(専念寺)
白河を訪ねるのは実に七年振り、三回目となる。戊辰戦争の激戦地であり、これだけ歩いてもまだ新しい関連史跡と出会うことができる。
この日、最初の訪問地は専念寺である。墓地に戊辰殉難者会津藩の渋井小次郎の墓がある。
専念寺
渋井家之墓(渋井小次郎墓)
渋井小次郎は、小太郎の弟。墓石によれば、小太郎は明治二十二年(1889)、三十八歳にて死亡したとなっている。小次郎は、遊撃三宅隊嚮導。慶應四年(1868)、八月十四日(十六日とも)、越後赤谷にて戦死。十六歳。墓誌によれば、七月一日没。十七歳。白虎隊士となっている。
(大統寺)
大統寺
當寺玉鳳賢邦哲長〇〇禅師(賢邦の墓)
賢邦は大統寺住職。薩摩出身ということもあり、戊辰戦争の際、両軍の間に立って斡旋した。西軍参謀の使となって棚倉藩に恭順を勧めたとも伝えられている。明治二十二(1889)、五月十四日没
(脇本陣柳屋跡)
白河本町の脇本陣柳屋は、柳下源蔵が経営していた。慶應四年(1868)の戊辰戦争では、白河口の戦闘に参戦した斉藤一隊長率いる新選組百七名が宿泊し、五月一日の激戦にもここから出陣した。
脇本陣柳屋跡
明治天皇白河行在所附御膳水
明治十四年(1881)、明治天皇の東北巡幸の際に往路は休憩所、復路は天皇の宿泊所となり、玉座と呼ばれる書院や御膳水跡(つるべ井戸)などが今に伝えられている。
柳屋旅館跡
この蔵は、柳屋旅館で使用されていたもので、明治天皇の行在所である。内部には違い棚や書院などを備えた床の間と座敷があり、玉座と呼ばれている。
(旅館久下田屋)
旅館久下田屋のホームページによると、「吉田松陰逗留の宿」と謳っている。確かに嘉永五年(1852)、松陰は宮部鼎蔵とともに一月二十五日から二十七日まで白河に滞在しているが、どこに宿泊していたかはよく分からない。
旅館久下田屋
(小峰寺)
小峰寺を入ると、本堂の前に赤い頭巾をかぶった六体の地蔵が置かれている。竹さんの「戊辰掃苔録」によれば、この中の一つが住職善澄和尚を表しているそうである。善澄は、城下に戦火が迫るのを早鐘を打って町民に知らせたため、会津藩のために銃撃されたという。
小峰寺
善澄墓?
戦死供養碑
戦死供養碑は、やはり白河における戦死者を供養するもの。
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