食膳を前に
「いただきます」と
手を合わせる
それは
誰に向かって
言っているのか
考えもせずに
五十数年間も
そうするものだという
しきたりのような
儀式のような
慣習のような
儀礼のような
形式として
繰り返された
「いただきます」は
その料理を
作った人に
返す言葉なのだろうか
あるいは
食事を施してくださる方に
向けられるべき
ことばなのだろうか
あなたの心をこめて
私に調理してくださったという
その労力や技術に感謝して
発せられるのだろうか
私は殺したことがある
魚を鳥を鶏を
殺すためだけに
命を奪ったのではなく
私たちのいのちを
つなぐために
いただいたいのちだった
放し飼いの
鶏を捕まえるためには
今からお前を殺すために
捕まえてやろうなどと
そう思って近づくと
鶏はその殺気を鋭く感じて
とてつもなく素早く
縦横無尽に
必死になって
逃げ回るのだ
だからぼくは
さも違うことを考えていると
鶏に思わせながら鶏とすれ違って
違う方向に行くと見せかけて
いきなり
その可愛い両足を払うように
タックルするのだ
こうでもしないと
たった一羽の
鶏ですら
捕まえることなど
できはしない
捕まえた鶏を
調理するには
段取りがあって
まずは
そのいのちを
葬らなければならない
鶏の両足を
左右に張った
ロープに吊るし
鶏の頭を
左手でつかみ
右手で
よく切れる包丁で
その首の血管を
一気に引き裂くのだ
すると
鶏の首から
鮮血が
ぴゅっと
噴出すのだ
鶏は自分の身体に
何が起きたのかすら
わからぬまま
ただ羽をばたつかせ
騒ぎまくる
鮮血を周囲に振りまきながら
幾度か声を「ケーッ」と振り絞り
幾度か
身体を痙攣させながら
次第に
絶命していくのだ
台所では
この鶏の
羽根をむしりやすくするために
大鍋が
ぐつぐつと湯を滾らせて
沸いている
先ほど絶命したばかりの
鶏をこの鍋に入れ
しばらく煮ると
今度は
鶏の身体の羽根を
むしりとっていく
ブチッブチッという
羽根をむしる時には
音がする
こうして
鶏が素っ裸になるまで
羽根という羽根を
きれいにむしりとって
丸裸の鶏が
まな板の上に
並べられる
今度は包丁で
鶏の両足の真上から
一直線に皮を切り
内臓を順番に
切り分けていく
胃だの心臓だの砂肝だの
胆嚢だってある
こうして切り分けられた内臓が
水できれいに洗われて
目の前の大皿に並べられて
それはまた
美しく輝いてさえ見える
さらに解体は進んで
今度は手羽先や、
モモ肉などに切り分けられて
ようやく
調理へと進んでいくのだ
鶏のスープ
串焼き
フライ
炒め物
一つとして捨て去るものはない
小一時間もすればついに
美味しい匂いが部屋中を
殺戮の匂いをかき消すように
満たしているだろう
しかし
ここまでに至る
時間と
手間隙と
あの生きていた
確かに生きていた
死にたくなかった
鶏の断末魔の声や
飛び散った
鮮血と
羽根のまま煮ると
鼻を突いた羽根の匂いを
私の感覚は
記憶し続けている
私たちが
命をつなぐために
毎日繰り返さなければならない
いのちの収奪行為は
そのたびに繰り返されているのだ
これだけの手続きがあって
はじめて
私たちの胃袋は満たされ
飢えを知らないままに
明日を迎えられるのだ
あの逃げ回った鶏にだって
父も母も兄も弟も姉も妹も
家族がいたに違いない
死のうと思って生まれたのではない
食われたいために
いのちをつないだのではない
そのいのちの営みや
希望や喜びを
断ち切って
私たちは
今を生きるのだ
「いただきます」という
その言葉は
あの死んでいったものたちに
向けられるべきものなのではないか
「あなたの命を
私たちが
長らえるために
命に代えさせていただきます」
そういう言葉でもあるはずなのだ
現代の食生活は
豊かな食材で
満たされているかのように見える
すべてのいのちは
いのちの実感を感じない
切り分けられた部分で
売られている
調理する人でも
その料理を食べる人でも
そのいのちの絶命する
姿など
思う人もない
結局子どもたちですら
そのいのちを
途中で残したり
好き嫌いをしたり
残したまま
未練もなく捨て去ったり
「いただきます」の
感謝の祈りが
廃れていくのだ
省略すべきではないのだ
「あなたの命を
私たちの
いのちを
つなぐために
いただきます」
そうでも言わなければ
誰もそのいのちの
尊さや
ありがたみが
失われてしまうのだ
