史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

本宮 Ⅲ

2020年04月11日 | 福島県

(石雲寺)

 

石雲寺

 

 石雲寺の墓地を歩いていて転倒してしまった。正確にいうと、墓地の縁石に足をひっかけて一瞬宙を飛んだあと、上半身から地面にたたきつけられた。首から下げていたカメラが無事だったのは幸運であったが、その代わり両手両膝を擦りむくケガを負ってしまった。

 

小田井蔵太一成之碑

 

 小田井蔵太は、天保元年(1830)、江戸の生まれ。幼くして父を失い、母にともわれ二本松鈴石(現・二本松市)に移り住んだ。長じて江戸にでて幕臣・川窪駿河守の学僕となる。   斎藤弥九郎について剣術を修めた。嘉永六年(1853)、幕臣に取り立てられ、安政二年(1855)、箱館奉行堀織部正に従って北辺警備に派遣された。慶應四年(1868)、彰義隊に加盟し、副隊長に推挙された。上野戦争後、残党を率いて東北に下り、会津藩を助けて戦った。明治四年(1871)、水戸県大参事に任ぜられたが、間もなく帰農。安達太良山開発などに従事した。明治二十二年(1889)、死去。五十九歳。

 

糠沢直之允の墓

 

 糠沢家は本宮有数の商家で郷士であったが、直之允は幼少のころから不幸が続き、苦難のうちに成長し、二十六歳の時、志を立て仙台で薬種商の見習いとなった。後に二本松で薬種商を開き、元治元年(1864)、本宮に帰り、糠沢家を再興した。直之允は和歌を好み、仙台において藩の侍医錦織即休(千柳亭綾彦)について学び、綾尚と称した。明治九年(1876)六月十七日、明治天皇本宮通過の際、雷神清水の歌などを奉献し、有名になった。

 

 大君のわきて仕うる真清水の

 そこを思へばたふとかりけり

 

 また、公共に尽くし、明治十一年(1878)、第一回県会議員に選ばれ、各種の名誉職も勤め、地域社会の発展にも尽くした。明治四十二年(1909)、死去。七十九歳。

 

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