(秋月墓地)
秋月墓地(高鍋藩主秋月家の墓地)への登り口が分からなくて、愛宕神社の境内を探してみたり、高鍋町総合体育館の裏手まで進入してみたが、見つけることができずギブアップした。
最終日、時間ができたので、再度高鍋町まで戻り、再アタックすることにした。最初に高鍋町を訪ねたのがちょうど月曜日だったこともあり、高鍋町歴史総合資料館や黒水邸は休館であった。尋ねるにも適当な人がいなかったが、この日は資料館も黒水邸も開館していた。
ところが、資料館の受付で聞いてみると、
「私はこの辺の者ではないので、分かりません。隣の舞鶴神社の神主さんが詳しいので、訊いてみてください。」
という回答であった。
舞鶴神社で御守を売っている巫女さんに神主さんに会いたいと申し入れたところ、「外出中です」というツレナイ回答であった。諦めきれずに黒水邸に移動し、そこで解説をしているボランティアの方に確認したところ、
「確か、町役場の向かい側にあったと思う。」
ということであった。何のことはない、行ってみれば直ぐに登り口は見つかった。
秋月墓地は大龍寺、安養寺、龍雲寺という三つの秋月家の菩提寺の墓地の総称である。三寺とも廃仏毀釈により廃寺となり、今では墓地のみが残されている。
秋月墓地(大龍寺跡)
このうち大龍寺墓地には、二代秋月種春、四代種政、五代種弘、八代種徳、九代種任(たねただ)、十代種殷(たねとみ)の歴代藩主のほか、維新後明治天皇の侍読をつとめた種樹(たねたつ)の墓がある。
泰雲院殿前城州太守寶山宗真大居士
(秋月種徳の墓)
子爵正五位秋月種繁墓
俊徳院殿前筑前太守寛道宗裕大居士
(秋月種任の墓)
従二位勲二等秋月種樹墓
秋月種樹は、天保四年(1833)の生まれ。父は九代藩主種任。少年時代、塩谷宕陰に学び秀才の誉れ高く、小笠原明山(長行)、本多静山(正訥)と合わせて「天下の三公子」と称された。文久二年(1862)、学問所奉行となり、翌文久三年(1863)、若年寄を兼ね、将軍家茂の侍読となった。外様大名の世子としては異例の抜擢であった。元治元年(1864)、病気という理由で幕職を辞したが、慶応三年(1867)六月、幕府は突然再び種樹を若年寄に任じた。幕勢は既に衰え、再興すべくもなく、側近である城竹窓、秋月種節、坂田莠らは辞退すべしと主張し、種樹も出仕の命に従わなかった。同年十二月になって辞任が許された。明治元年(1868)、新政府参与、ついで明治天皇の侍読となった。明治二年(1869)、版籍奉還を諸藩に訴え、また彼が建議して設立された公議所の議長や大学大監、左院少議官などを歴任した。明治四年(1871)、官を辞して、翌明治五年(1872)欧米を旅し、帰国後、元老院議官、貴族院議員などになった。漢詩を能くし、書は初め顔真卿を学び、山陽流を経て独特の書風に達した。絵は狩野派に学び、南画を経て富岡鉄斎に傾倒し、独自の境地に至った。明治三十七年(1904)、七十二歳で没。
高鍋藩知事秋月公霊(秋月種殷の墓)
秋月種殷は、文化十四年(1817)の生まれ(文政元年説もあり)。父は高鍋藩主秋月種任。種樹の兄。天保十四年(1843)、封を継ぎ、翌弘化元年(1844)、法令六八条を発布し、藩内を整えようとした。また学問を奨励し、嘉永年間、邸内に寄宿寮切徳楼を設け、優秀な学生を収容し、学費を与えて勉学させた。安政五年(1858)、入牢罪人取扱規則を、文久元年(1861)には大赦施行法を定めて仁政をしいた。一方、囲いもみを強化し、砂糖製造や部分林制度も始めた。同時に武備にも心を用い、延岡藩と協力し、細島砲台を築き、幕府に賞された。横浜住まいの外国人が使者を本国に派遣する機会に、幕府が種殷に内密の海外渡航を命じたが辞した。慶應四年(1868)の戊辰戦争では藩兵を東北に出征させ、賞典禄八千石を永世下賜された。明治二年(1869)六月、高鍋藩知事に任じられ、明治四年(1871)七月、廃藩によりこれを免じられた。明治七年(1874)、没。