「いただきます」と
手を合わせる
それは
誰に向かって
言っているのか
考えもせずに
五十数年間も
そうするものだという
しきたりのような
儀式のような
慣習のような
儀礼のような
形式として
繰り返された
「いただきます」は
その料理を
作った人に
返す言葉なのだろうか
あるいは
食事を施してくださる方に
向けられるべき
ことばなのだろうか
あなたの心をこめて
私に調理してくださったという
その労力や技術に感謝して
発せられるのだろうか
私は殺したことがある
魚を鳥を鶏を
殺すためだけに
命を奪ったのではなく
私たちのいのちを
つなぐために
いただいたいのちだった
放し飼いの
鶏を捕まえるためには
今からお前を殺すために
捕まえてやろうなどと
そう思って近づくと
鶏はその殺気を鋭く感じて
とてつもなく素早く
縦横無尽に
必死になって
逃げ回るのだ
だからぼくは
さも違うことを考えていると
鶏に思わせながら鶏とすれ違って
違う方向に行くと見せかけて
いきなり
その可愛い両足を払うように
タックルするのだ
こうでもしないと
たった一羽の
鶏ですら
捕まえることなど
できはしない
捕まえた鶏を
調理するには
段取りがあって
まずは
そのいのちを
葬らなければならない
鶏の両足を
左右に張った
ロープに吊るし
鶏の頭を
左手でつかみ
右手で
よく切れる包丁で
その首の血管を
一気に引き裂くのだ
すると
鶏の首から
鮮血が
ぴゅっと
噴出すのだ
鶏は自分の身体に
何が起きたのかすら
わからぬまま
ただ羽をばたつかせ
騒ぎまくる
鮮血を周囲に振りまきながら
幾度か声を「ケーッ」と振り絞り
幾度か
身体を痙攣させながら
次第に
絶命していくのだ
台所では
この鶏の
羽根をむしりやすくするために
大鍋が
ぐつぐつと湯を滾らせて
沸いている
先ほど絶命したばかりの
鶏をこの鍋に入れ
しばらく煮ると
今度は
鶏の身体の羽根を
むしりとっていく
ブチッブチッという
羽根をむしる時には
音がする
こうして
鶏が素っ裸になるまで
羽根という羽根を
きれいにむしりとって
丸裸の鶏が
まな板の上に
並べられる
今度は包丁で
鶏の両足の真上から
一直線に皮を切り
内臓を順番に
切り分けていく
胃だの心臓だの砂肝だの
胆嚢だってある
こうして切り分けられた内臓が
水できれいに洗われて
目の前の大皿に並べられて
それはまた
美しく輝いてさえ見える
さらに解体は進んで
今度は手羽先や、
モモ肉などに切り分けられて
ようやく
調理へと進んでいくのだ
鶏のスープ
串焼き
フライ
炒め物
一つとして捨て去るものはない
小一時間もすればついに
美味しい匂いが部屋中を
殺戮の匂いをかき消すように
満たしているだろう
しかし
ここまでに至る
時間と
手間隙と
あの生きていた
確かに生きていた
死にたくなかった
鶏の断末魔の声や
飛び散った
鮮血と
羽根のまま煮ると
鼻を突いた羽根の匂いを
私の感覚は
記憶し続けている
私たちが
命をつなぐために
毎日繰り返さなければならない
いのちの収奪行為は
そのたびに繰り返されているのだ
これだけの手続きがあって
はじめて
私たちの胃袋は満たされ
飢えを知らないままに
明日を迎えられるのだ
あの逃げ回った鶏にだって
父も母も兄も弟も姉も妹も
家族がいたに違いない
死のうと思って生まれたのではない
食われたいために
いのちをつないだのではない
そのいのちの営みや
希望や喜びを
断ち切って
私たちは
今を生きるのだ
「いただきます」という
その言葉は
あの死んでいったものたちに
向けられるべきものなのではないか
「あなたの命を
私たちが
長らえるために
命に代えさせていただきます」
そういう言葉でもあるはずなのだ
現代の食生活は
豊かな食材で
満たされているかのように見える
すべてのいのちは
いのちの実感を感じない
切り分けられた部分で
売られている
調理する人でも
その料理を食べる人でも
そのいのちの絶命する
姿など
思う人もない
結局子どもたちですら
そのいのちを
途中で残したり
好き嫌いをしたり
残したまま
未練もなく捨て去ったり
「いただきます」の
感謝の祈りが
廃れていくのだ
省略すべきではないのだ
「あなたの命を
私たちの
いのちを
つなぐために
いただきます」
そうでも言わなければ
誰もそのいのちの
尊さや
ありがたみが
失われてしまうのだ