県
(皓臺寺つづき)


幣振坂

 皓臺寺と大音寺の間の細い坂道を幣振坂(へいふりざか)と呼ぶ。昔、諏訪神社の鳥居に使用するため石材を麓に下す際、人夫たちを鼓舞するために御幣を振ったことに由来するという。この急な坂を、息を切らせて上ると、その途中に楠本滝、楠本イネ、二宮敬作らの功績を称えた顕彰碑がある。さらに坂を進むと、左手に楠本家の墓所がある。


顕彰碑


楠本家之墓(楠本イネ墓)

 楠本家の墓に楠本イネが合葬されている。場石の側面に「実相院法林恵空大姉」という法名とともに、「明治三十六年八月二十六日歿 楠本イネ 七十七才」とある。
 楠本イネは、シーボルトと滝との間に生まれた。滝がシーボルトに宛てた手紙に「イネは器量よしで利発な子」と書いたように、筋の通った高い鼻に碧い目、さらには色白のすらっとした長身で、なかなかの美人だったという。
 二宮敬作の勧めもあり、弘化二年(1845)以降、宇和島の二宮敬作のもとで医業の修業に励んだ。さらに、同じくシーボルトの門人で岡山の石井宗謙のもとで産科を学んだ。その後も宇和島で蘭学者村田蔵六(のちの大村益次郎)についてオランダ語を学んだほか、長崎では医学伝習所の教官ポンぺや精得館教頭ボードウィン、その後任のマンスフェルトなどについて、最新のオランダ医学を学んだ。
 イネの履歴によれば、明治三年(1870)二月から同十年(1877)二月まで東京京橋区築地一番地で産科医を開業とある。明治六年(1873)には宮内省から産科医として御用掛に任命されている。
 イネは我が国最初の女医と言われる。女医の第一号は、明治十八年(1885)、医術開業試験に合格した荻野吟子であるが、イネが開業した当時、このような開業試験制度はなかったため、宮内省の任命をもって、イネが我が国最初の女医と称されることになった。
 明治十年(1877)、築地の病院を閉じて一旦長崎に帰ったが、のちに再び東京で開業した。明治三十六年(1903)八月、没。


二宮敬作墓

 二宮敬作は、伊予国宇和島郡磯崎浦(現・愛媛県八幡浜市保内町磯崎)に生まれた。文政二年(1819)、医学修行のため長崎に遊学。同六年(1823)、シーボルトが来日すると、以後約六年間シーボルトに師事した。シーボルトの信頼厚く、文政九年(1826)、シーボルトが商館長ステュルレルの江戸参府に同行すると、敬作もシーボルトの助手として随行してシーボルトの日本研究を助けた。文政十一年(1828)、シーボルト事件に連坐して、敬作も入牢の上、江戸と長崎の追放刑に処された。天保元年(1830)、郷里の宇和島に帰ると、外科医および種痘医として開業。安政二年(1855)には宇和島藩の藩医に任じられた。高野長英や村田蔵六とも交友があり、嘉永二年(1849)、高野長英が宇和島に遁れてきた際には自宅に匿ったといわれる。安政六年(1859)、シーボルト再来日の際には長崎に赴き、シーボルトとの再会を果たした。その後、長崎で開業したが、文久二年(1862)、諏訪町で病没した。五十九歳。
 二宮敬作の墓碑は、イネによって皓臺寺後山の墓地に建立されたが、のちに楠本家墓地内に移設された。


白巖妙滝信女(楠本滝の墓)

 楠本滝は、長崎の銅座町の商人楠本左平、きよ夫婦の四女に生まれた。父左平は、初めは手広く商売を手掛けていたが、次第にうまくいかず、ついには長女のツネや四女の滝を丸山の遊女にした。
 丸山の遊女には、日本人、唐人、阿蘭陀人の三段階があった。ツネは阿蘭陀行となり、源氏名を千歳といった。ツネも美人であったが、滝はそれ以上に美人だったという。滝は十五歳のとき丸山の引田屋(現・料亭「花月」)の遊女となり、其扇という源氏名で阿蘭陀行となった。十六歳のときオランダ商館医シーボルトに呼び入れられた。シーボルトと滝の仲は睦ましく、文政十年(1827)にはイネが生まれた。シーボルト事件が起こると、滝も厳しい取り調べを受けたが、シーボルトをかばい通した。明治二年(1869)、六十三歳で亡くなった。
 滝と同じ墓には、シーボルト帰国後、滝が再婚した時治郎(法名「釋 是念信士」)が葬られている。


