(長久寺)
長久寺
本立院道全日忠信士(本橋久兵衛の墓)
長久寺の墓地に棚倉藩本橋久兵衛の墓がある。
本橋久兵衛は銃卒。慶應四年(1868)五月一日、白河にて戦死。
竹さんの「戊辰掃苔録」によれば、長久寺にはやはり棚倉藩から出陣し、白河にて戦死した奥原三吉の墓もあるはずだが、墓地を四~五周見て回ったが発見できず。
(蓮生寺)
蓮生寺
植村半蔵の墓
植村半蔵は棚倉藩士。慶應四年(1868)五月一日、白河にて戦死。
(降福寺)
慶応四年(1868)五月六日に奥羽二十五藩と越後六藩から成る奥羽越列藩同盟が成立する。当時、棚倉藩は白河合戦中の後方基地の役割があった。隆福寺では、奥羽越列藩同盟軍各藩隊長の軍議が開かれ、棚倉落城の六月二十四日まで続いたとされる。
隆福寺には墓地らしい空間がなく、境内の片隅に無縁となった墓石が積み上げられているのみである。その中に太田友治と権田東左衛門という二人の棚倉藩士の墓石がある。
降福寺
太源院儀道了忠居士(太田友治の墓)
太田友治は副軍目付。慶應四年(1868)五月二十六日、白河合戦坂にて戦死。
権田東左衛門の墓
権田東左衛門は銃士小隊長。慶應四年(1868)六月十二日、白河にて戦死。
(蓮台寺)
隆福寺に隣り合う蓮台寺は、本堂の手前まで民家が建てられており、墓地らしい墓地は見当たらず、参道脇に古い墓石が並べられているのみである。その中に武川(たけかわ)子之吉の墓石がある。
蓮台寺
力戦院武勇軍功居士(武川子之吉の墓)
棚倉藩武川子之吉は銃卒。慶應四年(1868)六月二十四日、棚倉にて戦死。
(常隆寺)
常隆寺
髙刃院忠顯義勇居士(本多九右衛門の墓)
常隆寺の無縁墓石の最前列に本多九右衛門の墓が置かれている。
本多九右衛門は、棚倉藩銃卒小隊長。慶應四年(1868)六月二十四日、棚倉にて戦死。
奥原三吉墓
常隆寺墓地を歩いていて偶然奥原三吉の墓を発見した。平成三十年(2018)十月吉日に長久寺から移設されたことが傍らの石板に刻まれている。
奥原三吉は、棚倉藩銃士。慶應四年(1868)五月二十八日、白河合戦坂にて戦死。
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