(黒水家住宅)
黒水家住宅
籾蔵
黒水家住宅(高鍋藩家老屋敷)は、高鍋藩秋月氏の家老職を勤めた黒水家の家で、家老屋敷と呼ばれている。黒水家は代々藩の兵法家としての家柄であった。
黒水邸に移設されている籾蔵は、明治十年(1877)の西南戦争の際、薩軍に好意的ではない九人を閉じ込めた仮牢として使用された建物である。藩政時代は籾蔵として使われ、現・高鍋農業高校のテニスコート(明治時代は郡役所)に立っていたのを、黒水長慥が譲り受けて、この地に移設したものである。
(舞鶴公園)
高鍋城は、その地形が、鶴の羽ばたく姿に似ていたことから、舞鶴城とも呼ばれた。その名前に因んで舞鶴公園と呼ばれている。現在、史跡公園として整備され、園内には高鍋町歴史総合資料館や秋月種樹の邸宅を復元した萬歳亭、護国神社、舞鶴神社などがある。
高鍋城は、平安時代中期に土持氏の所有となったのを皮切りに、伊東氏、島津氏に引き継がれ、島津氏が豊臣秀吉に降伏したのち、明治の廃藩まで秋月氏の居城となった。
高鍋町歴史総合資料館
萬歳亭はなれは、秋月家十一代当主種樹の住まいである。昭和十七年(1942)には本家を新築、別棟をそのまま残し屋根を瓦葺にして秋月種英(種樹の次男)が書斎として愛用していたものである。
萬歳亭はなれ
高鍋護国神社
高鍋護国神社は、戊辰戦争以来の高鍋出身者の殉難者を祀る神社である。戊辰戦争における高鍋藩の戦死者は十四名。うち十一名の墓は、ここから少し離れた谷坂墓地にある。
西南戦争への高鍋出身者の戦死者は七十八名にのぼる。
高鍋城跡
高鍋市街
戊辰役殉難招魂之碑
この石碑は、谷坂墓地にあったが、西南戦争後、ここに移された。明治元年(1868)篤月、高鍋藩に出征の命が下り、武藤東四郎を総指揮、鈴木来助を隊長に高鍋隊を編成し、北越、東北を転戦した。碑文は秋月種樹の書。明治七年(1874)八月の建立。
西南之役丁丑戦亡記念碑
丁丑戦亡記念碑は、風雨による劣化が甚だしかったため、戦後旧碑に似せて再建されたものである。碑文は儒者城勇雄の書。明治十四年(1881)の建碑。
西南戦争が起こると、高鍋では官軍につくか、薩摩軍につくかで二派に別れたが、郷土が孤立することを恐れ、最終的には薩摩軍に参加を決した。
高鍋隊は、熊本田原坂の激戦をはじめ、各地を転戦したが、終に官軍に降伏した。城勇雄は、参戦に反対し、同士とともに一時は苦境に陥ったが、戦後、この碑文を書くことを請われたときの事情が碑文に記されている。
高鍋から西南戦争に参加した者は、七百余名。戦死者は七十八人、受刑者二十人という甚大な傷痕をのこした。
(谷坂官軍墓地)
谷坂官軍墓地
谷坂官軍墓地
谷坂官軍墓地には、高鍋藩より出征し、戊辰戦争で戦死した以下の十一名が葬られている。
大塚安節(医師)
鈴木来助(隊長)
吉田兵太郎
福崎良一(小隊長)
小嶋和兵衛
綾部弟蔵
綾部末五郎
杉畩太郎
坂田正太郎
山内才次郎
甲斐金吾
平林墓碑(平林忠恕の墓)
平林忠恕は、上江戸長から県議会議員、村会議員として活躍した人。養蚕、製糸業の振興に尽くした。秋月種樹の書。明治二十四年(1891)の建碑。
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