山本晴海墓

 山本晴海は、文化元年(1805)の生まれ。高島秋帆に砲術を学び、高弟となった。長崎にて私塾柿陰古屋(しいんこや)を開いた。慶応三年(1867)二月、死去。六十三歳。航海術開拓者竹内貞基は実弟、明治時代に活躍したフランス学者山本松次郎は子である。


得應月潭居士(竹内貞基の墓)

 竹内卯吉郎貞基は、文化十年(1813)の生まれ。兄晴海の跡を継いで海警を司る船番役となった。天保三年(1832)から十二年(1841)まで高島秋帆に西洋砲術を学び、さらに中島広足に師事して国学。和歌を修めた。安政元年(1854)、船番触頭大木藤十郎の指揮下に蘭人グファビュース反射炉使用法、汽船操法等の直伝習を受けて、佐賀藩に出講。安政二年(1855)から幕臣、諸藩士とともに海軍伝習を受けた。安政四年(1857)、観光丸運用長として江戸へ廻航、軍艦教授所教授となり、航海術の普及に貢献し、翌年帰国した。文久二年(1862)家督を山本晴海の子に譲って隠居。文久三年(1863)、五十一歳にて死去した。


天山先生阪本君之墓

 墓地を歩いていて偶然阪本天山の墓に出会った。どうして長崎に天山の墓があるのだろうか。天山は高遠藩を脱藩した後、長州藩や大村藩に招かれて砲術を指南しており、さらに平戸藩でも藩士の教育に当たっている。享和三年(1802)長崎で病没したため当地に墓が設けられたものと思われる。嘉永三年(1850)、吉田松陰は九州遊歴の旅に出る。この時、阪本天山の墓に詣でている。

 この辺りは急な斜面にこびりつくように墓が広がる。その気になって探せば、もっといろいろな人物の墓が見つかるかもしれない。

(大音寺)


大音寺

 大音寺には、フェートン号事件で責任を負って自刃した松平康英の墓がある。また中山家墓所には、シーボルトの高弟美馬順三の墓がある。


長崎奉行松平康英墓所

 松平康英は第八十一代の長崎奉行。初め康秀または康平ともいい、任官して図書頭を名乗った。康英の在職当時、欧州ではナポレオン戦争のさなかでオランダとイギリスは交戦状態にあった。文政五年(1808)八月十五日、イギリス軍艦フェートン号が長崎港に不法入港し、オランダ商館員二名を人質にとり、燃料、食糧、水を要求した。康英はイギリスの要求を全て飲み、結果、フェートン号は二日後に立ち去った。康英は責任を痛感して、始末を記述した遺書を残して自殺した。享年五十一。市民は深く哀悼の意を表し、諏訪神社内に康平社(図書明神)を祀った。


中山家墓地

 オランダ通詞中山家の墓地には、中山氏の一族二十五基の墓とシーボルトの高弟美馬順三の墓がある。中山家は始祖作左衛門が寛文三年(1663)に稽古通詞(のちに小通詞)任じられて以来、八代にわたってオランダ通詞を務めた。六代作三郎武徳は御用和蘭字書翻訳認掛として、ヘンリック・ドゥフの指導で行われた蘭日対訳辞典「ドゥフ・ハルマ」の編纂に従事し、これを完成させた。


密山即順居士(美馬順三の墓)

 美馬順三は、寛政七年(1795)阿波羽ノ浦で生まれた。長じて学問を志し先ず京に出て、その後長崎で学んだ。ジーボルトが来日するとその門下に列し、シーボルトが開いた鳴滝塾の初代塾頭となった。シーボルトが多くの門人から美馬順三を塾頭に選んだのは、勿論優れた学才もあったろうが、彼の人望の厚さが際立っていたこともあったのであろう。美馬は、賀川玄悦の「産論」をオランダ語に訳して西洋に紹介、ジェンナーの種痘法を日本語訳するなど、多大な功績があった。しかし文政八年(1825)コレラに罹り急逝した。


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