史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

郡山 Ⅰ

2012年10月06日 | 福島県
(石筵古戦場跡)


石筵古戦場跡

 初めて郡山市を旅した。地方の小都市だと思っていたが、予想外に大きな街であった。あとで調べたところ、人口は三十二万人を越え、人口だけで比べれば県庁所在地である福島市や会津若松市より大きいのである。


石筵古戦場周辺の風景

 史跡は市街地よりも、北方の湖南町およびその周辺に集中している。
 母成峠への登り口にあたるのが石筵という集落である。会津軍は、この周囲に三段の陣地を構えた。また、新政府軍に拠点を与えないため、慶應四年(1868)八月二十日、石筵の集落を焼き払った。その翌日、新政府軍三千は二手に分かれて猪苗代方面を目指した。迎える会津藩軍は八百。戦闘は朝九時に始まり、約七時間に及んだ。火力に勝る新政府軍は戦いを優利に進め、次第に母成峠に迫った。

(観音寺)


観音寺

 石筵集落にある観音寺には、大森久之助の墓がある。


大森久之助墓

 大森久之助は、地元の農民で新政府軍に軍夫として徴用されたらしい。八月二十一日、猪苗代にて戦死。


橋本次郎七之遺跡

 橋本次郎七は、石筵の猟師。迂回部隊の道案内を務めた功績により戦後恩賞を受けた。集落を焼き払われた石筵の住民は、会津藩を恨み、新政府軍に協力した。新政府軍の右翼隊は、山中を迂回して会津藩兵の守る勝岩の陣地を攻撃し、敗走させることに成功した。

(正福寺)


正福寺

 正福寺には新選組松本喜次郎の墓がある。松本喜次郎は、文久三年(1863)頃の入隊といわれる。池田屋事件にも参加した古参隊士である。鳥羽伏見の戦い、甲陽鎮撫隊にも加わったが、戦後、永倉新八、原田左之助らの靖共隊に参加した。その後、新選組に復帰して北関東から会津まで転戦した。慶應四年(1868)八月十四日に戦死。


松本喜次郎(新選組隊士)墓

(千手院伏龍寺)


千手院伏龍寺

 千住院伏龍寺は、戊辰戦争で新選組が野戦病院として使用したという。


大竹一郎・善吾墓

 会津藩大竹一郎および同姓善吾の墓である。両名とも会津藩大竹熊四郎の子。
 大竹一郎は六石二人扶持。青竜一番隊付三代口小人。慶應四年(1868)五月一日、磐城白河にて戦死。十八歳。善吾は同じく三代口小人。一郎と同じ日に磐城白河で戦死した。十五歳。

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