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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

三春

2012年10月06日 | 福島県
(三春城)


舞鶴城址

 今回の史跡旅行では、前半は天気に恵まれたものの、福島県に入ってからは雨に悩まされた。天気予報では「局地的に雷を伴う豪雨となる」と繰り返し報じていたが、当たらなくて良い予報ほど的中するものである。私が三春城に足を踏み入れたとき、まるで堰を切ったように大雨となり、とてものんきに史跡散策という状況ではなくなった。何とか本丸跡までたどりついたが、すぐさま引き返すことになった。


明治戊辰役三春藩烈士碑

 三春藩は、外様(秋田氏)五万石である。
 慶應四年(1868)七月二十六日、三春藩が突然、新政府軍に寝返った。列藩同盟に参加したものの、三春藩上層部は最初から勤王寄りであった。五月三十日には、京都に使者を送り、朝廷に救援を要請していた。七月に河野広中が土佐藩の板垣退助に接触し、新政府軍を三春城内に迎え入れることに成功した。その一方で近隣の二本松藩や福島藩には使者を派遣して同盟を装っていた。これに気付いた二本松藩では使者を惨殺した。三春城址には、この時殺害された四名を慰霊する明治戊辰役三春藩烈士碑が建立されている。

(紫雲寺)


紫雲寺

 三春城で豪雨に襲われ、逃げるように下山してそのまま紫雲寺に駆け込んだ。ここでも激しい雨は降りやまず、しばらく駐車場で待機するしかなかった。半時間もすると、雨が小降りになったので、ようやく車外に出ることができた。


磐州河野(広中)先生塋髪家

 維新後、自由民権運動の指導者となった河野広中の塋髪墓である。
 河野広中は、嘉永二年(1849)に三春に生まれた。生家は商家で郷士であったという。若い頃、漢学を学び、尊攘思想を抱いて水戸藩士らと交わった。戊辰戦争の時、二十歳の広中は、同志と図って三春藩を新政府に帰順させ、進んで会津征討に一隊を組んで参戦した。明治二年(1869)、若松県出仕。三春藩の捕亡取締、祀官を歴任し、磐前県第四大区小十四区副戸長、同戸長となった、この頃、中村正直の「自由之理」を読んで、それ以降自由民権家として活動した。大隈内閣で農商務大臣。大正十二年(1923)、年七十五で死亡。


井上弥太右衛門墓 近藤楠馬墓 江口精馬墓 日下専六墓 新兵衛墓

 紫雲寺には、本宮、二本松、若松などで戦死した土佐藩士らの墓がある。
 井上弥太右衛門は、土佐藩足軽。本宮にて戦死。二十一歳。
 近藤楠馬は、土佐藩歩行格。磐城山入にて負傷、のちに死亡。二十二歳。
 江口精馬は、小姓組。戊辰戦争では迅衝十番隊。二本末にて負傷、死亡。二十一歳。
 日下専六は、夫卒。若松にて陣没。
 新兵衛は、大村藩の中間。若松にて負傷、帰営後死亡した。

(龍穏院)


龍穏院

 龍穏院は、三春藩主秋田氏の菩提寺で、秋田氏の三春移封にともなって現在地に移転した。戊辰戦争では野戦病院として使われた。


戊辰之役忠魂碑


本木弥三郎墓

 本木弥三郎は、舘林藩士。慶應四年(1868)、九月五日、若松城下にて戦死。十八歳。


官軍 伊集院貞之助墓

 伊集院貞之助は、佐土原藩一番砲隊。慶應四年(1868)八月二十三日、若松にて戦死。二十八歳。

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